歴史家がひもとく真理①〜「歴史は繰り返さないが韻を踏む」〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

先日の歴史家・磯田道史氏のインタビューはおもしろかった。

おもしろかったのは、ある真理をあらためて知ることができたからだ。

なんとなく真実なのだろうとわかっていても、道理がわからなくモヤモヤしていたものが、霧が消えて視界が開けたとでもいうべきか。

彼が歴史学者としての将来を決定づけたのは、あることがきっかけだったという。

岡山藩池田家につかえる武士だった磯田氏の先祖。
高校生のとき、江戸時代に書かれた家系図や履歴書のような記録などがつづられた伝家の古文書を祖母から手渡された。

これを全部解読すれば、うちの祖先が日にち単位で何をしていたかが分かると思い、これでもう、学校の勉強は一時中断することに決めたんですよ。
もう宿題やらない。学校は行くけど、これが解読できるようになるまで、学校の勉強、宿題をやめると。こっちのほうが、価値がある。
学校でやってる教育でいい点を取るとかよりは、こっちのほうがおもしろそうだと思ったんです。


歴史家・磯田道史 NHKアーカイブスより

私は磯田氏がなぜ歴史が好きになったのかに興味を持った。

小学生のころ、地元の遺跡で土器のかけら探しに夢中になった磯田少年。
果ては、自分の家の庭に古墳をつくったという。

聞き手は、なぜそこまで根気よくできたんですか?なぜ知らなきゃいけないんですか?と聞く。

磯田氏はそのとき、1mの古墳をつくるとして、これを2mに伸ばした場合、面積が4倍、体積は8倍になる。
だから、100mの全長の古墳を200mにすると、8倍の土の量が必要なことがわかり、わかっただけでなく、体験しなければと思った。
あー、大変だった!ってのが分かったら、妙に得心がいった感じで、気持ちが安心したという。

〇〇だから歴史が好きになった、の直球な一言はなかったが、言ってみれば、

時空を超えた見知らぬ人たちを想像することと、同じ体験をすること

に心が動いたのではないか。

磯田氏の感動がどんなものだったか想像できることがある。

作家・司馬遼太郎は小学生のころ、夏休みになると母親の実家の奈良・竹内村に遊びにきてヤジリ拾いに夢中になった。
こんなに軽くて、箸置きくらいの重さもないヤジリで鹿やウサギの皮をつらぬくことができるのか、できないとしたらしびれ薬を塗っていたのだろうかなどと思い、太古の葛城山の人々の暮らしを想像したという。

想像と体験はときに魔物だ。

子どもにとって想像と体験に対する感受性は、大人のそれより数十、いや数百倍も大きく強く、時としてその子の将来を決定づけるものになるらしい。

司馬遼太郎 NHKアーカイブス・NHK人物録より

磯田氏は、数多く膨大な史料を渉猟し歴史学者となった。
その中で、ひとつの真実に行きついた。

僕は、歴史は安全靴だと思っています。

歴史を知っていれば、災害が避けられたり、苦難が避けられたりするんですよ。

聞き手が問う。

予測ができるっていうことですか?

だいたい類似の予測ができる。
だから、西洋のことわざで言うところの、「歴史は繰り返さない。繰り返さないが韻を踏む」んです。
似た現象が起きるということです。

歴史は繰り返さない。繰り返さないが韻を踏む

これが、あらためて知る真理である。


韻を踏むとは、たとえば


神様 仏様 稲尾様

霊感 ヤマカン 第六感


のように、同じ言葉や同じ音・母音をもつ言葉を、語尾などの同じ場所で繰り返し使う文章技法だ。

磯田氏も言っているように、このことばはなにも磯田氏が初めて言ったことばではない。


History does not repeat itself, but it rhymes

19世紀のアメリカの作家マーク・トウェインが言ったとされることばだ。

らせん状で戻りながら、少しずつ位相を変えながら、近づきながら移動してるという動きですから、歴史を知っていくと、類似のことは過去にいくらも起きてるので、予測がつきやすくなる。
歴史って、地震のような地学の現象でも、地球物理学的な現象でも、韻を踏んでいます。
ましてや、政局とか人間がやることは、韻は踏むけれどもまったく同じことは起きない、繰り返さない。


社会情勢や環境は時代によって全く違うのだから、完全に繰り返すということはない。

しかし、似た現象は起きる。

たとえば、16世紀と19世紀。
日本の戦国時代後半には、鉄砲やキリスト教が伝来した。
国内は急速に天下統一の機運が高まり、3人の英雄がでてこれを成し遂げた。
江戸時代末期には、黒船が来航して開国することになった。
国内は騒然として攘夷の嵐が荒れ狂い、国情が二転三転してやがて新しい国家が誕生した。

海外からなんらかの作用が働いたとき、日本は大きく変容する。

長篠合戦図屏風 nippon.comウェブサイトより

これが韻を踏むということか。
当時の人たちが、どのような状況に置かれていて、その中からどのような思考のすえに判断するに至ったのかを、いちど抽象化して考えてみるのだろうが、凡人の私にはそれもなかなかむずかしい。
むずかしいが、これが歴史の真理のひとつだということはわかった。

話がわき道にそれるようだが、歴史は、繰り返さないが韻を踏む、と聞いて次のことばが頭に浮かんだ。

新しい戦前

かつてこの国に戦争があり、戦争が終わって戦後になった。
歴史は繰り返さないというが、新しい戦前とは歴史は繰り返すということか。

2022年暮れのテレビ番組『徹子の部屋』にゲスト出演したタモリ氏が、司会に「来年はどんな年になるでしょう」と聞かれると、

新しい戦前になるんじゃないでしょうか

と答えたことで話題になった。
タモリ氏はその後、この発言に踏み込んで言及していないので真意は不明だが、それだけにこの発言は大きな広がりを見せ、多くの識者たちが反応した。

 

草むらで警戒するウクライナ軍兵士 JBpressウェブサイトより

私たちはいま長い戦後を生きている。
戦争とはいうまでもなく、第二次世界大戦であり、太平洋戦争だ。
いわゆる1970年代の戦後教育を受けてきた私にとって、人類の義務は恒久平和である。

日本はいままで、多くの戦争を経験してきた。その形態や情勢はさまざまだ。
どの国もそうだが、日本の歴史は戦争の歴史でもある。

だとすると、

戦争は、繰り返さないが韻を踏む

ともいえそうである。

勝手な想像だが、磯田氏は歴史学者でありながら、作家・司馬遼太郎をフィクションの創作者としては見ていない。
それは司馬氏が自分と同種の人であることに気づいているからではないか。
さらに言えば、自分が司馬氏と同種の人間だと知っているからではなかろうか。
学者でもなく作家でもなく、歴史家といっていい。

磯田氏は、無数の史実のなかから、今と未来を生きる人々の幸せのために真理をさがしだすという意識をお持ちではなかろうか。防災史研究の取り組みもそのひとつだろう。

磯田氏は、司馬遼太郎にそのにおいを濃厚に感じたのではないか。

でなければ、『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』などという本を書くはずがない。

 

磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』 NHK出版ウェブサイトより

磯田氏は、日本人が踏みそうな韻を、「たたずまい」「国民性」というワードで表現している。
つまり、こんなふうに。

司馬さんにとって、日本国家の失敗というのは、やはり「昭和前期」でした。
昭和を題材にした小説はついに描くことはできませんでしたが、もし司馬さんが昭和史の小説を書いたとしたら、何を言いたかったかは、むしろその時代を影絵のように塗り残していることでよく見えてきます。
司馬さんが描けなかった、影絵のように塗り残してしまった部分には、21世紀を生きる私たちが考えなければいけない問題がたくさん含まれています。


司馬さんは、日本国家が誤りに陥っていくときのパターンを何度も繰り返し示そうとしました。
たとえば、集団のなかに一つの空気のような流れができると、いかに合理的な個人の理性があっても押し流されていってしまう体質。
あるいは、日本型の組織は役割分担を任せると強みを発揮する一方で、誰も守備範囲が決まっていない、想定外と言われるような事態に対してはレーダー機能が弱いこと。

また情報を内部に貯め込み、組織外で共有する、未来に向けて動いていく姿勢をなかなかとれないといった、日本人の弱みの部分をその作品中に描き出しています。

こうした、その国の人々が持っている「たたずまい」、簡単に言えば「国民性」といったものは、100年や200年単位でそう簡単に変わるものではありません。


であるならば、20世紀までの日本人を書いた司馬遼太郎さんを、21世紀を生きる私たちが見つめて、自分の鏡として未来に備えていくことはとても大切です。


御前会議(1938年1月11日) Wikipediaより

 

本稿では、「新しい戦前」という衝撃的なワードによって、はからずも戦争についてふれてしまった。

無数の史実のなかから、今と未来を生きる人々の幸せのために真理をさがしだすという意識が司馬氏にも磯田氏にもあったのではないか、と前述したが、はたして磯田氏は続けてこう言っている。

司馬さんもそれを願って作品を書いていったはずなのです。

それとは、日本国家が誤りに陥っていかないことである。

もちろん、自身が歴史好きということはあったでしょう。また、文学として自己完結したいと思ったかもしれません。でも、いちばんの根元にあったのは、後世をよくしたい、それに少しでも力を添えたい─―という、戦争にも行った世代ならではの使命感と志だったと思います。(略)
そのことを十二分に踏まえながら、これから作品を読んでいきたいと思います。

戦争は、繰り返さないが韻を踏む

21世紀を生きる私たちは、20世紀に至るまでの日本と日本人を見つめ続けた司馬さんのメッセージを、今こそ読み取らなければいけない時期にきてきます。

磯田氏はそう言うのだ。

司馬遼太郎は、戦国を、幕末を、明治を、鬼胎と呼んだ昭和前期を、そして戦後を、小説や随筆に書き残した。
そこには、後世を良くするための、誤りに陥らないためのヒントがきっとあるはずだ。


世界や国家からすれば私ひとりの人間は小さい者かもしれない。

しかし、自覚だけは必要だ。

結局はひとりひとりの人間レベルでしか、歴史に学び道を誤らないようにすることができないのだから。

 

司馬遼太郎『二十一世紀を生きる君たちへ』 版元ドットコムより