無題 | 天地温古堂商店

天地温古堂商店

歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

毎日のように報道されているロシアとウクライナの〝戦争〟。

ウクライナ軍はロシア軍の主要な第1防衛線を突破することに成功などと報じて、真偽は不確実ながらも、ウクライナの反転攻勢の進展が明らかになりつつある。(9月1日現在)

つい1ヶ月前には、反転攻勢は思ったようにうまくいっていないというニュースも流れている。

7月28日の報道では、次のようなことが起きていた。

西側諸国の装甲は、ウクライナ部隊より高い防御能力を備えている。
だが、ロシアの地雷の列を突き破るには至っていない。これこそ、ウクライナの前進を阻んでいる最大の障壁の一つだ。

「とてもたくさんの地雷があって、非常に困っている」とウクライナ軍の戦車長は話し、ロシアの防衛線の前には、4列以上の地雷原があるのが普通だと言っている。

ウ軍の兵士が塹壕に入った瞬間、大きな爆発が起きた。
塹壕は空だったが、地雷が仕掛けられていた。ロシア軍は現在、遠隔操作ができる地雷を使っているという。


ロシア軍の地上の罠

ああ、あの時もロシアはそうだったなと想起させることがある。

 

ウクライナ南部ザポロジエ州ロボティネに入るウクライナ兵 産経新聞ウェブサイトより

日本の歴史において、近世以降、ロシアは何度も登場する。

1697年頃、日本人漂流民の伝兵衛がウラジーミル・アトラソフというロシア人探検家と出会ったのが、歴史上初の日露の遭遇といわれる。

1739年には〝元文の黒船〟という事件が起きた。
その年の夏、牡鹿半島、房総半島、および伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航した事件である。
房総半島では、ロシア船員が上陸し、住民との間で銀貨と野菜や魚、タバコなどを交換した。
ペリーの黒船来航の114年前のことである。

1807年に起きた文化露寇は、1811年のゴローニン事件、1812年の高田屋嘉兵衛のカムチャッカ連行へ続く物騒な連鎖の起点となる事件であった。

文化露寇を命じたレザノフの乗っていた船と部下 Wikipediaより

そして、近代になって不幸にも日本とロシアは戦争を体験する。

それまでの戦争といえば、戊辰戦争の戦没者が約5500人、西南戦争が約6400人、対外戦争の日清戦争が約13800人だ。
それに比べて日露戦争の日本側のそれは8万人を超えている。

その意味では、日露戦争が初めての真の近代戦争だった。
とりわけ日本が初めて近代戦争の壮絶さを味わったのは、旅順においてであろう。

旅順!

その地名を聞いて、人は何を思うだろう。

それは北京や上海、広州、天津などとは違って、旅順は単なる都市の名前、土地の名前ではないはずだ。

日露戦争における旅順は、軍港であり要塞であった。

 

旅順港の全景 Wikipediaより

軍港にはロシアの旅順艦隊がおり、欧露にあって遠く喜望峰を回航するバルチック艦隊と合流して、日本の海軍力を圧倒的に凌駕し、この戦争の雌雄が決するはずであった。

日本はこれを阻止すべく、バルチック艦隊が回航している間に、旅順艦隊を海と陸から攻撃して撃滅しようとした。

しかし、海からの再三の攻撃はことごとく失敗に終わり、陸から攻めることとなった。

旅順港の背後は屏風のような小高い峰々に囲まれ、全体が要塞になっていた。
要塞の砲台群は旅順港口を向いていて、湾外からくる敵艦の襲撃を阻んでいた。

旅順要塞を陸から攻めるのは、乃木希典将軍を司令官とする「第三軍」。

乃木希典 山口県の先人たちウェブサイトより

日本の場合、攻城戦いわゆる城攻めは囲めば圧倒的に有利であった。
敵は籠城するしかないのである。

旅順もその程度のものだろう。

第三軍のあやまった認識が厖大な流血を招くこととなる。
最初の総攻撃では、攻城砲など280門が一斉に目標に向かって砲弾を打ち込んだ。

砲撃が丸2日続いたのち、乃木は一斉突撃を命じた。

結果は悲惨を通り越して凄惨であった。
6日間続いた総攻撃は第三軍の死者約5000人、負傷者約10000人、一個師団全滅という惨憺たる結果で終わったのである。

日本軍は、ロシアの要塞の詳細を第三軍の兵のいのちをもって知ることになった。

要塞の峰々には堡塁というものがある。
たとえば最初の総攻撃で突撃をかけた東鶏冠山堡塁の構造はこうだ。


⚫︎その最も奥に砲座のある砲塁がある。
⚫︎その前方の平面に鉄条網をめぐらしている。
⚫︎その鉄条網のなかに外濠を深く掘り、壕内には地下通路を走らせて歩兵を配置した。

⚫︎その背後にはセメントで固めた斜堤という構築物を築いて敵が近寄ってくるのを防いでいた。

⚫︎さらにその奥に狙撃手のための胸壁があり、その奥にふたたび壕を掘り、その奥にようやく砲座があった。

⚫︎砲塁の頭上は丈夫な掩蓋(えんがい)で覆われていて、落下弾をふせいでいる。

砲塁に敵兵が一斉に押し寄せてきた場合、他の砲塁が左右前後に網のように配置され、死角を減らしている。

ある連隊では連隊長以下、一兵残らず死体となったといい、かろうじて連隊旗を持つ旗手とそれを守るわずかな護衛兵だけが帰還したという。

旅順海岸の砲台 旅順要塞写真集ウェブサイトより

第三軍は、最後にあの有名な二百三高地を攻めることになる。

司馬遼太郎は小説『坂の上の雲』のなかで、旅順港の背後の峰々をが連繋してすきまのない火網を構成しているといい、ねずみいっぴき走っても銃砲火の大瀑布にたたかれる、と書いている。

書いてもおぞましい限りだが、二百三高地付近の堡塁についてはこうだ。

⚫︎その堡塁の内壕の深さは2メートル以上である。
⚫︎横墻(おうしょう) がいくつかあり、堡塁の司令所は強固に掩蔽されている。
横墻とは、砲台と砲台をつなぐトンネルのことである。
⚫︎堡塁には6インチ砲をそなえ、鞍部には軽砲砲台があり、それらの堡塁や砲塁のあいだに暗路が走って、交通路になっている。
⚫︎山の中腹には鹿柴がつらねられ、その前に散兵壕があり、その火線には銃眼掩蓋があって機関銃が配置され、山腹一帯には鉄条網が張りめぐらされている。

 

旅順要塞・東鶏冠山砲台 KAGAWA GALLERY歴史館ウェブサイトより

司馬氏はこれを、

巨大な殺人装置

と書いている。

旅順攻城戦は参加した日本兵は約51000人。
そのうち約15400人が死亡している。
10人に3人は死んでいることになる。
戦傷者はのべ4万人以上というから、無傷だった者は皆無だったのではないか。

ロシアの特異性について、司馬遼太郎は『ロシアについて』のなかで、

病的な外国への猜疑心
潜在的征服欲
火器への異常信仰

と言っているが、火器への異常信仰の顕著なあらわれがこの堡塁であろう。
さらに、堅牢な要塞に籠って防御しつつ、巧緻な火網によって進撃してくる敵を一網打尽にする。

素人ながら、旅順を見て、そうしたロシアの戦略の特異性がわかる。

いま、ウクライナ南部の戦線でのロシア軍に何が起きているか、私にはよくわからない。が、歴史の例をみれば、堅牢で巧緻な防御陣地を作ることとそれを頑強に守ることに長じたロシアを思い出すことができる。

 

イギリスの軍事専門家はいう。

 

ロシア軍の質はさまざまだ。

損耗は激しいが、ウクライナ側によればロシアは陣地をよく防衛している。

戦術レベルではかなりの順応性があり、旧ソビエトやロシア軍の基本原則にしたがって、広い範囲を防衛している。

 

ロシアの防衛線が崩壊することがなければ、今後、数週間から数か月のうちに予備の兵力が徐々に投入され、血みどろの消耗戦が繰り広げられることになる

 

これだけを聞くと、まるであの旅順のことのようでもある。

 

要衝バフムト近郊でウ軍により破壊されたロシア軍の戦車 日経新聞ウェブサイトより

 

以下は、本稿にとっては付け足しになる。

 

第三軍と旅順要塞の運命について。

その後、紆余曲折があり、陸軍総参謀長の児玉源太郎の提案で28センチ榴弾砲を投入することとなり、絶望的な戦局が奇跡的に好転した。

結局、第三軍の一隊が二百三高地を奪取したことによって、その山越しに弾道の計測が可能となり、28センチ榴弾砲を旅順艦隊に向けて射撃し、そのほとんどを撃沈させた。

〈ウクライナの南部戦線で、ロシア軍が120キロメートルにわたり3層構造の防御陣地を構築〉

〈ウクライナ軍はロシア軍の主要な第1防衛線を突破することに成功〉

どという報道にふれ、ふと、旅順のことを思い起こした。

本稿は無題であり、それだけのことである。

 

戦争という名の破壊と喪失。

 

人類にとってきわめて不幸なことであり、この世界には真に不要なものである。
このことは、永久に変わることはない。

【参考】
司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫)
司馬遼太郎『殉死』(文春文庫)
司馬遼太郎『ロシアについて』(文春文庫)