少年たちにとっての「竹内街道」〜生涯に為すことの起点について〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

幼いころ、父の自転車に乗せられ、近くの踏切に行くことがよくあった。

 

電車を見るためであった。


私が喜んだこともあろうが、父からすればお金のかからない父子のふれあう時間だったのだろう。

多くの子どもが電車好きのように、私も電車が好きだった。
とくに電車が線路を走る様子が好きだった。
好きな理由は、

この線路はどこまで続いていて、どこまでゆけるのだろう。

という思いからだった。

都会、山、海岸、飛行場、それとも見知らぬ田舎町

どこまで、ということは可能性のようなものだった。



社会人になって早々、通勤電車に揺られながら、ふと車窓から外に目をやると、駅の隣のホームに電車が止まっている。

特急「白山」

金沢行きだった。
いまはもう、その路線も車両もない。

上野から金沢までを長野駅経由で結ぶ特急列車として1972(昭和47)年3月から1997(平成9)年9月まで運転されていた。

仕事と自宅の往復という日常の、数メートル先にある非日常だ。

あれに乗れば金沢へ行けるんだ。

子どもの頃、踏切で感じた線路の先にある未知の世界への入口は、自分が思うとき、それはどこにでもある。

それに気がついた一瞬だった。

私にとっての線路の先、それが時空の旅。歴史だった。


時間はあるが、カネはない。
貧乏学生のころの私の未知の世界の入口は、東京駅深夜発の各駅夜行列車だった。

大垣行き

というやつだ。
歴史を愛し、大垣行きの夜行列車に乗って奈良を旅した。
奈良の定宿は、日吉館か明日香村の民宿。
日吉館は、かつて奈良市登大路町に存在した旅館。
1泊2食付き2000円、就寝は相部屋で雑魚寝だった。枕を並べて見知らぬ歴友と語り合ったりもした。


大垣行き夜行列車(イメージ) マイナビニュースホームページより

幼いころ、父の自転車からみた線路の先のひとつは奈良の時空だったことは確かなことだ。
子供のころの線路の先…。
そういうことについて、話を続けたい。


一度きりだが、奈良の竹内街道を訪ねたことがある。

1981(昭和56)年に司馬遼太郎の「街道をゆく」第1巻を買って、読んだなかに竹内街道があった。

古道である竹内街道は大和高田で北へ折れず、そのまま西走をつづけてまっすぐに竹内峠にいたる。

その大和高田・竹内峠間の道路はいまは枝道になり、道ざまは鄙びてしまっている。われわれはそれをとる。

これが古代ミワ王朝や崇神王朝、さらにはくだって奈良朝の文化をうるおした古代のシルク・ロードともいうべき道だからである。
(司馬遼太郎「街道をゆく1・竹内街道」より)

同伴する若い大学講師に、なぜシルク・ロードか?と聞かれ、司馬氏がなぜかを説明することができず、

これは自分だけの幻想かもしれんなあ

というくだりがある。
その後、筆を進めていくうちに考えが熟したのか、こう加えている。

竹内峠を越えれば、河内国である。

そのむこうに大阪湾がひろがっており、瀬戸内海の水路を通じて九州から海外へつながっている。

このルートをつたわって、鉄製の武器を(中略)もってきた連中が大和を制して古墳時代の王朝を樹立したにちがいない。

やや言葉足らずの気もするが、これが竹内街道がシルク・ロードである理由なのだろう。


NHK特集「シルクロード~絲綢之路~」 NHKアーカイブスホームページより

しかし、最近になって司馬氏のこの一言の明確な理由を知った。

竹内街道のある大和国北葛城郡竹内は、司馬氏の母親の実家で、彼は幼少期をこの竹内で過ごしていたのだ。
実家の裏の広い畑は春になると一面菜の花でおおいつくされる。

彼が菜の花が好きだというのは、この菜の花畑が彼の原風景だからであろう。

竹内街道は日本最古の官道といわれている。

「日本書紀」の推古天皇21年11月の条に、

掖上池、畝傍池、和珥池作る。又難波より京に至るまでに大道を置く。

とある。


竹内街道・横大路(大道) 毎日新聞ホームページより

こんにちの竹内街道は、国道の脇に沿った道幅は車一台が通れるくらいの狭い道だ。
だが推古天皇のころは、道幅は10メートルを超えると推定され、大道と呼ばれるだけのわが国最大のストリートだった。
なぜか。

当時の都は、飛鳥。
難波には難波ノ津があり、難波の港から大和の飛鳥に至るまでの大道が作られたのである。
当時の難波ノ津は、大和朝廷がユーラシア大陸の異文化を取り入れる導入口であった。

大陸からの使節、渡来人たちは、難波ノ津に上陸し、大道を通って飛鳥に入ったのである。

竹内街道はユーラシア大陸の異文化が通る迎賓のみちだったのだ。

人はモノや文化を運ぶ。

あるときは仏教の経典や仏像、絵画、工芸、音楽が、あるときはのちに正倉院御物となるような螺鈿やガラスの工芸品がこの道を通り、竹内街道を通って都に達した。

司馬遼太郎は、産経新聞の記者時代に福田定一の本名で処女作となる「わが生涯は夜光貝の光と共に」を書いている。
主人公は明治時代の絵師・蒼洋。


蒼洋は町の古道具屋で見つけた尾形光琳の作った螺鈿に魅せられて洋画の道を捨て、螺鈿制作に方向転換する。
彼は技法を学ぶため中国に渡るが、はるかむかしに、ペルシャからシルクロードを経て唐に入った螺鈿技法は絶えてしまっていた。しかし、彼は独学して名人となったという話だ。

27歳の司馬青年は、ペルシャからシルクロード、竹内街道を通ってきた文物ひとつひとつに深い愛着と興趣を感じていたにちがいない。
それは、後年、空海と密教に彼が着目したことと共通している気がする。

少年期に美しい竹内聚落を通る街道の路上に立って、遠くユーラシア大陸を思いをめぐらせたとき、その後の彼の人生のすべてが始まったような気がしてならない。

私が子どものころ父の自転車から見た線路の行く先と、司馬少年が竹内街道から見た世界は、到底比較することすらできないが、根っこは同じだと思いたい。


竹内街道(葛城市竹内)  奈良県ホームページより


この稿の結びを、磯貝勝太郎著「司馬遼太郎の風音」から引用する。

人間が生涯に為すことは、幼少年期に用意されているといわれる。
このことは、司馬遼太郎にもあてはまる。
竹内街道から芽生えた異文化、異文明への強い関心が、ゆたかな詩的想像力を飛翔させ、ユーラシア大陸に幾十世紀にわたって、くりひろげられてきた人間の悠久の歴史に、あこがれとロマンを求めて漂泊する詩情の作家にしたのである。


これから大人になる子どもらには、それぞれの「竹内街道」に立ち、こころに何かを宿してほしい。
真にそう思う。