久しぶりに訪れた街での読書会。見飽きるくらいその街の風景を見ていた
時期もありましたが、暫く時が経つと、なんだかオシャレなお店が
ぽつぽつと増えていて。キラキラした人たちが楽しそうにランチやお茶を
する姿を目にしました。
猫好きが読む小説と聴いていて、わたしも猫に温かい気持ちを感じながら日々生活をしているため、楽しみにして読みました。が、いなくなった猫を何年も思いながら泣く百閒が日記調で延々とつづられるのをずっと読んでいると、だんだんこころが重くなり、更には、「これはほんとうに猫を想って泣いているのだろうか・・・」という疑いまで浮かんでくる。なんだか根源的な、人の悲しみにノラは触れてしまったのではないか・・・・
日記文学なのだろうか?どのジャンルにも属さない作品だと思った、昭和32年の話とは思えないくらい古風。女性は別の部屋で食事をしている、百閒はとても感受性が高いのだと思った、ノラはどこにいったのだろう、美味しいものが食べれる場所に引っ越したのか、猫の目撃情報が出る度に妻が様子を見に行っているのはなぜか、自分で行かないのは?、写真を撮らなくてよかったということばがとても印象的だった、「涙が止まらない」というリズム芸みたいな一文が入る、だるい気持ちから面白いへだんだん変わる、暇だからいつまでも引きずってしまうのではないか、ペットロスということばがこのときはまだなかったが、うつ状態なのでは。現代人の方がこの気持ちを理解できる気がする、悲しんでいる自分が好きなのではないかと感じることもあったり。執着、しつこさ、DV的要素も感じられていろんなことを思う自分で出会った、もし家族がいなくなったことを作品にするのなら、こんな作風にはならない気がする。こんな書きかたはできなかったのではないか、亡くなったかどうかもわからずお別れができなかったこともこころに残ってしまっているのではないか・・・
旅行の物語が挟まれていることで、少し空気が変わり気分転換になるけれど、基本流れている空気は短調、ノラとクルツという二匹の猫の存在が、それぞれ違う大きな役割を、この作品のなかで果たしています。また、最後の解説がとても重要で、作品のなかでも需要人物となっている平山三郎が執筆。日記だと百閒の視点でしか読むことができないですが、解説では違った印象を与えてくれる。なんとなくエッセイを読むように読めてしまいそうな作品ですが、色々考えられた構成なのだろうと思います。
昔、内田百閒文学賞の短編随筆部門で最終候補にあがったことがあるのですが、実は内田百閒を読むのは初めてだったわたし・・・・内田百閒の生まれたてのこころからひょっこり飛び出てきたようなことばに、今更、ハッ!とさせられたのでした。