気まぐれ画伯作:我が部屋の表札(にっぽん丸は日本へ)
(皆さん部屋の入口に表札代わりにいろいろなものを付けていますが、画伯のこの表札、クルーに評判になっているようで、よく声をかけられました。にっぽん丸は移動できるようになっています。尚、書いたわけではなく、下絵は板を焼いて描いています。)
にっぽん丸は台湾海峡に入り、嘉義、彰化などの沿岸を北上しています。秒速25mの向かい風をもろに受けて、船体の動揺は激しくなっています。台湾には20回以上行ってますが、嘉義と言えば北回帰線碑や阿里山鉄道、彰化と言えば転車台を思い出します。彰化の沖合には多数の風力発電施設がありましたが、どうやら商船三井や日立も関連した洋上風力施設のようです。
彰化洋上風力発電所
にっぽん丸乗船は4回目ですが、初回乗船は2011年3月でした。それまで長距離フェリーは色々と乗船経験がありましたが、いわゆるクルーズ船は初で、小笠原の父島へ向かう5泊6日のクルーズでした。今回のクルーズと同じく横浜港を出航し、小笠原へ。鳥島や孀婦岩など空からはなかなか楽しめない島々を見ながら、翌朝には小笠原というところで、大きな地震が発生したという船長アナウンスが。そう、あの東日本大震災です。にっぽん丸も4m程度の津波を受けたとのことでしたが、乗客が気がつくような船体の動揺はなく、今のようにWiFiも無かったので、熱心にテレビを見ていなければ地震に気がつくような状況ではありませんでした。
その後はテレビに釘付けとなり、凄惨な光景を目の当たりにすることになるわけですが、にっぽん丸も父島寄港を断念し、引き返すことに。ただ、余震による津波を警戒して殆どの東日本の港は閉鎖となっており、にっぽん丸が戻るにしても清水港、名古屋港、大阪港のいずれかになる見込みとアナウンスされ、この中で一番近い清水港を目指すと言うことになりました。また、携帯電話の電波を掴みやすくするするため、伊豆諸島近海を航行すると言うアナウンスもありました。ご家族が被災地域にお住まいの皆さんは気が気ではなかったと思いますが、被害の実態が明らかになってくるに連れ、事態の深刻さを目の当たりとすることになります。また、おそらく地震とは関係ない低気圧の影響で船体の動揺も相当なものでしたが、そんな中でもなんとか気を紛らわそうと奮闘し臨時ステージを行ってくれた岸田智史さんには感謝しかありません。
結局、にっぽん丸は当初の横浜港ではなく晴海埠頭に入港することとなり、予定よりも2日早く入港。その後は羽田空港に向かい足早に帰宅しました。帰宅して安堵した反面、原発事故などの事の甚大さに、これからどうなってしまうのだろうという不安に襲われたのを思い出します。
レインボーブリッジ(2011年)
この当時はまだ羊蹄丸がいました(2011年)
航海図(2011年)
と、こんなクルーズ船デビューとなったわけですが、その後もご縁があり、上五島と奄美、利尻島とサハリン、そして今回のモーリシャスと、クルーズを楽しませてもらっています。
さて、にっぽん丸は台湾海峡を抜け、いよいよ日本へ。ようやく波もおさまってきましたが、気温が11度。体が正直ついていきません。荷造りついでに冬服を取り出さないといけませんね。
本日の夕日
今日の夕食はおでん。夕食をいただくのも明日、明後日の2回となりました。長く感じたクルーズも残りわずかです。
夕食のおでん