解説です。
説明をしながら進めるので、答えだけ知りたい方はまた今度ということで。
まず日本と西洋との自然観の違いです。
日本は自然を客体視できず、融合しています。
ただ、近代科学の兵器の宝庫ともいえる黒船が来航しました。
負けると植民地になってしまうため、日本は危機を感じるんですが、そこで初めて西洋の真似をすることになります。
ここから西洋の流れに乗ることになります。
西洋は自然を神からの贈り物(gift)とみなしています。
神があるがゆえにこの世界があるのであり、神が創造したがゆえにこの天地万物があると考えるからです。
そこで自然とは贈り物なので、どう使おうが悪いことではありません。
あなた方もお中元などの贈り物は自由に使いますよね。
ここから文章の解説を。
1文目「自然を伴侶とし、自然の中に没入し、自然とひとつになろうとする日本人の伝統的な自然観は、西洋人のそれとは著しく趣きを異にしている。」はもう分かりますよね。
「自然とひとつになろうとする」とは融合すること=客観視しない=破壊しないということです。
それが西洋と大きく異なる点です。
2文目「日本的自然観は、日本独特の美しい文化や生活様式を生み出してきたが、それは、近代科学や近代科学技術を生み出すような自然へのアプローチとは程遠いものであった。」は核心を突く文章です。
「日本独特の美しい文化や生活様式を生み出してきた」は枯山水をイメージしていただければいいと思います。
次です。
「近代科学や近代科学技術を生み出すような自然へのアプローチとは程遠いものであった」、この文章こそが日本で地震に対策できない原因です。
例えば、あなたは融合しているもの(=家族、友達、恋人)を簡単に傷つけることが出来ますか?
日本人には出来ないんです。
地震も同じで融合しようとするため、対策をしようとは思わない。
この論文には「古来この国に地震は数かぎりなく発生したけれども、ついぞ日本人の手によって地震学というべきものは生まれなかった」という文章が出てきますが、それが全てを表しています。
逆に西洋は対策に躍起になっています。何故か?
giftというものは自分より低価値のものです。
その低価値のものから被害を受けたらどうでしょう?
ジャイアンがのび太にいじめられるようなものです。
ただ自然をいじめ返すことはできないので、対策を立ててこれ以上起こらないようにするということです。
つまり「近代科学や近代科学技術を生み出すような自然へのアプローチとは程遠いものであった」とは、日本は自然の研究としてのアプローチは西洋にはるかに遅れをとっているということです。
3文目『鴨長明は「方丈記」に、「ただ糸竹花月を友にせんにはしかじ」と書いている。』は少し難しいです。
「糸竹」とは楽器のこと、「花月」とは自然のことです。
「しかじ」は不如と書き、及ばないという意味です。
つまり、楽器と自然を友にしておくに越したことはない、となります。
日本の自然観が如実に表れています。
4文目「(・・・前略・・・)その(=天変地異の)解決もまた、こうした天変地異をもたらしたその同じ自然の中に安らぎを見いだすという形で求められていくのである。〔 〕に日本的な自然との接し方である。」も日本の自然観です。
例えば、地震の被害(=天変地異)を受けても、太陽や風(=天変地異をもたらしたその同じ自然)の恩恵を受けて「安らぎを見いだす」んです。
まとめると、日本は自然を客体視できない、破壊できない、同類とみなす。
西洋は自然を客体視する、破壊する(極論ですいません)、低価値のものとみなす。
最初に述べたとおり、問題の解説は今度です。