昨日の記事で蚊居肢氏の経済観について言及したが、蚊居肢氏の記事に経済学者岩井克人の貨幣論が引用されている。

 

 

経済学者岩井克人 「会社はだれのものか」「経済学の宇宙」など

 

「貨幣の系譜をさかのぼっていくと、それは「本物」の貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」の貨幣になってしまうという「奇跡」によって繰り返し繰り返し寸断されているのがわかる。そして、その端緒にようやくたどりついてみても、そこで見いだすことができるのは、たんなるモノでしかないモノが「本物」の貨幣へと跳躍しているさらに大な断絶である。無から有が生まれていたのである。いや、貨幣で「ない」ものの「代り」が貨幣で「ある」ものになったのだ、といいかえてもよい。 貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。」(岩井克人『貨幣論』第三章 貨幣系譜論   25節「貨幣の系譜と記号論批判」1993年)

 

サンドウィッチマンの富澤じゃないけど「ちょっと何言ってるかわかんない」貨幣の解説だ。

貨幣とは何かを説明するのに、「「本物」の貨幣」なんてのが出てきて、「本物」の貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」の貨幣になってしまう、なんて説明は、その「本物」が何なのか説明してもらわないと分からないんじゃないか。

「貨幣で「ない」ものの「代り」が貨幣で「ある」ものになった」というのはわかるような気がするけど。

別のところで、岩井克人氏はも貨幣とは何か、についてもう少し分かりやすく言っている。

 

「お金がお金となるのは、他の人も受け取ってくれると予想するから、だれもが受け取る、という自己循環論法です。他人が受け取ってくれれば、お金はお金として通用する。それを疑い始めたら、お金として通用しなくなる。日常的にはほとんど意識していないが、根底では、他の人がお金として受け取ってくれると信じていて、その他の人も他の人が受け取ってくれると信じている。深いところで信じ合っている仕組みに支えられているのです。」(岩井克人)

 

岩井は貨幣を自己循環論法で説明して得意げだが、MMTの入門書である「MMTとは何か」(島倉原角川新書)では、岩井の貨幣論(商品貨幣論)を次のように書いている。

まず経済学者マンキューの貨幣の説明を引用する。岩井克人とほぼ考え方が同じだ。

「…次の段階では、政府は民間から金(きん)を受け取って、代わりに金証書(金兌換紙幣)を発行するようになる。兌換紙幣は、一定量の金との交換が政府によって保証されている。人々が政府の約束を信用する限り、金兌換紙幣は金そのものと同じ価値を持つことになる。さらに、紙幣は金(や金貨)よりも軽いため、取引に使いやすい。この状況が進むと、金を持ち歩く人はいなくなり、金との交換を保証された政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。
 最後の段階では、金による価値保証がいらなくなる。兌換紙幣を金に換える人がいなくなれば、金との交換保証が放棄されても誰も気にしなくなるだろう。交換の際に紙幣を皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす。このような経緯を経て、商品貨幣のシステムから不換紙幣のシステムへと、ゆっくり進化してきたのである。結局のところ、取引における貨幣の使用は社会的な慣習でしかないことに気づいてほしい。誰もが不換紙幣の価値を認めるのは、他の人たちもその価値を認めると考えているからなのである。(マンキュー) 

 この説明によれば、人々が不換紙幣の価値を認めて受け取るのは、「他人もその価値を認めて受け取ると考えているから」となります。しかしながら、仮に世の中にAさん、Bさん、Cさんの三人しかいないとすると、この説明では「Aさんが不換紙幣を受け取るのは、Bさんが受け取るから→Bさんが受け取るのは、Cさんが受け取るから→Cさんが受け取るのはAさんが受け取るから→Aさんが受け取るのは・・・・・・」といった循環論法に陥ってしまい、人数がいくら増えてもこの構造は変わりません。MMTに言わせれば、これは「間抜けをだまして渡せると思うから、私はドル紙幣を受け取っている」という「ババ抜き」貨幣理論に過 ぎません(ランダル・レイ)。
 そんな商品貨幣論の説得力の乏しさは、「貨幣の使用は社会的な慣習でしかないことに気づいでほしい」という、およそ教科書の説明には似つかわしくないマンキューの言い回しからもにじみ出ています。(中略)

 日本の経済学者である岩井克人氏の著書『貨幣論』(筑摩書房)もまた、商品貨幣論の論理的欠陥を示す一例として挙げられるでしょう。

 同書は「貨幣とは何か?」という問いを立て、マルクスの商品貨幣論などを出発点として様々な考察を巡らせたあげく、「『貨幣とは貨幣として使われるものである』というよりほかにない」という、およそ無意味な結論に至っています。同書には、この結論が「けっしてたんなるこけ脅しでも同義反復でもないということを示してみるのが本書のひとつの目的なのである」と半ば開き直ったような記述もありますが、説得力に乏しいことは変わりありません。(後略)」

 

以上のように岩井克人らの貨幣論(商品貨幣論)をMMTでは批判しています。そして蚊居肢氏はそんな商品貨幣論に立って膨大な公的債務残高に驚きおののいているのです。

 

だからと言って私も貨幣の本質よく分からないので、いろいろな人の貨幣の本質についての言及を勉強しているわけですが、MMTerのリッキー氏は次のようなコラムを書いています。ここではビットコインは貨幣ではないとやり玉に挙げ、ビットコインは、最もピュアな意味で「ねずみ講」だと言い切っています。

 

「断章、特に経済的なテーマ」より

「貨幣がなぜ受け取られるのか」はなぜ神学論争とは言えないのか

2021-07-03 リッキー

貨幣をなぜ個人が保有しようとするのかについては、実際いろいろある。
問題は、社会全体としてみたとき、特定の貨幣がこうした個々人の欲求を支えるに足る資産でありうるのは何故か、どのようなメカニズムによってそれが支えられているのか、という話だ。

そんなん、だれがなぜ貨幣を欲しがるかなんてこといくら積み重ねたって意味ないことぐらい分からなかったんかねえ。。。。
これは「神学論争」などではなく、具体的な政策の選択に直結している。
一番簡単な例がビットコイン。
もし貨幣の「価値(どのような意味にとらえようと)」を支えるものが単に「誰かが受け取ってくれるはずだから」という漠然とした将来の期待にのみ基礎づけられるのだとしたら
貨幣はその存在自体が(かつて誰かが言ったとおり)バブルに過ぎない。「誰も」受け取ってくれる人がいなさそうになれば何の価値もなくなる。

ま、この考え方に従うなら、具体的な発行者が「誰でも」なく、素材価値もないビットコインはもっとも純粋な貨幣ということになるんだろう。

MMTの考え方では、あらゆる負債は、最終的にはそれを発行した経済主体が引き受け手になる、という意味で、漠然とした「誰か」ではなく「どこの何某が」最終的には受取り手になる。最終的な受取り手は(不履行がなければ)発行された時点で決まっている。
その点は、政府通貨も変わらない。

他方で、この「どこの何某」が受取り手になるわけでもなく、単に誰かが欲しいと言っている間だけ「カネ」が集まり、そして「カネ」が集まる間だけ、価値があるものを売り出すことを「ねずみ講」という。
価値が上がらなくなれば、持っている意味もないから、売りに出され、そうなれば価格が急落し始めるだろう。そういう意味でビットコインは、最もピュアな意味で「ねずみ講」だ

「カネ」が集まる間はそれ自体も「貨幣」であり、資産であり続けるけれど、「カネ」が集まらなくなるや否や、それは価値がなくなり資産でもなくなる(そして「貨幣」でもなくなる)。
ピュアというのは、アムウエイでも毒入り金融証券でも、一応は対象となる商品に「価値」のもととなるものがないわけではない。

ところがビットコインにはそれすらない。初めから「誰かが(カネを払って)受け取る」という期待以外に何一つ取引の対象になるものがない、という意味で、純化されたねずみ講だ。
それは単に、コンピューターを使ってマイニングをする、という社会に対する貢献を何一つしない行為によって、ただ「誰かが受け取ってくれるかもしれない」そしてその期待がある限り、価格が上昇し続けるというだけの記号を生み出している行為だ。
 

 もちろん、こうした行為を行い、そして実際そうやって発行されたビットコインをカネまで払って受け取りたい、という人がいるのは事実だし、それは個人の自由だ。短期的には価格が上がったり下がったりし、得する人間も出てくれば、損する人間も出てくる。それもその他の投資と変わらない。

だからそれだけのことからはこうした純粋なねずみ講を規制する必要性は生じない。引っかかろうと引っかかるまいと、経済的には自由であり、そして「ねずみ講」は引っかかる人間がいる限り、常に繰り返される。そうした「ねずみ講」を支える手段として経済学の諸理論が使われるとしても、それもまたいつものことだ。
ただMMTの立場から言えば、あらゆるねずみ講がそうである通り、誰かが「いらない」と言いはじめ、そして実際に受取り手がいなくなればビットコインの「価格」(ビットコインと政府通貨の交換比率)は急落する。そうした場合、その価格を下支えする責任は政府にはまったくないだろう。むしろこうした資産価格の下支えこそ、政府が最もやってはいけないことの一つだろう。

「他の人が受け取ってくれると誰もが思っている資産が貨幣になる」とする思考パターンの問題は、受取り手はその資産の対価として実物資産のみを提供するものと想定されていることである。
ところがすでに貨幣が存在している経済においては、そのような資産が新たに生まれてくることはないだろう。ある資産が「他の人が受け取ってくれると誰もが思っているだろう」から受け取られるとき、その資産を入手するのに必要なのは実物資産よりは既に存在している「カネ」であろう。
そしてそうした資産の交換対象が主として「カネ」である以上、これは投機性の資産にしかなりえない。

すでに「カネ」が広く決済手段として流通している世界で「実物資産」がこの金融資産の主たる交換対象となるとき、多くの人は、ちょっとした信用不安があればこうした資産を持ち続けることに不安を感じるだろう。なぜならもはやこの金融資産と「カネ」の交換比率がどう変わるかわからなくなるからだ。

「値上がり」のみがそれを保有する理由である以上、ビットコインが通貨として広範に使われるようになることはないだろう。ただただ投機の対象となるばかりである。
もちろん、その結果、金融危機が発生したときにその価格が急落すれば、破綻する企業や個人が発生するだろうが、それは「自己責任」だ。自分の責任で投資をしたものについてまで政府が価格の下支えをしたり、損失を補填する理由はない。いつも通り”Too big to fail”は認められない。
勿論、そうして経済破綻した時には、人々が普通に生活できるだけの収入を伴う雇用は守らなければならないし、公的年金も維持し、そして国内居住者の生存権と社会権を守ることは必要だ。決済インフラストラクチャーを守るための対応も必要だろう。これもいつものことだ。
そしてそれは、通貨主権を有する主権政府には可能だ。
もし貨幣一般が、誰かの言うように、「ほかの誰かが受け取ってくれるとみんな信じていると私が思っていると他のみんなが思っているだろうから」(A.オルレアン風に、これ、どこまでも長くできるので、適当なところで切ってください)という理由で流通性を維持しているという考え方を採るなら、ビットコインも政府(中央銀行)通貨も違いはない。

違いは、貨幣発行時に発生するシニョリッジを政府が保有するのか、民間が保有するのか、それだけの違いだ。不合理で、効率性がなく、仮に善意からだとしても馬鹿なことばっかりやってる政府にシニョリッジを渡すぐらいなら、常に効率的で合理的で効用最大化を目指している競争的個人に渡したほうがよほどましだ、、、という考え方も出てくるだろう。

ビットコインの価格急落による金融危機は、ねずみ講の破綻などではなく、社会的なインフラストラクチャーである貨幣の危機と位置付けられるだろう。資本制とは「不幸にして」「運悪く」「想定外の」金融危機に陥ることがある。貨幣を生み出したのが誰でもないように、金融危機の発生も誰のせいでもない。政府はすぐれた決済手段(というより投資対象)であるビットコインの価格を下支えし、経済活動を維持すべきだ。雇用や年金を守るためには(彼らに言わせれば)それが必要なのである。
 

しかしビットコインというものが、単に「誰かが受け取ってくれるから」というだけの理由で「カネ」を払ってでも入手したいという人がおり、そしてそれのみによって価値が維持されている、そうした性質のものであるなら、広く決済手段として使われそうになるその瞬間、つまりもう値上がりしないよ、となったとき、その価格は急落するだろう。投機対象としてのビットコインと広範かつ一般的な決済手段としてのビットコインは両立しないだろう。
(近年ではペイペイやらなにやら様々な電子マネーが使われるようになっているが、こうして一般的な決済手段となるマネーのどれが投機的な値上がりをしているだろうか)
 政府中央銀行がそれを放置し、「ああ、価値がないものはやはり価値がないのだ」と市場関係者が身に沁みれば、同じことはそう頻繁には繰り返されることはないだろう(残念ながら、経験が持続する期間はそれほど長くないので、似たようなものは繰り返し生まれてくるだろう)が、政府が価値を下支えしてしまえば、ビットコインは投機の対象であり続け(典型的なモラルハザード)、こうした金融危機の頻度はますます増えるだろう。
それによって利益を受けるのは、多額の投資でコンピューターを買いそろえマイニングに精を出せる人たちであり、そうして生み出された記号を投機の対象とする人たちである。

「租税貨幣論」というのは、単に「租税が貨幣を駆動している」ということだけでなく、貨幣制度を支えているものは何か、という基本的な考え方を示すものだ。ましてや「個々人がなぜ貨幣を欲するか」などという話とは全く次元を異にする。
租税が政府貨幣を成り立たしめるのには十分条件であり、かつ租税以外の決済を認めなければ、政府は常に負債の決済をすることが可能なのであり、そしてそうした政府通貨を決済手段とすることで、銀行預金通貨システムが安定し、民間の数多くの負債がこうした銀行預金通貨によって決済されることで経済・生産活動全体が相対的に安定して再生産可能になっている、という認識を指している。

こうしたシステムによって貨幣制度が支えられているという認識があれば、次には、貨幣危機・金融危機・経済危機が訪れたとき、政府・中央銀行が何をなすべきか、という行動の指針となる。なぜなら貨幣がなぜ受け取られるのかを考えることは、貨幣が何によって支えられているのかを考えることであり、そしてそれはどうすれば貨幣制度を安定させることができるか、に直結しており、そして結局貨幣制度を守るということは、誰の何を守ることなのか、、、へ直結するからである。

「貨幣がなぜ受け取られるのか」を考える、ということは、こうした政策を判断する上で決定的な基準を提供する。
単に個人がなぜ貨幣を保有しようとしているのか、その動機の説明として租税貨幣論を持ち出すとしたら、まるでばかばかしいし、そういうレベルでしかものを考えられない人が大学でものを教えているとしたら(と言うか、現にそうなんだけれど)、ちょっとした悲劇であろう。

(引用終わり)

 

この説明も結構難しいのですが、ゆっくり追っていけば結構納得するものがあるんじゃないでしょうか。岩井克人らも何でMMTを勉強しないのか不思議です。

 

まあ、MMTを理解するのに、体系的に勉強するのも大切だと思いますが、切れぎれでもいろんなテーマで勉強していくとだんだん分かってくるような気がしますが、どうでしょうか。