「人は鶏犬の放たるること有らば、則ち之を求むることを知る。心を放つこと有りて、而るに求むることを知らず。」(孟子・告子編)

(人は(飼っている)鶏や犬が逃げ出すようなことがあれば、すぐにその逃げた鶏や犬を探し求めることを知っている。(しかし)心を放ち失っても、それを探し求めることを知らない。)

 

今、丸山真男の「「文明論之概略」を読む 中」(岩波新書)を読んでいる。8年ほど前にブックオフで3冊300円で購入。積読消化で今2冊目だ。こんないい本が300円で買えたのは僥倖だった。

福澤諭吉の「文明論之概略」は前に読んだが、よくわからないまま読み通しただけだった。丸山真男の解説が授業のようでなかなか面白い。

 

その中で、孟子の「放心」という言葉の解説があった。おそらくこの言葉を知っている人は多いかもしれないが、私は知らなかった。

ので、この言葉を読んだ時「ほう、なるほど」と思った。

(丸山真男がどんな文脈でこの言葉を用いたかは省略します)

「孟子の言うには、飼っている犬やニワトリがどこかへさまよって行くとあわてて探し求めるのに、心がどっかへさまよい行っても探さないのはおかしいではないか、というので、そういう意味で「放心」という言葉をつかっています。」(丸山真男「「文明論之概略」を読む 中」

 

本当にそうだな。「心がどっかへさまよい行って」とは、心を失うことだ。

スマホばかりやってみたり、何か馬鹿げたことに集中してみたり、酒におぼれてみたりするのはみんな「心がどっかへさまよい行って」しまったことだ。鶏や犬が逃げ出すようなことがあれば、すぐにその逃げた鶏や犬を探し求めるのは確かに誰でもやることだ。それなのに、「心がさまよい行った」のにその心を探すということはなかなかやらないなあ、と。

心が余り身近すぎて内側にあるので、「心がさまよい行った」ことに気が付かないのかもしれない。となれば「心がさまよい」行かないようにするためには、いつも心を注意深く見つめていないといけないということだな。言うは易くだが…。

 

引用したこの言葉はもう少し前後があった。それを書き記しておこう。

孟子曰く

「仁は人の心なり。義は人の路なり。其の路を舍てて由らず、其の心を放して求むるを知らず、哀しいかな。人雞犬の放する有れば、則ち之を求むるを知る。

放心有りて、而るに求むるを知らず。學問の道は他無し、其の放心を求むるのみ。」

 

(孟子は言った。「仁は人の心である。義は人の路である。それなのに、その道を捨ててそれによらず、その本心を放ち失っても、探し求めることを知らない。悲しいことだ。人は自分の鶏や犬がいなくなると、それを追いかけ探すことを知っている。それなのに、自分の本心がどこかに放失されても、それを追いかけ探し、自分の元に戻すことを知らない。学問の道というのはほかでもない。自分の放出している本心を求め、取り戻すことだけのことである」)

 

因みに、孟子については過去に次のような記事を書いたことがある。参考までに。

 

 

この中では「可哀そう」という感覚の発生について書いたのだった。

結構真面目に書いたので読んでみてください。