書く中身がまとまらないので、高度過ぎて理解できないブログ「蚊居肢(カイエ)」から勝手に引用してお茶を濁す。

といってもいつも私の記事は他人のブログ引用が中心だけど。

 

と書いて「お茶を濁す」とは、「その場をごまかす、うまく取り繕う」という意味なので、今回は「その場をごまかす」ための引用だ。「誤魔化す」というのは、私は引用しても、なるべく自分の考えを書かないといけない、と思っているからで、今回はつまり自分の考えはないのに書くので、まさに「誤魔化す」のである。

 

因みに「お茶を濁す」の語源はネットでみると、「抹茶の点てる作法を知らない人が、お茶をかき混ぜて濁らせることで抹茶らしく見せてその場を取り繕ったことに由来している」と書かれていた。初めて知った。歳を取っていても何も知らない!

 

 

日本人のくせにというか日本人でも語源を聞かれてもほとんど知らない。知らなくても「使える」のが言葉というものだが、つまり語源を知らなくても意味は知っているから文脈に収めることができるわけだ。でも語源を知ると言葉への興味がわく。

今はネットで簡単に調べられるが、昔は辞書、辞典だった。近くになければ調べない。優秀な人はおそらくそんな場合労を惜しまず辞書を調べたんだと思う。もちろん、ネットですぐに分かると言ってもネット検索はしなくちゃいけない。それをなるべく習慣にすると知識が増える。この歳になっては、だから何?と自嘲してしまうけど。

 

さて、ブログ「蚊居肢(カイエ)」からの引用だけど、一昨日の記事「保守の定義(西部邁)」だ。

今回はお茶を濁すのが目的だから、西部邁の言葉を載せても特にコメントはしない。単なるメモだ。

というのも、「保守」ってのが最近分裂気味(思想、政党など)なので、まともな学者・評論家の定義をメモしておくのもいいことだと思ったので。もちろん中身は何度も見知っていることなんだけど。

 

 

※AERA 2017年5月1-8日合併号

(西部邁、中島岳志が師弟対談)

 

──現代では「保守」という言葉が、さまざまに解釈されています。「保守」という言葉の定義を教えてください。

中島:政治的な保守という場合、近代合理主義に対するアンチテーゼとして生まれた近代思想の系譜を指します。イギリスの政治思想家エドマンド・バークを嚆矢とする近代左翼の人間観に対する懐疑的な態度です。

左翼は理性に間違いはないと信じ、理性と合致した社会設計をすれば、理想社会が実現できると考える。

それに対して、バークは人間の理性の完全性を疑った。理性を超えた慣習や良識にこそ歴史のふるいにかけられた重要な英知があると考えた。これが保守のスタート地点です。

 

西部:保守の政治思想は三つに整理できる。

第一は、中島君が言った、人間の完成可能性への懐疑。人間は道徳的にも認識的にも不完全性を免れないのだから、自分が思い描く理想だけで大変革をすると取り返しがつかなくなるという姿勢です。

第二は、国家有機体論。社会はまるで植物の有機体のようにいろいろなところに張り巡らされ、成長したり衰退したりする。そこに人工的な大改革を加えると、有機体が傷ついてしまう。個人や集団の知恵ではとらえきれない、長い歴史を有し、複雑で多種多様な関係を持った有機体であることを忘れてはならないという論理です。

第三は、改革はおおむね漸進的であらねばならないということ。合理的に説明できないという理由で破壊的な社会改革はすべきでない。伝統の精神を守る限りにおいて、一歩一歩、少しずつ改革していくべきだという考えです。

(引用終わり)

 

この定義からすると、保守たらんとするのは結構というか、かなり難しい。

社会に不満を持てばどうしても「改革はおおむね漸進的で」はまどろっこしいし、「人工的な大改革を加えると、有機体が傷ついてしまう」といわれても、変革・改革したくなる。だから保守派を気取っても、考え方は保守派を逸脱している可能性が大いにある。といって保守たらんとして旧弊にしがみつくのもよくないことなんだけど。