ジョージ・オーウェルは「1984年」や「動物農場」などの小説で知られているが、「カタロニア讃歌」や「象を撃つ」などの評論が日本では有名である。

とはいっても、「オーウェル評論集」が岩波文庫や平凡社ライブラリーから出版されているものの、小説「1984年」と比べたら、評論は全く読まれていそうもないし、そもそもなかなか手に入らない。

「1984年」が売れているなら、「オーウェル評論集」ももっと読みやすいように編集されてもいいように思うが、反全体主義、反共産主義のオーウェルの見方は出版社も気に入らないのかもしれない。

 

ジョージ・オーウェル

住んでいる街の小さな中央図書館には開架で「ジョージ・オーウェル著作集」4巻が並んでいる。本も古く、扱う時代も古いので(1920~1950)見捨てられているような気がするが、中身はとっても素晴らしく、現代にも通ずる評論、書評等がちりばめられている。

この著作集を手に取ったのは、マイケル・リンド『新しい階級闘争:大都市エリートから民主主義を守る』の中にジョージ・オーウェルの「ジェイムス・バーナムと管理革命」(1947)に言及されていたからだった。それで「ジョージ・オーウェル著作集」を調べてみた。第4巻にこの論文があった。

 

ジェームズ・バーナムは著書「経営者革命」で知られるアメリカの思想家だが、バーナムは1940年の時点で、「現在勃興しつつあるのは新しい種類の計画的中央集権社会であって、それは資本主義的でもなければ、また認められているいかなる意味でも、民主主義的ではない。生産手段を能率的に統括する人間がこの社会の支配者となるだろう。つまり企業経営者や技術者、官僚、軍人であり、バーナムがひとまとめにして呼ぶところの「経営者」である。…民主主義や自由、平等、友愛、全ての革命運動、全てのユートピアの目論見、あるいは「階級の無い社会」、「地上の天国」は欺瞞(必ずしもそれが自覚されている必要はない)であり、権力を奪取しようとしている何らかの新しい階級の野望を隠すためのものなのだ。イギリス清教徒、ジャコバン派、ボルシェビキはどれもたんなる権力追求者であり、自分たちのための特権的地位を勝ち取るために大衆の希望を利用した。時には暴力無しで権力を勝ち取ったり維持することもできるが不正については避けようがない。なぜならそれは大衆を利用するために必要なものであり、大衆はたんに少数の者の目的に仕えるだけと知れば協力しようとはしないだろうからだ。それぞれの大規模な革命闘争で大衆は人類の同胞愛という漠然とした夢に導かれ、その後、新しい支配階級が首尾よく権力を確立すると隷属状態へと押し戻されたのだった。バーナムの見るところではこれこそ政治の歴史全体の実態なのだ。」

とオーウェルはバーナムの経営者革命を評論する。それは先日ブログ記事にしたマティアス・デスメット博士の「全体主義の心理学」の主張にも通ずるものがあると思われる。

 

 

つまり、オーウェルは小説という形では「1984年」、評論という形では「ジェイムス・バーナムと管理革命」を書いて、現在の政治支配形態を見通していたと言えるのである。

 

この評論は以下のホームページで読むことができる。

「実験記録 NO.02」より

 

 

さて、そんなこんなで図書館に行くと暇を見つけては「ジョージ・オーウェル著作集」を引っ張り出して少しずつ立ち読みするのだが、そんな中でこんなコラム、1945年に書かれた「復讐の味は酸っぱい」を見つけたので紹介したいと思い、ブログでも読めるよう文字にしてみた。

 

いまイスラエルとハマスが戦争しているが、ユダヤ人はナチスによってひどい目にあわされた。ナチスが崩壊して、親衛隊隊員が捕虜になってみすぼらしい姿をさらけ出している。その隊員にユダヤ人は小さな復讐をするのだが、オーウェルはその復讐をどう見たかについて書かれている。

復讐はアクション映画では最大のテーマであり、キチンと復讐されないと見終わってもスッキリしない。悪人は思いっきり殺されてしかるべきだ。しかし、立場を変えると或いは時間が過ぎるとその復讐は何だったのかという思いがつのる。

もちろん、親衛隊に理不尽に殺されたり、強制収容所で殺されたりした関係者にはそんなことは通用しないかもしれないが、イスラエルとハマス戦争、ウクライナ戦争など復讐しなければ気が済まないとなると憎しみだけがまた復讐を呼び起こす。この小編のオーウェルのコラムは色々考えさせてくれる。

 

復讐の味は酸っぱい G・オーウェル 

                      「トリビューン」1945年11月9日

「戦争犯罪裁判」とか「戦犯処刑」という言葉を目にする時いつも思い出すのは、今年の初めドイツ南部の捕虜収容所で目撃した事実である。
 私はもうひとりの特派員と共に、小柄なウィーン系ユダヤ人の案内で収容所を見学した。そのユダヤ人は捕虜の尋問に当たっているアメリカ陸軍の一部門に徴用されていたのである。年の頃二十五ぐらいの、機敏な、金髪の、目鼻立ちの整った青年であり、政治については並みのアメリカ軍将校よりもはるかに明るかったので、楽しい話相手だった。収容所は飛行場に設けられていたのだが、ひと通り監房を回ったあとで、われわれは、ほかの連中と範疇を異にするさまざまな未決囚が隔離されている格納庫へ導かれた。

 格納庫の端で十二、三人の人間がコンクリートの床に一列になってごろ寝していた。説明によると、これらは総統親衛隊の将校で、ほかの捕虜とは隔離されていたのだ。なかにひとり、くすんだ色の平服を着た男がおり、片方の腕を顔にあてがって横になり、眠っている様子だった。その足は妙な具合にひどく変形していた。両方共ちゃんと釣合いがとれているのだが、丸く異常にふくらみ、人間のものというよりはむしろ馬のひずめのような形になっていた。われわれがその一団に近づくにつれ、小柄なユダヤ人は自分を興奮状態へあおり立てているように見受けられた。

 「奴は正真正銘の豚だ」と彼は言い、やにわに重い長靴を繰り出して、腹ばいになっている男の奇形化した足のふくらみを、すさまじい勢いで蹴とばした。

「立て、豚野郎」と彼は、びっくりして眠りからさめた男に向かって叫び、そういうたぐいの言葉をドイツ語で繰り返した。捕虜は泳ぐような格好で立ち上がり、不器用に不動の姿勢をとった。ユダヤ人は相変わらず胸に激情をあおり立てているような態度で―実際に、しゃべりながらほとんど踊るような足どりで狂ったり来たりしたのである―捕虜の経歴をわれわれに語った。こいつは「正真正銘の」ナチである、党籍番号から見てこいつがごく初期からの党員であることは明らかだ、親衛隊の政治部門でこいつは将軍に匹敵する地位を占めていた、こいつが強制収容所を管掌し、拷問や絞首刑を統轄していたことは全く確かである、要するにこいつは、過去五年の間われわれが敵として戦ってきたものすべてを一身に集めているのだ。 

それを聞きながら私は捕虜の風采を吟味した。つかまったばかりの者がだれしも見せる、いじけた、栄養不足の、無精ひげをはやした顔つきを抜きにしても、不快な人間の見本ともいうべき男だった。しかし残忍な人間、なんらかの意味で恐ろしい人間というふうには見えず、ノイローゼの低級な知識人としか見えなかった。薄青いキョトキョトした目は、度の強い眼鏡のために変形していた。僧職を剥奪された聖職者、酒で身をもちくずした俳優、降神術の霊媒といった趣があった。私はロンドンの木賃宿や大英博物館の閲覧室で、これによく似た人々を見かけたものだ。彼の精神が平衡を失っているのは一目瞭然だった。もう一度蹴られるのを恐れるくらいの分別は今も残っているけれども、かろうじて正気を保っているに過ぎなかったのだ。とはいえ、ユダヤ人が語ったこの男の経歴はすべて事実といってよく、おそらくその通りだったのだ。つまり、人が思い描くナチスの拷問者、何年もの間敵として戦ってきたあの怪物は、明らかに罰ではなくてなんらかの心理療法を必要としているこの哀れな下郎に成り下がったのである。

 そのあとさらにいくつか、はずかしめが行なわれた。大柄でたくましい別の親衛隊将校は、もろ肌脱いでわきの下に入れ墨された血液型の番号を見せるよう命ぜられた。ほかのひとりは親衛隊の隊員であることをごまかし、正規の国防軍軍人であると言い抜けようとしたいきさつを、むりやり言わされた。私はこのユダヤ人が、果たして痛快だと思いながら新たに得た権力を行使していたのかどうか考えてみた。彼はほんとうに楽しんでいるわけではない、女郎屋に上がった男や、初めて葉巻をふかした少年や、画廊をぶらつく観光客のように、楽しんでいるのだと自分に言い聞かせているに過ぎない、お手上げだった時分にやってやろうと計画した通りに振舞っているだけだ、というのが私の結論だった。

 ドイツ系の、あるいはオーストリア系のユダヤ人がナチスに怒りを向けるのを非難するのは馬鹿げている。今のこのユダヤ人にしても、いくら腹いせしても飽き足りないほどひどい目にあわされたのかもしれない。彼の家族が皆殺しにされたということも大いにあり得る。結局のところ、気ままに捕虜をひとつ蹴とばすというのは、ヒトラー体制が犯した暴虐に比べれば実に些細なことである。にもかかわらず、この情景を含めてドイツでのさまざまな見聞から私が痛感したのは、復讐や懲罰という観念は全くたわいない白日夢だということだった。そもそも復讐などというものはあり得ないと言って間違いではない。復讐とは自分が無力な時に、また無力なるがゆえにやってのけたいと望む行為であって、無力感が取り除かれるやいなや、そうした欲求もまた蒸発してしまうのだ。
 一九四〇年だったら、親衛隊の将校が足蹴にされ、はずかしめられるさまを考えて、こおどりしない者はいなかっただろう。しかし、それが可能になった時は、痛ましい不快なものに過ぎなくなってしまうのだ。ムッツリーニの死体が公衆の前にさらされた時に、ひとりの老婆が「五人の息子のかたきだ」と叫んで、ピストルを抜いてそれに五発撃ち込んだといわれている。よく新聞がでっち上げるたぐいの話だが、これは事実かもしれない。疑いもなく老婆は何年も前から発砲を夢みていたのであ ろうが、五回の射撃によってどれだけ満足感を味わえたか、考えさせられるところである。彼女が射程距離内までムッソリーニに接近するためには、彼が死体となっているという条件が必要だったのだ。
 わが国の大衆は現在ドイツに押しつけられようとしている講和条件を支持しているが、それは敵を罰したところで、いかなる満足感も得られるものではないことを予見できないためである。われわれはかつて、東プロシアからの全ドイツ人の放逐というような犯行―時には阻止できないこともあるが、せめて抗議の声ぐらいは上げてしかるべき犯罪―に同意した。ドイツ人がわれわれを怒らせ、われわれに恐怖を与え、したがって彼らが屈した時、彼らにあわれみなど感じるはずがないと信じたためである。われわれはいったんドイツを罰すると決めたのだから実行に突き進まなくてはならない、という曖昧な気持からそうした政策にしがみついている、もしくはほかの者たちに肩代りしてしがみつかせている。実際は、ドイツに対する激しい憎しみはわが国ではほとんど影をひそめているし、そうあってほしいものだが、占領軍の場合はなおさら少ない。どこからであれ「残虐行為」とやらを引きずり出さずには気の済まない少数派のサディストたちだけが、戦争犯罪人や裏切者を追いつめることに熱中しているのだ。普通の人間に、ゲーリングやリッべントロップやそのほかの連中がどういう罰で裁判に問われているのか聞いても、答えは得られない。ともかく、こうした怪物の処罰はそれが可能になった時に魅力的には思えなくなるのだ。実際、鍵をかけて封じ込めてしまえば、ほとんど怪物で はなくなってしまうのである。

 あいにく、何か具体的な事件にぶつからないと自分のほんとうの気持が分からないものである。ドイツでの思い出をもうひとつ語ろう。シュトゥットガルトがフランス軍に占領されて数時間後、ベルギー人のジャーナリストと私は、まだ雑然としている町にはいった。このベルギー人は戦争の間、終始BBCの ヨーロッパ向け放送に従事し、ほとんどすべてのベルギー人やフランス人がそうであるように「ドイツ野郎」に対してイギリス人やアメリカ人よりもはるかに厳しい姿勢をとっていた。町へはいるおもな橋は残らず爆破されており、われわれはドイツ 軍による防衛の努力の跡を留めた小さな人道橋を利用しなければならなかった。階段の下にはドイツ兵の死体がひとつ、あおむけにころがっていた。その胸にはだれかの手で、いたるところに咲いているリラの花束が供えられていた。

そのそばを通る時、彼は顔をそむけていた。橋をかなり渡ってから、彼は死人を見たのはこれが初めてだと打ち明けた。おそらく三十五歳にはなっていただろう。しかも四年の間ラジオで戦争宣伝してきた男なのだ。それから数日の間、彼の態度は以前とはまるで違っていた。爆撃で破壊された町や、ドイツ人がなめている屈辱を見ては眉をひそめ、ある時など格別に悪質な略奪を止めにはいることまでしたのである。たつ時に彼は、われわれが携えてきたコーヒーの残りを、われわれの宿舎に割り当てられたドイツ人に進呈した。一週間前の彼だったら、「ドイツ野郎」にコーヒーをくれてやるなど、考えただけで憤慨しただろう。ところが、彼が自分でも言うように、橋のたもとで「哀れな死人」を見て心境に変化を来たしたのだ。戦争が何を意味するかにわかに悟ったのである。とはいえ、われわれが別のルートから町へはいっていたら、彼は戦争が生んだ、おそらく二千万になんなんとする死体のうち、ひとつも見ずに終わったかもしれないのだ。

(終わり)

 

今後も為になるオーウェルの評論を見つけたら紹介してみたい。