先日「新なるほどメモ13」を書いたが、そこで引用したのは、「人が人を裁くということ」小坂井敏晶(岩波新書)という本からだった。

 

 

この本の中で、次のような小話も引用されていた。知っている人は知っている有名な笑い話だ。

 

「ある夜、散歩していると、街灯の下で探し物をする人に出会う。鍵を落としたので、家に帰れず困っていると言う。一緒に探すが、落とし物は見つからない。そこで、この近くで落としたのは確かなのかと確認すると、落としたのは他の場所だが、暗くて何も見えない。だから街灯近くの明るいところで探しているのだ、と。」

(「ナスルディンの鍵」という話らしい)

 

社会心理学者小坂井敏晶はこれについて、「我々は探すべきところを探さずに、慣れた思考枠に囚われていないか。我々の敵は常識だ。」と書いている。

ちょっと違和感を覚えたので、ああでもない、こうでもないと考えてみた。

 

「我々は探すべきところを探さずに、慣れた思考枠に囚われていないか。我々の敵は常識だ。」とは本当なんだろうか。落としたのは他の場所だと知っているのに、明るいから探すのは「常識」なんだろうか?

この小話は、笑い話として捉えれば、単におバカな男が真面目にやっている行為が面白いということで話は終わるのだが、与太郎なら別として、ふつうに考えると「そんな奴、おらんやろう!」と言いたい。

 

むしろ、こう考えるべきではないのか。

この男、街灯の下で落としたのではないことを知っているのである。にも拘わらず落とした場所でない所を探している。アホ・バカと言ってしまえばお終いだが、なんで街灯の下つまり明るいところを探しているのか、という意図を問うべきである。

この男の考えは、探すためには明かりが必要だ。明かりがなければ探せない、と思っていることが想定される。だって暗いところを探したって見えないのだから、見つかるわけがない。だから、ここにないかもしれないが、少しの見つかる可能性に賭けて、明るいところを探すしかないと考えた。でも見つからない、というか見つかるわけがないのだが。

この見方に面白みはない。

Wikiには

「この譬え話は、さまざまな教訓として解釈されており、特に学問研究に関するものが多い。その場合、次の状態を揶揄するものと理解されている。本当に重要なところはどこか分かっているが、そこは分析する方法がない。そこで、光が当っているところばかりが研究されている。」

と書かれていた。

 

では、落とした場所は分かっていて、今探しているところには無いことは分かっている。しかしそれを知りながら何故探すのか。

それは探さないと或いは探す素振りをしていないと他人に言い訳できないからではないか。

例えば上司、例えば奥さん。

大事なものを落としておきながら、暗いからと言って探さなかったら、「何やってんだ、役立たず」と怒られるのが目に見える。だから、無駄と分かりながら、探すという「素振り」をしないといけない。

「一生懸命探したんだけど見つからなかった!」と言い訳できれば、見つからないことへの叱責は甘んじて受けても、自分の中ではやるだけのことはやった、という自己満足は得られる。あるいは責任逃れの言い訳!

無駄を承知で「やる」ことの意味をこの男はよく知っていたのではないか。

 

この推測は荒唐無稽なことだろうか。

私は会社でこんなことをいつも経験していた。例えば、企画案作成のための残業、しかも無駄な残業又は徹夜作業。

残業してもしなくても結論は同じだが、やった振りをするためには、無駄な残業が必要なのである。

なんだこんな企画!と怒られるのは分かっていても、徹夜で考えたのですが、と言い訳できる。

言い訳のための無駄な残業だ。(私がそういうバカなことをしていたんじゃないよ。隣の担当がそうしていたんだ!)

昔、団体交渉というのがあった。労使ともに譲れない、譲らない。平行線は絶対に縮まらない。双方ともにそんなことは十分承知だ。しかし、だから、もうくたびれたから交渉止めようか、なんていったら組合員に説明がつかないし、使用者側も社長に説明できない。だから、無駄でも徹夜交渉をするのである。

ここまで頑張ったが交渉はまとまらなかった、と。つまりやった振り。無駄だとわかっていてもやるしかない。ここに街灯の下に落し物がないとわかっていても、探すしかない、探す素振りをするのが目的だから、と同じ構図。

 

探さないと或いは探す素振りをしていないと他人から認められないからである。

つまり、探す振りは落としたものを見つけるためでなく、見つける振りを他人に認めてもらうためにやっているのだ。無駄を承知でやっているが、それを見ている者(上司又は第三者、マスコミ等)を納得させるためにやっているのである。

 

厚労省。ワクチンの危険性、ワクチン後遺症については薄々わかっているはずである。でも、そのことには触れようとしない。全く違う説明(ワクチン後遺症なんてない)についてしがみつくしかない。ワクチン後遺症などないという街灯の下を探すしかない。探す素振りをするしかない。それは無駄を承知でやる行為でなく、落とし場所を知っていても、「知らない」というためのカモフラージュ行為だ。これは厚労省役人の悪質な行為であり、アホだなんて笑っていられないのである。

これは、真実を見ることへの恐れだ!そのことが更にワクチン被害者を増やしていく。

 

因みに、ネットから。

「これはあくまでも寓話である。物語自体はバカらしくてもの裏に教訓となるメッセージがある。例えば鍵が新規事業の種だった場合はどうだろうか。自分にとって明るい分野を調べるのは楽である。しかし自明の分野ばかり調べていては新しいことは発見できない。大変でもあえて暗いところに飛び込み、手探りで探す必要がある。この寓話では、ナスルディンが明るいところだけ探す姿を通して、人は深く考えず、楽な方へ楽な方へと流れてしまいがちである、というメッセージなのだと受け取った。」

この分析も当たり前すぎて面白くない。