今問題になっているのはコロナ感染よりワクチン後遺症。ワクチン接種による突然死や癌発症、心筋炎、筋膜炎、脳幹出血・血栓などの病気の発症や免疫低下による各種病気の発症が心配されている。

またDNA混入で人間の遺伝子自体が永久的に改変される現実的なリスク例えば癌遺伝子の活性化などの危険性も指摘されている。

事実最近は超過死亡数が極端に増加しているし、芸能人の突然死や体調不良が数多く報告されている。

 

そんな中で、ワクチン接種に絶大なる自信を持っている人がいる。別にワクチンの危険性など認めずワクチンは素晴らしいと思っているのは自由だから、突然死したり体調不良になってもらって構わないんだけど、その自信の理由が何とも「トンデモ」で、それが結構みんなもそう思っているんじゃないかと。

 

先日もOB会で先輩(77歳)が6回ワクチン打った。これから7回目を打ちに行くとケロッとして言ったので、大丈夫ですかね、と言ったら「陰謀論!」と一蹴されたとは先日の記事に書いたところだ。

ネットの声を見ると同じようなご仁がいる。


「私、先日7回目のワクチン打ちましたけれど、ケロッとしてますよ。 たしか、日本の全医療関係者ももれなく全員、7回打っているはずです。 医師や看護師、療法士がまとめて死んだって話はとんと聞きませんが?」

 

このご仁のワクチン安全論は

①    私には副反応も後遺症もない。

②    もし何回もワクチン接種して後遺症が出るなら、日本の全医療関係者はまとめて死ぬはずだ。しかしそんな話は聞かない。

故にワクチンは危険ではない。

つまり、ワクチンが危険ならワクチン接種者全員が死ぬか後遺症に罹るはずだ。危険性があるという研究はだから一切認めない。

 

私もこの考えにちょっぴり賛同するところがあるのである。

ワクチンが危険ならワクチン接種者全員がもっと後遺症が出てもよさそうなのに、そうならないのは何故なのかという明快な説明を聞いたことがないのだ。

もちろん接種者には個人差があるから、ワクチンの悪さもその個人差によって発症したりしなかったりするのだろう。

もし、個人差など関係なしにワクチン接種者全員が何らかの後遺症に罹る又はバタバタと突然死するなら、それは紛れもなく猛毒なんだから、接種即中止だろう。もしそうなら、9千万人も接種などする訳がない。

つまり、ワクチン後遺症が個人差/個体差によるから、突然死や後遺症は宝くじのようなものかロシアンルーレットのようなものであるに違いない。そうでなければ困るよね。

 

その宝くじの当たりくじが沢山、それこそ1万人に1000人も当たれば、もう900万人もの被害者が出るわけだが、そこまでいかないから、1万人に50人程度の当たりくじなら、近所にワクチンで具合が悪くなった人はいないだろうし、本人も「ケロッとしてますよ」で済むかもしれない。

しかし、現実には超過死亡という統計でワクチン接種が疑われる異常値が出ているし、芸能人というマスコミが特別扱いする人にもワクチン接種が疑われる副作用が出ているわけである。

 

しかし、先のワクチン安全論者はこういうことを一切認めない。エビデンスがないと一蹴する。

因果関係が明確になっていないから、疑惑なのであり、また因果関係が明確になっていないこと、エビデンスがないことが、ワクチン接種は安全だという証明にはならないということも確かなのに。

 

そのいい例が明治時代の森林太郎(森鴎外)の脚気に対する判断誤りだ。

ネットから。

細菌説にこだわった森林太郎(森鴎外)

   

   森林太郎 軍医総監

 脚気は、かつて日本で「国民病」といわれるほど流行した歴史がある。脚気にかかると、神経の障害によって手足が麻痺し、しびれなどを引き起こす。重度になると、心臓に障害を起こして死亡する。

 江戸時代、玄米に代わって白米が徐々に普及するにつれ、脚気が広まり始めた。米の胚芽に多く含まれるビタミンB1は、精米によって取り除かれてしまうからだ。その上、当時は副食も乏しく、そもそもビタミンB1は欠乏しがちだった。もちろん当時はビタミンの概念はなく、脚気は原因不明の奇病とされ、白米がいち早く普及した江戸に多かったことから、「江戸わずらい」などとも呼ばれていた。

 明治時代以降は脚気の流行がさらに拡大し、年間1万~3万人が脚気で亡くなった。特に、同じ兵食を食べる軍隊内では脚気によって兵士が次々と亡くなり、国家を揺るがす大問題になった。戦傷者より脚気患者のほうが多く出て、壊滅状態に陥る隊すらあった。

 海軍軍医の高木兼寛は、脚気の原因が食べものにあることをいち早く見抜き、兵食に麦飯を取り入れ、海軍の脚気を激減させた。イギリスに留学経験のあった高木は、イギリス海軍に脚気がないことに注目し、洋食が解決の鍵であることに気づいたのだ。

 一方、陸軍軍医であった森林太郎は、脚気は「脚気菌」による細菌感染症であるとする説にこだわった。

 当時、ドイツで細菌学が隆盛し、世界をリードしていた。東京大学からドイツに留学し、最先端の医学を学んだエリート軍医の森にとって、高木の経験則に基づく治療は非科学的に映ったのかもしれない。

麦飯が有効とする説が広まると、対抗するようにますます細菌説に固執した。当時の陸軍の兵食は一日に白米六合であり、副食は乏しく、皮肉にも脚気のリスクが極めて高い食生活であった。

 その結果、日清戦争では4000人以上、日露戦争では2万7000人以上の陸軍兵士が脚気で死亡した一方、海軍兵士の脚気による死亡は日清戦争でゼロ、日露戦争ではわずか三人であった。海軍の兵員数が陸軍より少ないことを差し引いても、凄まじい差である。

 一九一一年に、化学者、鈴木梅太郎が、脚気に効く物質を米糠から取り出すことに世界で初めて成功し、これをオリザニンと名づけた。だが、日本語論文での発表であったため、世界的には広まらなかった。その翌年、フンクによって「ビタミン」が発見され、ようやく脚気はビタミン欠乏症の一つであることが認知されたのである。

 こうした経緯から、森林太郎は医学史においてやや評判の良くない人物ではあるが、一般には森鴎外の名で日本を代表する文筆家として広く知られている。一方、ドイツ医学への偏向、研究至上主義に傾きつつあった日本に、実地で患者に接し、治療を行う臨床医学の大切さを広めるため、高木兼寛は一八八一年、医学研究会「成医会講習所」を設立した。これがのちの東京慈恵会医科大学である。」

(引用終わり)

 

陸軍軍医であった森林太郎は、脚気は「脚気菌」による細菌感染症であるとする説にこだわった結果、白米主義を貫き、日清・日露の戦役で「脚気」による兵士の死亡が大量に出てしまった。

しかし、イギリスに留学経験のあった海軍軍医の高木兼寛は、イギリス海軍に脚気がないことに注目し、洋食が解決の鍵であることに気づいて、脚気の原因が食べものにあることをいち早く見抜き、兵食に麦飯を取り入れ、海軍の脚気を激減させたのだ。

つまり、科学的な思考は森林太郎のほうであり、因果関係は不明だがあるものが脚気に関係していると主張した海軍軍医の高木は、恐らく現代ならエビデンスがないとか科学的に証明されないとかで受け入れられなかっただろう。

しかし、陸軍と海軍と組織が別だったために実験ができたことになり、必ずしもエビデンスがなくても、推論で確からしさを証明できたのである。

現在のワクチン後遺症について、勝ち誇ったように「エビデンス」を要求する者はこの明治の脚気論争をじっくり味わったほうがいい。

 

もう一つの例がある。

センメルヴェイス反射だ。この言葉は経産省課長兼経済評論家中野剛志氏がMMT理論が何故受け入れられないかを説明するために持ち出して知られるようになった事例だ。

 

ネットより。

「1840年代のヨーロッパでは、子どもを産んだばかりの母親が、産褥(さんじょく)熱と呼ばれる病気で亡くなるケースが多かった。最良の医療を受けられた女性たちでさえ、そうだった。ハンガリー人の医師、ゼンメルワイス(センメルヴェイス)・イグナーツはこの問題に関心を持ち、原因の調査に乗り出した。

  

助産師と医師で死亡率に奇妙な差異

ハンガリー人医師ゼンメルワイス・イグナーツは消毒の先駆者だったが、手洗いを医療の改善と結びつけて説いたことで嘲笑された。

 ゼンメルワイスが勤めていたオーストリアのウィーン総合病院には、2つの産科病棟があった。一方(第1産科)は男性医師たちが、他方(第2産科)は女性助産師たちが担当していた。

ゼンメルワイスは、助産師が赤ちゃんを取り上げたときのほうが、産褥熱での死亡率がはるかに低いことに気が付いた。医師や医学生が担当した場合は、助産師が担当した場合に比べ、母親たちの死亡率が2倍に上ったのだ。

 ゼンメルワイスはこの現象を説明するため、多くの仮説を検証した。

お産の時の体勢が影響しているのではないか。男性医師に診察される恥ずかしさが熱の原因ではないか。もしかすると、死が近づいた他の患者のもとに司祭がやって来ることに恐怖心をあおられ、死に至るのではないか。

彼はこれらの仮説を1つずつ検証し除外していった。

第1産科の医学生は、分娩だけでなく、解剖も掛け持ちしていたことが分かった。

また、原因調査中に、同僚のヤコブ・コレッチカ医師が解剖中に誤ってメスで怪我をしてしまい、それが原因で亡くなってしまう事件が発生した。

 

この事件をきっかけにして、センメルヴェイスはひらめいた。

「解剖を行った医学生が何らかの感染物質を分娩室に持ち込んでいるのではないか」と。

そして、医学生たちに分娩処置の前には必ず手洗いを徹底するように指示した。

しばらくすると、見事にセンメルヴェイスの予想が的中し、第1産科では産婦の死亡率が劇的に減少たのであった。

当然目に見えない細菌がリスクを招いていることなどその当時の環境では知る由もなかったのです。もちろん、センメルヴェイス自身さえもだ。

ただ、センメルヴェイスだけは手についている”目に見えない何か”を信じることで、死のリスクを回避できる答えを導き出したのである。

では、他の医師達はどうだったのか? 残念だが…目に見えないモノに信憑性を見出すことができなかった。それどころか、事実に基づかない理論を繰り広げるセンメルヴェイスを厄介者扱いするようになったのである。

当時は手を洗う習慣がなかったことから、医学会の重鎮たちは手洗いの効果を疑問視し、センメルヴェイスの転勤後に、第1産科での手洗いを中止させてしまった。

 

また、他の医師達がセンメルヴェイスを厄介者扱いする理由が他にもあったのである。

それがこの手を洗うという理論を正当化することで今まで自分たちが行なってきた診察が間違いだったことを認めることに…。そして、もう一つが新しいモノを受け入れようとしない思想!即ち変化を嫌う傾向が当時の医学界には蔓延していたのである。

 

その後、センメルヴェイス医師はどうなったのか?

 残念ながら理論は受け入れられることなくセンメルヴェイス自身、精神異常者と呼ばれるまでになってしまうことに…。精神病院に送られるという不遇の人生を歩み、その後病で亡くなってしまうのです。時代がかわり、医学が発達しこの理論が正しかったことが証明されたのは後のことである。

 

このストーリーから、「今までの常識に執着して、それに反する新たな常識を拒絶する」傾向をセンメルヴェイス反射と呼ぶようになった。

センメルヴェイス反射を起こす原因とは?

センメルヴェイス反射が起きる原因は2つあると考えられています。
それは、信念固執と錯誤相関です。

原因①:信念固執 人には自分の信念を貫き通す性質がある。

センメルヴェイスが勤めていた病院の上層部でも、「病気を治す職業である医師が、病原体を媒介させているはずがない」という固執した信念があった。

この当時の医師たちの驕(おご)った考え方がセンメルヴェイス反射を引き起こしてしまったのである。

 

原因②:錯誤相関 錯誤相関とは認知バイアスの一つで「関係のない2つの事柄に関連性がある」と思い込んでしまう心理現象である。

ウィーンの総合病院のベテラン医師たちがセンメルヴェイスの手洗いに反発した理由も、「医師=病原体を持っていない」という錯誤相関が原因であるといわれている。
実際には、医師であってもヒトである以上は他人に病気を移す可能性は大いにあるのだが、当時の医師たちは「我々医師は清潔なのだから、そもそも手洗いなんてする必要ない!?」という考えだったようだ。」

(引用終わり)

 

「エビデンスがない」とか「証拠を出せ」というのは、相手に反対する、押さえつけるために都合のいい言葉なのである。ウクライナ戦争のプロパガンダが強力なのもこれがよく使われるからである。

昔も今も同じというわけだ。

といっても昔朝日新聞の女記者(高橋純子編集委員)が「エビデンス?ねーよそんなもの」と開き直ったことがあったが、エビデンス全面否定もまた危ういことも確かだ。

  

    朝日新聞 高橋純子編集委員

今回のワクチン後遺症も何百万人も死ななければ「エビデンス」にならないのだろうか。

そんな時はもう遅いのだが。

ただ、私、先日7回目のワクチン打ちましたけれど、ケロッとしてますよ。という男だけは、ワクチン後遺症になってもらうことを願ってやまない。間違いに気づくにはワクチン後遺症になってもらうしかないのだから。

 

(追伸)森鴎外の名誉のために

因みに、森林太郎軍医が脚気原因に固執して兵士を死に追いやったのは、誤りだという説もある。

この森中傷の説を唱えたのは、エリート森鴎外を批判したい板倉聖宣という科学教育者だというものだ。

Noteより

「世間で叩かれるほど、脚気惨害の責任が森鴎外(森 林太郎)にあるとはいえない。森鴎外を叩く人たちは、森鴎外の影響力を過大に評価して、まるで森鴎外が陸軍兵食のすべてをコントロールしていた(または、できた)はずだという幻を見て虚像を作り出している。その虚像としての森鴎外を現代において歴史的事実のように公にばらまいているのが日本の栄養学の界隈。さらに、海軍軍医 高木兼寛を持ち上げたい人たち(特に、高木を学祖とする東京慈恵会医科大の関係者)。当然、森鴎外を叩きたい人たちも。さらに、エリート森鴎外を批判する板倉聖宣の説に同調する人たち

日露戦争中において森鴎外は麦の脚気予防効果を認めている。
日露戦争中に森鴎外が書いた第二軍軍医部長臨時報告の明治38年2月6日第九十六回臨時報告において、森鴎外が第二軍の各軍医部長宛てに「凍傷予防」「伝染病予防」について通達したことが書かれている。そこには、脚気予防として、「麦及雑穀ノ供給ニ尽力スルヲ要ス」の一文がある。
これは、寺内正毅陸軍大臣が明治38年3月10日の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」を出す前のことである。森は、伝染病予防として脚気を書いているので脚気を伝染病として捉えてはいるものの、麦や雑穀による脚気予防効果について認めていたといえる。」

(引用終わり)

 

色々な見方があることがよくわかりました。現代において森林太郎がこんなに貶められていると知ったら、草葉の陰で嘆いていることでしょうね。

ただ、今回のエビデンス問題を考える上では、よいエピソードになっていると言えるでしょう。