新「なるほどメモ」その13(医者が新米なら殺人罪?)

「一人の男がいる。恋人を奪われ、嫉妬に狂い、復讐心から相手の男性を銃で撃つ。撃たれた相手は病院に運ばれるが、あいにく新米の医者しかいない。治療にまごつくうちに被害者は死ぬ。あるいは交通渋滞のために、救急車が病院にすぐ辿り着けず、死亡する。

 

もう一つの筋書きを考えよう。同じように、恋人を奪われ嫉妬に狂う男がいて、相手を銃で撃つ。しかし今度は医者が優秀で、被害者は一命を取り留める。あるいは救急車がすぐに病院に着いたおかげで助かった。
 さて犯人が捕まり、裁判が行われる。判決はどうなるだろう。

第一のケースでは殺人罪だ。 計画性や残虐性が認められる場合は、無期懲役か死刑になる可能性もある。それに対して第二のケースでは殺人未遂にすぎず、刑罰の重さが大きく異なる。
 では二つのケースは何が違うのか。犯人の行為自体はどちらも変わらない。同じ動機(恋人を奪われ嫉妬に狂い、復讐したい)であり、 同じ意図(殺す)の下に、同じ行為(銃の照準を定めて引き金を引く)が行われた。

被害者にとっての結果は異なるが、その違いの原因は犯人に無関係な外的要因だ。医者がたまたま優秀だったか、経験に乏しかったか、あるいは道が混んでいたかどうかという、犯人には関係のない原因だけが二つの状況設定で違う。動機も意図も行為も同じなのに、どうして責任と罪が異なるのか。

「人が人を裁くということ」小坂井敏晶(岩波新書)
 

そう言われればそうだよな、気が付かなかったなあ。運がいいか悪いかの違いかなあ。

なんて適当な感想しか持たないのだが、著者のいう通り「動機も意図も行為も同じなのに、どうして責任と罪が異なるのか」という疑問はどのように説明されるのだろう。やはり結果の重さで判断するしかないのか。

著者小坂井氏はこの文のあと、

「因果律の観点からすれば、行為が同じなのに、結果に応じて罪や罰が変わるのは明らかな論理誤謬だ。しかし、責任は因果律と異なる論理に支えられる。だから、秩序を維持するうえで、このような不条理な慣習が認められるのだ。」

と書く。しかしこれだけではなんのこっちゃである。

私はまだこの本を読み終わっていないので、これから読み進めて著者の言いたいことを理解していきたいと思う。

その結論をこのブログに書くかどうかはわからないけど。