猿之助の殺人疑惑事件の初公判なんだが、目新しい事実が出てきたわけでもなく、検察官、弁護士、被告猿之助三者とも緊張感に欠ける証言の連続で欠伸が出てくるような裁判シーンだった。
最近は低調になって余り見ないが、犯人がすぐわかるが、引っ張ってわざわざ2時間ものに伸ばし切った安っぽいテレビ刑事ドラマよりも詰まらない中身だった。
こんな安っぽい裁判劇を大物歌舞伎俳優市川猿之助が演ずるにはちょと脚本が悪すぎる。
起承転結又は序破急が演劇の構成の基本のはずだが、今回の猿之助マーダーケースでは、起承転結で言えば、「起」と「結」しかないし、序破急で言えば、「序」しかない。劇や物語で一番肝心な「転」や「破」「急」が全く欠けているんだから、面白くないのは当然だ。
しかも、この事件のストーリーは大物歌舞伎俳優市川猿之助が書いたのだから、なおさらこんな観客を沸かせずに欠伸の出るような演劇で木戸銭を取るつもりなのだろうか。
大俳優市川猿之助のことだから、恐らく、観客にはあくまで眠りたくなるような詰まらない筋書きを見せるが、猿之助自身の中で「転」や「破」「急」を考えてこれから演ずることだろう。
そのネタになってしまった猿之助の両親こそがいい迷惑だったというしかない。
この事件については、過去に4回ほど記事を書いているので余り書くことはないのだが、両親に自殺を納得させる理由や台詞がもっと練られたものだと思って期待していたのだが、全く平凡なかつ誰もが納得しない、つまり猿之助の言い分など誰も信用しない、死人に口なしの猿之助の勝手な言い分に堕してしまっていた。そしてそれを良しとする検察のだらしなさ、追及の甘さというか追及する気が全く感じられないいい加減さが余計に目についた。
前回の記事でも言及したが、嘱託殺人又は通常の殺人についての検討を検察はしなかったのか、したくなかったのか。その件は次の公判で問題にされるのか。もう判決は11月17日に言い渡されるというが、これもおかしいんじゃないのか裁判長よ。
「園田寿弁護士は猿之助のやったことは、自殺ほう助ではなく、嘱託殺人ではないかと疑問を呈している。
「自殺とは、人が自ら死ぬことであり、それを手助けすれば、自殺幇助となる。たとえば焼身自殺をするつもりの人に、だれかがガソリンを手渡し、その人がそれをかぶって自ら火を付けた場合に、ガソリンを手渡す行為が自殺幇助である。つまりこの場合は、火を付けるという本人の行為が重要で、ガソリンを手渡しただけでは決して死の結果は生じない。幇助とはそのような行為である。
また、たとえば焼身自殺するためにガソリンをかぶって横たわっているだけでは、その人は決して死ぬことはない。だれかに頼んで、火の付いたマッチ棒を投げ入れてもらえば、その人の望みは満たされる。この場合は、火の付いたマッチ棒を投げ込むことが「人を殺す」行為であって、それは幇助行為ではない。この場合は、嘱託殺人と呼ばれる。
…あの薬では死ねないならば、猿之助の行為は幇助とはいえない。高齢者だから母親はリスキーな状態にはなっていたかもしれないが、上の例でいえば、ガソリンをかぶって横たわっている人と同じで、そのままでは決して死ぬことはなかったのである(いずれ目が覚める)。そうすると、死の原因を与えたのは、猿之助がビニール袋を母親にかぶせたということ以外には考えられない。これは幇助ではなく、(嘱託あるいは承諾)殺人である。もちろん、母親に死の意思があったことが前提である(それがなければ、普通の殺人罪)。」
(引用終わり)
「歌舞伎界に迷惑をかけてしまい、歌舞伎の仕事はもうできない、と自殺を考えました」
《記事の内容を知った17日の夜、被告は同居する両親に「歌舞伎ができなくなり、死ぬしかない」と伝えたという。検察官はこの時の家族内の会話も明らかにした》
「母親からは『周囲の人への責任をどうするのか』、父親からは『舞台をどうするのか』と言われました」
《ただ、被告が自殺の決意が変わらないことを伝えると、両親はこう応じたという》
「母親は『わかった。だけどあんただけ逝かせるわけにはいかない。私らも逝く』、父親は『うん』と言いました」
こんな酷い脚本に観客は納得するかね、検察官よ。ここに検察官の役割がどう生かされているというのか。殺人の疑惑もある猿之助被告の供述をそのまま「ああ、そう、大変だったね」と認めるだけなのか、検察官よ。バカじゃないのか。
「死にたい」「分かった、私も死ぬ」って会話を誰が信用するというのか。猿之助ももうちょっと真面目に両親が自殺に同意した理由を考えろよ。こんなことでは警察も検察も猿之助にバカにされてしまうぜ。
この「歌舞伎界に迷惑を掛けたから死にたい」という強い思いで両親も道連れにのなら、事件から数か月しか経っていない今、もう「歌舞伎で償っていきたい」つまり「歌舞伎界に復帰したい」なんて安易に言及するなんておかしいだろう。つまり、「死にたい」という気持ちはその程度の思いつき、つまり週刊誌のスキャンダルから逃れるために思いついただけのものでしかなかったのじゃないのか。
その週刊誌のスキャンダルから逃れるために愛する両親を殺してしまったという後悔はないのか猿之助には!あれば初公判に「歌舞伎界に復帰したい」なんて絶対に言えないはずだ。
もう一度前回記事の私の妄想を書いておく。
「私の妄想的推理。
両親が一緒に死のうなんていうのは、猿之助の証言のみ。信ぴょう性が薄い。
両親を辱める記事ではないから、一緒に死のうと家族会議で決めた、というのは理由として軽すぎる。
両親が自殺する理由としてもっと強力な理由が必要。しかし、それがない。
猿之助が両親と自殺する理由がないなら、なぜ両親を死に至らしめたのか。
この程度の週刊誌記事で猿之助が死を覚悟するほど打ちのめされることは考えられない。
一つ考えられることは、
・週刊誌記事に関して家族会議が行われた、これは事実であろう。
・何が話し合われたのか。私は父親段四郎から猿之助への強い𠮟責があったのではと推測する。
・猿之助の名跡を猿翁(三代目市川猿之助)から受け継ぎながら、お前はその大事な名跡(先代が辛苦の上築き上げた猿之助歌舞伎!)を汚したという父の強い𠮟責!
・その叱責に対する猿之助の父親への強い負い目、それが怒りに変わりそして逆上!これまで頑張ってきた自負を父親から否定されたことへの怒りそして逆上! その怒りが殺意へ変わったということは考えられないだろうか。
・両親が自殺しようという理由がないなら、猿之助の方から父親に向けられた殺意が考えられるのだ。
その怒りはビニール袋をかぶせて死に至らしめたという行為に表れていないだろうか。
・母親はその巻き添えを食ってしまった。
・となると猿之助自身の自殺は偽装?ということになるが…。」
(引用終わり)
報ずるマスコミがひどすぎる。
週刊現代は、猿之助を悲劇のヒーローのような雰囲気を描く。バカじゃないか。
「保釈時に伸び放題だった髪は短く切りそろえられ、額を出して公開が延期された映画『緊急取調室』の長内洋二郎を思わせる風貌。
だが、そのころと比べると10kg以上はやせたのではないだろうか。肩回りは一回りも小さく見えた。濃い紺色のスーツに青いネクタイといういで立ち。記者席には白檀の香りが漂った。」
おいおい!冗談も顔だけにしろよ!なんだ「記者席には白檀の香りが漂った」とは!この書き方からして両親を死に追いやった猿之助の真実を追及しようなんて気持ちがさらさらないことが分かる。
安藤優子もアホなことを言っている。
「…安藤は「すごい異例ですけども」と語りつつも「ただね、まず被告も争う姿勢は全くないわけですよね。その認定については。ということはもう私、猿之助さん自体の精神的な部分について、ものすごく配慮したというふうに私は思います。そこはやはり精神的にもとても落ち込んでらっしゃるという報道でもあって、入院加療も必要だったというふうに聞いているので」と、即日結審に至った背景を推測した。」
被告は争う気がないって、当たり前やん!殺人がばれなかったんだから。殺人の疑惑のある被告に「精神的にもとても落ち込んでらっしゃる」なんて敬語を使いながら、精神的な落ち込みを心配するなんて、どういう気なんだ安藤は!歌舞伎界に復帰満々の男が精神的に落ち込んでいるわけないやろが。
そんな中でも一番まともなコメントをしたのが杉村太蔵だ。
「猿之助被告の「許されるのであれば、歌舞伎で償っていきたい」に、杉村は「聞いたとき驚きました。2度と復帰するなとは思わないけど、自分が犯した事の重大性を分かっていないんじゃないか。どれだけ歌舞伎界を傷つけたか。これで簡単に歌舞伎の世界にまた戻れるとなると、そういう世界なのかなと誤解を与えてしまうんじゃないか」とコメントした。」
また谷原章介もまともなことを言っている。
「谷原は「本当に驚いたのは、結審する前に、裁判中に『また舞台に立ちたい』という言葉が本人から出たこと。本当に驚きを覚えました」と話した。」
全く杉村太蔵のコメント通りなのだ。
「自分が犯した事の重大性を分かっていないんじゃないか」
杉村は自殺ほう助ですら「自分が犯した事の重大性」を問うているのである。なのに、警察も検察も安易に執行猶予まで匂わせている。
裁判長は今後の公判がないまま、判決するらしいがそんなことよく了解したものだ。この裁判官もやる気がないのかもしれない。
検察が自殺ほう助、弁護士も異議なしの場合、裁判官がその検察の立証に異を唱えて「嘱託殺人又は通常の殺人」として差し戻しすることはできないのか。
何とも司法が信用できなくなったのは、アメリカだけでなく、日本もそのように堕落してしまったのかもしれない。
これで、マスコミは猿之助の殺人の疑惑に言及できなくなった。つまり小室圭が結婚後よいしょ報道しかしなくなったのと同じ構造である。
裁判のこの流れは猿之助の計画遂行のために必須だったのかもしれない。
最後にもう一度過去記事から引用しておこう。夢野久作「ドグラ・マグラ」からである。
「…そして保釈され、おそらくホッとしている猿之助が今何を思っているのか、誰も知る由もないのだが、100年近く前に書かれた探偵小説というか世界的な奇書、夢野久作「ドグラ・マグラ」にその心境が書かれているのではないかと思うのである。
それは主人公の一人である九州帝国大学精神病科教授正木博士が殺人犯とされる狂人に語るところのものである。
「…かりにある人間が、一つの罪を犯したとすると、その罪は、いかに完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の「記憶の鏡」の中に残っている、罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消すことができないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、やむをえないので、だれでも軽蔑するくらいよく知っている事実ではあるが……サテ実際の例にしてみると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿なるものは、常に、五分も隙のない名探偵の威嚇力と、絶対に逃れ途(みち)のない共犯者の脅迫力とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一絶対の弱点となって、最後の息を引取る間際まで、人知れず犯人につきまとってくるものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われ得る道は唯二つ「自殺」と「発狂」以外にないと言ってもいいくらい、その恐ろしさが徹底している。世俗にいわゆる「良心の呵責」なるものは、畢竟するところ、こうした自分の記憶から受ける脅迫観念に外ならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺してしまうより外に方法はない…ということになるのだ。
……だから、あらゆる犯罪者はその頭が良ければいいほど、この弱点を隠蔽して警戒しようと努力するのだが、その隠蔽の手段がまた、十人が十人、百人が百人共通的に、最後の唯一絶対式の方法に帰着している。すなわち自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の「罪の姿」を「記憶の鏡」といっしょに密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、あいにくなことに、この「記憶の鏡」という代物は、周囲を暗くすればするほど、アリアリと輝きだしてくるもので、見まいとすればするほど、見たくてたまらないという奇怪きわまる反逆的な作用と、これにともなう底知れぬ魅力とをもっているものなのだ。
しかしそれをそうと知れば知るほど、その魅力がたまらないものとなってくるので、死物狂いに我慢をしたあげく、やりきれなくなってチラリとその記憶の鏡を振り返る。そうすると、その鏡に映っている自分の罪の姿も、やはり自分を振り返っているので、双方の視線が必然的にピッタリと行き合う。思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれることになる……こんなことが度重なるうちに、とうとうやりきれなくなって、この秘密室をタタキ破って、人の前にサラケ出す。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せる。「犯人はおれだ。この罪の姿を見ろ」…と白日の下に告白する。そうするとその自分の罪の姿が、鏡の反逆作用でスッと消える……初めて自分一人になってホッとするのだ。
……または、自分の罪悪に関する記憶を、一つの記録にして、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この呵責を免れる一つの方法だ。そうしておいて記憶の鏡を振り返ると、鏡の中の「自分の罪の姿」も、その記録を押え付けつつ自分を見ている。それでイクラか安心して淋しく笑うと「自分の罪の姿」も自分を見て、憫(あわ)れむように微苦笑している。それを見るとまた、いくらか気が落ち着いてくる……これが吾輩のいわゆる自白心理だ……いいかい……。
……それから今一つ、やはりごく頭のいい……地位とか信用とかをもっている人間が、自分の犯罪を絶対安全の秘密地帯に置きたいと考えたとする。その方法の中でも最も理想的なものの一つとして、今言った自白心理を応用したものがある。すなわち、自分の犯罪の痕跡という痕跡、証拠という証拠をことごとく自分の手で調べ上げて、どうしても自分が犯人でなければならぬことが、言わず語らずのうちにわかる……と言う紙一枚のところまできり詰める。そうしてその調査の結果を、自分の最も恐るる相手……すなわち自分の罪跡を最も早く看破し得る可能性を持った人間の前に提出する。そうするとその相手の心理に、人情の自然と論理の焦点の見損いから生ずるきわめて微細な……実は「無限大」と「零」ほどの相違を持つ眩惑的な錯覚を生じて、どうしても眼の前の人間が罪人と思えなくなる。その瞬間にその犯罪者は、今までの危険な立場を一転して、ほとんど絶対の安全地帯に立つことができる。
そうなったらもう、しめたものである。いったん、この錯覚が成立すると、容易に旧態に戻すことができない。事実を明らかにすればするほど、相手の錯覚を深めるばかりで、自分が犯人であることを主張すればするほど、その犯人が立つ安全地帯の絶対価値が高まって行くばかりである。しかもこの錯覚にひっかかる度合いは、相手の頭が明瞭であればあるほど、深いのだ……いいかい……。」
(「日本探偵小説全集〈4〉夢野久作集」創元推理文庫 685~687ページ)
(引用終わり)
猿之助は舞台芸術家である。自分の所業を「見まいとすればするほど、見たくてたまらない」ということになって、今後は芸術のなかでそれを発揮していくのではなかろうか。そこに「良心の呵責」なるものがあるのかどうかわからないが。
しかし、本当に自殺ほう助であっても、両親を死に至らしめた事実は死ぬまで消えないのだ。
そのことについては、いつまでも両親に悔いてほしいものだ。
何年後か知らないが、いつか本当のことを話してほしい。その日が来るかどうかは猿之助が普通の精神に戻った時だからいつになるのやら。」