今回は「伊藤貫の真剣な雑談」第14回「アメリカ民主政治の堕落と混乱を予告したトクヴィル!」の後編の文字起こしです。

1時間11分もの長編となっていますが、中身が素晴らしいので時間を忘れるほどです。

 

  

 

YouTubeコメント

「こんな昔に民主主義や選挙の行き着くところを見抜いていたなんて凄い人ですね!伊藤先生、自分では一生勉強する機会がなかったであろうトクヴィルをご紹介下さりありがとうございます!」

「多数派は何をやってもいいと言う考え方に不潔で卑しいものを感じる。この言葉が心に響きました」

「最近、ときどき耳にするようになったトクヴィル。昨今のグローバリズム的・新自由主義的な価値観への疑念からその根底にある民主主義に対する疑念さえ生じたということか。

分かり易くエッセンスをまとめてくださって有り難う御座います。私たちは民主主義を正当化するあまりあらゆる判断力を摩耗させてきたのかもしれませんね」

 

    

 

(後編開始)

トクヴィルは、その著書「アメリカのデモクラシー」の中で、人間にはもっと大切な、そして真剣な自由があるはずと言う。
 啓蒙主義思想を実践すると、自由を求めたはずの人間が本当の自由を失ってしまうということについて5つに分けて説明している。これは哲学的な批判であり、必ずしも一般の方には説得力を持たない議論に聞こえるかもしれない。
 自由・平等・民主という啓蒙思想を実行すると国民は逆に自由を失っていくことになるということを、トクヴィルは次の五つの点から説明している。
1.多数派至上主義による専制主義
2.世論崇拝主義による知的な画一主義(Conformism)
3.民主主義社会の平等主義から来る嫉妬による抑圧主義

 法律的には自由主義が実行されているように見えても実態としては抑圧されている。
4.ヨーロッパの革命前の世界と後の世界、また、ヨーロッパとアメリカを比べた場合、中間的支配者層が革命後の世界とアメリカに存在していない。
 トクヴィルは中間的支配者層を非常に重視している。革命前のフランス、19世紀のイギリスにはそれが存在した。トクヴィルの分析によれば、国家の自由、寛容というものを本当に維持していたのは国王ではなく、一般国民でもなくその間に存在する中間的支配者層だったと説明している。
5.中央政府による保護者的な統制主義による「新しい奴隷制度」。
 トクヴィルは民主主義、自由主義、平等主義を実行しているとそのうち政府の力がどんどん強くなると、政府は国民を保護してあげるというポーズをとりながら、新しい奴隷制度をつくることになるだろう。そうすると、最終的に啓蒙思想を追求していって行くところまで行くと新しい奴隷制度を作ることになる、と指摘している。

一つ目.多数派至上主義による専制/独裁
 民主主義というのは多数派の意見に従うこと。トクヴィルはフランスでは民主主義をフランスでは支持していたが、多数派がすべてを決めてしまうという社会は、長期的にはまずいことになると考えていた。文章を引用すると;
『民主主義のエッセンスは多数派が権力を行使することであり、議会は多数派の意思を立法化する。社会は多数派の政治的な面での優越性を認めるだけではなく、多数派に道徳的な優越性まで認めてしまう。民主主義では一人一人の議員の資質よりも、議員の数が問題になる。要するに多く議員を当選させた人間が勝ち!これは人間の知性の分野にまで平等主義の原則を適用することであり、数が多ければそれでいいのだということになる。数が多い方が道徳的にも政治的にも勝ちだということになる。』
トクヴィルは、『私は個人的には多数派は、何をやってもいいという考え方には、不潔で卑しいものを感じる。』と述べている。この考え方は、トクヴィルの宗教的もしくは哲学的考え方からにもとづくものである。
『アメリカでは多数派が何かを決定すると、そこで議論がピタっと止まってしまう。ヨーロッパでは最も専制的な国王ですら、国内の少数派の言論を止めることはできない。しかしアメリカは、少数派を沈黙させることができる。アメリカでは多数派が物理的な権限だけでなく、道徳的な権限も行使している。世界諸国の中でアメリカぐらい思考の独立と真の言論・議論の自由が欠けている国はない。』と指摘している。当時はアメリカぐらい言論が自由で、ものの考え方は独立した考え方はないと思っていたのだが。これは彼が1835年に書いた文書で、1830年代当時の世界のことを指している。

『アメリカぐらい、思考(エスプリ、スピリット、マインド)の独立性に欠けている国はない、また、議論の自由の欠けた国はない』ということ。

トクヴィルの観察によると自由と民主主義を実行していた1830年代のアメリカという国ほど、精神と思考の独立性と自由の議論する態度が欠けている国はない、とみていた。アメリカの民主主義のことを、「La tyranny de la Majorite」=「多数による独裁の国」と見ていた。

アメリカは少数派の意見を唱える人を露骨に迫害して村八分にして社会から抹殺してしまう。アメリカの言論迫害はスペインの異端審問よりひどいものである。』と書いている。
しかも、トクヴィルは、

多数派による専制、圧政、独裁政治を恐れるアメリカ人はいつも多数派の意見に迎合しようとするような計算高い国民となっている。そのため、アメリカでは偉大な人格者というものが出てこない。

と述べている。
 要するに、フランス革命にしてもアメリカ独立革命にしても、自由主義、民主主義を実践したと言うことになっているが、トクヴィルから見てこれは「多数派による圧政・独裁」に見える。

次の、世論崇拝から生ずる知的な画一主義について
『平等主義、民主主義の時代になって人々は一般の世論に真理の根拠を求めるようになった。革命以前の社会においては、それぞれ違う階級に所属する人たちは全く異なった見解を抱くことを不思議に思わなかった。階級社会では深い学識と教養をもつ少数の力強いひとたちと多くの無知な大衆が共存していた。そのような時代の人々は少数の卓越した知性をもつ賢人の意見に耳を傾けて、彼らの意見をガイダンスとして自分の意見を形成していった。
 当時の人々は大衆の世論が真理だなどと思っていなかった。しかし、平等主義、民主主義の時代になると一般の世論が非常に強い影響力を持つようになった。人々は世論の推移に従うようになり、世論の判断を信奉するようになった。最多数となった意見が時代の真理と見なされるようになって、人々にとって自分自身で考えてみるという行為は不要となった。多数派による世論が一種の宗教となったのである。
『この、世論に従うという人々のパターンは人間の思考力を狭い範囲に閉じ込めてしまった。平等主義を実践する民主主義社会は逆に知的、精神的自由を拘束している。階級社会の桎梏から解放された筈の人間の知性は、多数派世論による拘束という新しい別の牢屋に閉じ込められることになった。』
『人々は奴隷制度の新たな側面=形(nouvelle physionomie de la servitude)となっている。民主主義による世論崇拝という画一主義は、「新しい奴隷制度の時代」を作った。』
 要するにみんなが民主主義と自由主義を実行しているつもりなのに、トクヴィルからみると、「これって新しい奴隷制度なんじゃないか」と見えた。

次に民主主義社会の平等主義から来る嫉妬による抑圧現象を説明している。
彼は、自由と平等というものは常に共存できるとは思っていなかった。当然です。誰でもわかること。みんなの自由なことをやり出せば、だんだん平等ではなくなってくるし、平等にしようとすれば誰かの自由を制限せざるを得なくなる。自由と平等とはそう簡単には両立しない。これは自明である。

彼によれば、

『平等を望む人間の心理はしばしば社会の強者や優越者に対する嫉妬や怨恨となり、人々は自由な状態における不平等よりも、隷属状態における平等を望むようになる。』

『人間の欲求の中で最も強いのは、自由に対する欲求ではなく、平等こそが人間の最も強い欲求であるという。従って、民主主義社会では、優越した人もしくは自分と違った人に対する嫉妬や不快感が、政府の権力を使って人間社会の画一化を求める人間の格差や差異を消滅したいという衝動となる。

従って人々は社会環境の均一化と人間の同一化を求めるようになる。これによって政府は、国民からの人間の平等化・均一化の要求を受け入れて、政府の規制権と介入権を拡大していくことになる。』 

つまり、自分と違った人に対する嫉妬心とか恨みを持つようになると、政府はそれを利用して結果としてより大きな政府を作っていくようになる。
 

 これに対して私が感じるのは、今のアメリカは差別反対、偏見反対という世論が蔓延し、マスコミと民主党はそれ一色になっている。「お前は偏見を持っている」「お前は差別感情を持っている」と。それで相手を攻撃することが連日起きている。これがPolitical Correctness(ポリコレ)とか、ウォークネス(wokeness:差別に対して意識が高い、覚めている)と言う言葉で、You are not woked (おまえは鈍感だ、差別感情が強い、時代遅れだ、私の人間性を無視している・・・)というような言い方になる。

 差別反対、偏見反対というマスコミと民主党が主導するポリコレとWokenessによって今のアメリカでは、教育機関においてもマスコミにおいても政治活動においても行政機関においても、言論の自由と表現の自由が非常に厳しく規制されている。
 例えば、一番馬鹿げた話だが、大学に入ると先生が学生に対して、男であれ女であれ、例えば男子に対して、「私はあなたをHe/him と呼んでいいか、それともShe/her、あるいはTheyとかThemと呼ばれたいか」と聞いている。男子でも自分のことを女性と認識している人にheと言っては彼のアイデンティティを傷つけることになると。

ひどいところでは小学校の一年生の生徒にも聞いている。小学校の一年生に聞いてもわかるはずがないのに。小学校の先生が、「Hi Boys and Girls!」という呼びかけはNG。なぜなら、自分のことをBoyとかGirlとか思いたくない子供がいると。自分をトランスジェンダー、ジェンダー・フルイッド,ジェンダー・エクスチェンジャブル(性別はその日の気分によって変わる!)と思っているひとがいるらしい。「Hi Boys and Girls!」という呼びかけは差別用語になると!!これはホントのことなんです。
 ポリコレとウォークネスから来る極端な言論の制限、抑圧が実際に起きていて、アメリカに住んでいる僕は、嫉妬とか反差別感情による抑圧主義というのは笑い事ではない。一般の英語におけるheとかsheの当たり前の表現を使うときも用心しなければならない。単数でも、Call me they or them などと複数で呼んでほしいと言う人がいるので英語の文法までおかしくなっている。
 平等主義から来た抑圧主義というのは、アメリカでは、言葉の最も基礎的な名詞、代名詞を使っていいのかまで制限される事態になっている。これが平等主義と民主主義の行きつく末ということです。

・中間支配者層が消滅したことによる政府による全体主義
 中間支配者層が社会からなくなると、政府はたとえ自由主義、民主主義を守っているようなふりをする政府であっても、実際には全体主義的な行動をとれる、とトクヴィルは指摘している。

彼は、『革命前のフランスには国王と国民の間に中間的な支配者層が存在していた』と指摘し、彼はこの中間的支配者層(中間にいる権力の保持者:国王と国民の間におかれたsecondary power)の存在を非常に重視していた。中間的支配者層があるからこそ、彼の考えによれば、16世紀から18世紀までのヨーロッパ諸国の政府は、政府による専制主義、画一主義、言論弾圧を阻止できた、と彼は言っている。
 トクヴィルより少し前のイギリスの思想家、エドマンド・バークも同じことを言っている。彼も社会には中間的支配者層が必要だと行っている。単に政府と国民だけでは本当の自由主義は実践できないと指摘している。
 トクヴィルの説明によると、中間的支配者層というのは、『国王と国民の間に、中小の領主層、もしくは貴族階級、騎士階級、紳士階級、聖職者階層、という層があって、一種のクッションの役割を果たしている。この中間的支配者層こそ、本当の地域のコミュニティのリーダーシップをとっていた。』と。国王がいちいちコミュニティのリーダーシップをとるわけがないのだ。彼ら中間的支配者層が庶民を指導していた。バークもトクヴィルもこれが非常に重要だと言っている。
 彼によれば、

『民主主義体制よりも中間的支配者層のあるアリストクラシーの方が個人の独立を保証するのに向いていた。』
 アリストクラシーというのは日本語では貴族制度と訳すが、僕はアリストクラシーというものを貴族体制とか貴族政治と訳す/理解することは必ずしも正確ではないと思っている。アリストクラットはもともとギリシャ語で、アリストとは、優れた人、卓越した人であり、貴族というものではない。貴族というときれいな服着てお城に住んで贅沢しているという印象だが、もともとアリストクラシーはギリシャ語では、優れた人たちが統治している政府ということを意味する。ヨーロッパの貴族=贅沢して遊んでいるような特権的な階級とは違う。アリストクラシーを貴族政治と訳してしまうと違う解釈になる。

『民主体制よりアリストクラシーの方が個人の独立を保証するのには向いていた。アリストクラシーにおいては、国王は権力を独占することができず、国家の統治権を分割せざるを得なかった。アリストクラシーにおける政府の官僚は自分たちの地位と権限を国王から与えられていたわけではない。従って国王は自分の意に従わない政府の官僚を首にする能力を持たなかった。アリストクラシー社会では、独立した影響力持つ人が多数存在しており、政府がこれらの有力者を抑圧することはできなかった。国王が勝手なことをやろうとした場合、これらの有力者たちはお互いに協力して国王の専制を阻止する能力を持っていた。』
つまり、国王もこれら中間的支配者層の有力者を怒らせるようなことをやると、自分の権力を制限されてしまう。アリストクラシーは国王に対する拒否権(Veto power)を持っていた。

しかし、トクヴィルによれば『フランス革命ではこのような中間的支配者層を一掃してしまった。聖職者も騎士階級もすべていなくなった。』という。
中間的支配者層が無力化されたため、民主主義社会では政府の権力に対して抵抗できる個人がいなくなってしまった。民主主義社会における個人は弱々しく孤立する存在であり、中央政府に対抗できない。無力化された群集は中央政府の組織化した権力に従うしかない。従って、民主主義は国民を中央政府によって均一化された矮小な市民の群れと扱われるようになった。

『中間支配者層がフランス革命によって消滅したことにより、フランスは逆に政府によるラ・ヌーベル・サービチュード(New Slavery system)新らしい奴隷制が発生することになった。』

 これは1840年のトクヴィルの著作「アメリカの民主主義」の最終部に書かれていることで、これを読んだ20世紀後半の人はみんな驚いた。なぜかというと、トクヴィルは第二次大戦後の西ヨーロッパと北欧の福祉社会の実現を予言していた。100年以上後のことを、トクヴィルは予言していた。
 トクヴィルによると福祉社会主義(スウェーデン、デンマーク、ノルウェー)は必ずしも人間の尊厳にとって望ましいものではない、と言っている。なぜかというと、福祉主義を進めると、トクヴィルは自由主義、民主主義を支持したが、それと同時に、国民が政府に従属しすぎることをすごく嫌がっていた。
 彼はアメリカ人のことを「これほど言論の自由がない国はない、思考の自由はない、、」などとけなしているように、彼は非常に鋭敏で、みんなが自由主義と民主主義を実行しているつもりのときに、それは本当の自由ではない、人間としての深い考えと尊厳を失っているのではないか、という疑念・疑問を抱いてしまう。トクヴィルはPascalが大好きで、パスカルも非常に孤立した秀才だが、トクヴィルもパスカル的なところがあり、本質をグサッと刺すような考えをもち、秀才で両者は似ていると感じさせる。
 彼は、20世紀後半に人類が実際に作った福祉社会/福祉主義というものを「新しい専制主義(Despotism)」とまで呼んでいる。

新しい種類の専制政治において、

『政府は均一的な大衆の矮小な快楽に対する要求まで満足させてやろうと行動する。政府は保護者的な親切でかつ几帳面な態度で人々の日常生活と欲望をコントロールしていこうとする。政府はパターナル(優しい面倒見のいいお父さん)な態度の政府となる。

この新しい種類の専制主義の目的は、国民を恒常的に幼児的な状態・段階にとどめておくことである。精神的に国民が大人になれない状態にとどめておく。すべての国民にとって何が幸せな人生なのかを決定するのは政府であり、政府のみが国民の幸せを定義する能力を持っている。政府は国民にとって必要な生き方や関心事や娯楽まであらかじめ決めてあげる。政府はまるで国民の一人一人が自分のことを自分で考える必要性まで除去してやろうとするようである。

その結果として、国民は一人一人考えなくなり、人間の自由意志は非常に狭い範囲内でしか機能しなくなる。国民が自立して自分で考える(自思)能力は衰退していく。』
『しかもそのような自分のことは自分で考えて決めることができなくなった人間は、自分のことを幸せな境遇に住んでいると思うようになり、社会は細かい画一的な規則で縛られるようになり、このような社会では独創的な思考力の持ち主や強い精神力を備えた人は、拘束的な環境から脱出できなくなる。人間の意志力は抑制されて鈍化され、枯渇化していく。そして、国民は単なる勤勉で臆病な家畜の集団となっていく。』         
 このトクヴィルの言葉は後に非常に有名なフレーズとなった。1840年に、「将来の国民は勤勉で臆病な家畜の集団となるであろう」と指摘したことは、オーウェルの『1984年』にあるような臆病な飼いならされた集団となっていくというものである。
 トクヴィルはこのような家畜の集団の国民を「やさしくて平和的な奴隷制のもとの国民」と呼んでいる。やさしい奴隷制であると。

『このような奴隷制は、国民主権や自由主義と矛盾していないという外見を維持できる。このようにコントロールされ、拘束されている国民は、自分たちの監督者(拘束者)を選挙で選んでいるのは自分たちだ、と思って満足している。人々は人間としての真の自由を失った状態のもとで生きながら、自分は人間としての自由を維持していると思い込んでいる。
 要するに、民主主義、自由主義、平等主義を続けることは、トクヴィルの目には新しい奴隷制(国民の面倒を1から100まですべてコントロールして満足させてあげるような)奇妙な奴隷制をつくることになる、と指摘している。
 

 トクヴィルは1835年のアメリカの民主主義において、

民主主義における選挙において、政治指導者の質は低下していく。普通選挙を実行すると政治家の質がどんどん落ちていく。』と書いている。
 その議論はものすごく説得力がある。トクヴィルは、彼自身がフランスの7月王朝(ブルジョア封建王朝)の国会議員であったので、彼自身が民主的な選挙を体験している。自分が国会議員になったのにもかかわらず、民主的選挙をやると政治指導者の質が落ちていくと判断している。
 僕は、この1835年のトクヴィルの分析は2023年の現在も正しいと思う。190年前の判断であるが、トクヴィルが指摘している三つの点は、現在でも正しいと思っている。
『民主主義政治の仮説・前提は、報道の自由、言論の自由を実践すれば、それによって啓蒙された国民たちは質のよい政治指導者を選出するだろう、これが民主主義の仮説、もしくは前提である。』 
 しかし、トクヴィル自身はこれを信じていなかった。

なぜなら、彼によれば。報道の自由、言論の自由についていうと;
『アメリカのジャーナリストは教育レベルが低くて彼らの言論は粗野であり攻撃的である。彼らには本当の信念や節操などと言うものはなく、他人の弱所や欠点を暴き立てることによって熱中している。しかし、そのようなジャーナリストが群れをなして同じ主張を繰り返すと世論はその方向に引きずられて行ってしまう。個々のマスコミ人は矮小な存在に過ぎない。それにもかかわらず、これら矮小なマスコミ陣が集団となると、アメリカで最大の社会的影響力を行使している。』
 トクヴィルはジャーナリストが嫌いだった。下品で教育レベルも低く人の荒さががしばかりしている。一人一人は矮小だが、グルになると世論が引きずられて最大の社会的影響を行使する結果となっている、と。彼は報道の自由、言論の自由を実践すれば人々が啓蒙されるとは思っていなかった。

つぎに、トクヴィルが言っているのは

『すべての人に投票権を与えれば優秀な人が選出されると民主主義者は主張してきた。しかし、私はアメリカで逆の事態が発生していることを発見した。本当に優秀なアメリカ人は選挙に出たがらない、彼らは政治に出ることを避けて、経済活動に専念している。選挙に出馬したがるアメリカ人たちは凡庸な人たちばかりであるしかも、一般の投票者たちが選挙で優秀な人に票を投じると言うこともない。民主主義社会の投票者は自分の失望や嫉妬や怒りといった感情に基づいて票を投じているのであり、自分よりも優越した人を選挙で支持しようとしている訳ではない。従って優秀なアメリカ人にとって政治家というキャリアは魅力のあるものではない。政治家になれば、自分の独立を失うし、人前で品のない振る舞いをしなければならないこともある。従って、彼らは政治家というキャリアを避ける。
 私の目から見ると、普通選挙を実施すれば優れた政治指導者が出てくるという考え方は完全な妄想である。しかも、国民の知的レベルの向上には明らかに限界がある。公の政策を理解するには政策を勉強する時間が必要である。しかし、大部分の国民は自分の生活を支えるための労働をすることで精一杯で、彼らには公共の政策を勉強してみる時間的な余裕と経済的な余裕などない。そのような余裕のある生活をしている人々はごく少数である。そしてそのような人たちは一般の庶民ではない。従って大部分の国民は本当の政策理解力を持てないまま、表面的な印象に左右されて投票している。そして、口のうまい詐欺師的な政治屋たちはそのような国民を操るテクニックを身につけている。そのため、質の低い人物が選挙で多数当選するのである。』

 彼は、優秀な人は政治家になりたがらないし、マスコミは人の悪口ばかり言っているし、教育レベルは引くくだらない連中だし、国民は国民で、一握りの人を除けば公共政策をじっくり勉強する時間的、経済的余裕はない。投票者も政治家になる人もマスコミもろくなものではない、と指摘している。それなのにどうして普通選挙をやると質のよい政治指導者がでてくるのか、と指摘している。

これは、トクヴィルが1835年に言ったことだが、今でもどこの国においても100%正しいと思う。

最後に、民主主義と平等主義はマテリアリズムを強化して、学問と芸術まで低劣化させていくと。
『民主主義体制下のもとでは、人々は目先の利益の獲得に執着する。彼らは、自分の置かれた境遇に不満を抱いており、どうしたら私はもっとよい生活ができるかと言うことばかり考えている。富と快楽の増大が彼らにとってこの世で最も素晴らしいことのように思える。自由主義と民主主義は多数の自己利益増大主義者を生み出す。知的精神的に高尚な価値判断、価値規範を保つことを説く者はこれら自己利益のチャンピオンに踏み潰されてしまう。民主主義において社会の進歩はマテリアリスト(物質主義、経済利益優先主義、拝金主義)的な基準によってのみ計られるようになる。』
『マテリアリストの基準によってのみ社会が進歩しているかどうかが計られるようになる。公徳(Public Vertue)や公正(Public fairness)というコンセプトは空洞化していく。経済的な繁栄の追求は、徳のある生き方とは無関係なものになる。そして人々は競争に勝つもしくは成功することが生きる目的となる。このような生き方によって人間は獣(けだもの)化していく。

と彼は言っている。
 しかも、もっとすごいのは、

マテリアリズムは精神の病である。マテリアリズムという病気は人間に内在している利己心という欠陥とすばらしい共存共栄関係にある。民主主義は、物質的肉体的な快楽主義を増強させて、文明を劣化させていく。民主主義体制では文学も劣化していく。作家は、大量に著作を売って金儲けすることを目指すようになり、大衆受けする文章を書きまくる。アリストクラシー社会の文学は少数の読者を喜ばせるために洗練されたスタイルで高貴な理想を描いた。当時の文学は金儲けとは無縁の行為であった。しかし、現在の民主社会の文学は単なる商売に過ぎない。』
彼が言うには、

『しかも民主主義は言語そのものを変えてしまった。民主主義社会の圧倒的な多数派は学問や哲学には興味がない。圧倒的な多数派は商売と政治に関心をもっている。従って言語はこの多数派の好みを満足させる形に変化していって、形而上学や神学、哲学は廃れていく。言語は決められたスタイルを失い、洗練と下品が無秩序に混在するようになる。そして、言語も社会も泥沼状態になっていくのだ。』と。
 これはトクヴィルの「マテリアリズムが文明の〇〇事態?を破壊していく」という議論です。トクヴィルは19世紀はフランスでもギリシャ・ラテンの古典を読むことがはやらなくなったが、トクヴィルは19世紀になってもギリシャとラテンの古典を学習することが民主主義に内在している数々の欠陥に対抗するために最も効果的な方法であると指摘している。
『古典をじっくり学ぶことが金銭欲にまみれた社会に、非常に洗練されて非常に危険な市民を生み出すからである。』

トクヴィルは民主主義社会の欠陥を正すためには、すごく洗練された危険人物が出るべきだと。Polished and dengerous person(洗練された危険な人物)が民主社会には必要という趣旨だが、これはトクヴィル自身ではないかと思える。

先ほど言いましたように民主主義で普通選挙なんかやってもろくな奴が出てこないと本当のことをはっきり書くわけですね。アメリカのジャーナリストなんてのはごろつきみたいな奴ばっかりだと。これも本当のことでしょ。

だから要するに、啓蒙主義思想の言論の自由と表現の自由、報道の自由があればそれによって国民は啓蒙されて、すばらしい政治指導者を生み出すというのは100%嘘で、妄想に過ぎないと指摘している。このようなことを19世紀に言うのは非常に危険だが、さらっと述べている。彼自身が非常に洗練されていて危険な人物そのものだからだと思う。それを自覚していたと思う。


 トクヴィルはこういう啓蒙思想の自由主義、民主主義、平等主義を実践すれば国民の質は向上し、文明もよくなっていくだろう、人間の暮らしも政治もよくなっていくだろうというということに対して、彼の800頁の本のなかでいろいろな欠点を非常に明瞭に説明して見せて、それは無理に決まっていると証明したわけです。
 最後に彼がどう書いているかというと、やっぱり民主主義の劣化、低劣化、堕落、最終的には崩壊していくわけだが、それがどんどん悪くなっていくのを食い止めるのは、トクヴィルさんはやはり宗教心を復活させなければダメだと、トクヴィルは言っている。
 トクヴィルとキリスト教の関係は非常に複雑で、トクヴィルは16~17歳まで熱心なキリスト教徒だったが、17歳の頃哲学書をたくさん読んで、キリスト教の教義にはフィクションに過ぎないものが多いと悟った。一時的に少年時代にキリスト教の信仰を失う。一生涯彼はキリスト教の教義に対して疑問を持っていた。なので、キリスト教の考え方をすべて肯定する立場には戻らなかったが、しかし、3、4世紀から14、15世紀までヨーロッパ文明の基盤となったのは、やはりキリスト教的な人間観とキリスト教的な世界観である。
 キリスト教の教義に疑いを抱くようになったトクヴィルではあるが、キリスト教的な人間観と世界観を捨ててはいけない、捨てたらたら大変なことになると考えていた。これを捨てると人間はますます悪くなる、と悟った。キリスト教の教義に失望した後も、キリスト教的な人生観、世界観を捨ててはいけないと考え、言い続けた人です。

彼によれば、神もしくは究極の真善美という概念を持たない限り、人間は価値判断の基準を持てない。なぜならば、人間はみんな目先の利益、虚栄心とか欲を満たすために生きているが、目先の利益、プライドとか権力を求めるために他の人と争うことしかできなくなる。そうするとそれが、目先の競争に勝つことが人間の価値判断の基準になるかというとそれはならない。それは本当の永続性をもつ価値判断の基準にはならない。

だからトクヴィルは神もしくは究極の真善美というようなコンセプトを維持しない限り、人間は価値判断の基盤となるものを持てない、ということを指摘した。


彼が言うには、

『神に関するアイディアが明確でないのなら、人間が生きる意味と目的、そして義務の観念も曖昧になってしまう。その結果人間は懐疑心にとりつかれて動揺し、無責任になったり、臆病になったり、無思考状態になったりする。神の概念、つまり人間の利害を超えた崇高なもの、神の概念こそ人間にとって最も重要なことである。しかしながら、この概念は人間にとって最も困難な概念であり、人間の理性をもっても答えが出てこない問題である。』
 トクヴィルは、神に対する信仰、尊敬心、神の視点からの考え方を大切に思っていたが、しかし、理性というもので、神の存在が証明できるかというとそれはできない。ただし、神が存在しないということも証明できない。人間の目先の利害打算を超えた、勝ち負けを超えた超越的な価値、英語で言うとTranscendental Value、というものが存在するか否かも人間の理性を使っては肯定も否定もできない。
 だから彼は、これが人間にとって最も重要なことであるが、もっとも困難であり、しかも理性を使ってもイエスかノーかという答えが出てこない問題である。科学的な実証主義を使っても答えは出ない、と指摘している。 
 例えば、パスカルは有名な数学者、物理学者だったが、彼は神の存在を信じた。最近ではホワイトヘッドという有名な数学者も神の存在を信じていたし、アインシュタインも神の存在を肯定していた。有名な数学者、物理学者にも神の存在を信じている人もいる。自然科学の実証主義を使っても答えが出てこない。トクヴィルによると、神はいるかいないか、神の基準からみると別に見えるという思考が可能かどうかは、理性によっては答えが出ない問題である。つまりBrain/頭脳を使って判断するか、それとも魂ですね、人間の魂スピリットもしくはソウルを魂によって判断するかによって神が存在するかもしくは究極の真善美というコンセプトが存在するか否かというのはこれはブレインによって決めるんじゃなくて、霊魂か精神(人間のSoul or spirit )によって直感するしかない、と考えていた。

 Intuition(直感)を肯定するか否定するかによって立場が変わってくる。スピノザ、ライプニッツ、パスカル、アインシュタインといった科学者は肯定していた。頭のいい人は宗教を信じないが頭の悪いやつが信じていると言うことは言えない。
 最終的には民主主義、自由主義、平等主義の欠陥を本当に是正しようとするならば、トクヴィルは、神の存在というものをもう一度考え直して、信じる必要があると、また魂の存在を信じるべきであると言っている。
 彼は、

『宗教心を失った近代人がマテリアリズムや快楽主義といった罠にはまっていくなら、自由主義、平等主義、民主主義を実行しても社会はいずれ、道徳的な麻痺状態に陥っていくであろう。宗教を失った民主主義は、価値判断力を失って不安定で無秩序になる。従って社会に古くからある宗教を慌てて捨てない方がよい。宗教を慌てて捨てて、新思想を注入してもろくな結果にはならない。人々は心の空洞を埋めるために、快楽主義に飛びつくであろう。』

と言っている。
 最終的には神学論争的にはなるが、宗教心をもつことが民主主義、進歩主義、自由主義、平等主義による人間の腐敗、堕落、文明の劣化に対抗するためにも、そういう考えを持たなければいけない、ということ。
 アメリカは少なくとも1950年代まではキリスト教的な価値判断が正しいというのが一般的な世論だったが、1960年代からすでに60年間キリスト教的な価値判断は笑いものになってきた。
 特に大学の教授とかマスコミ人は、キリスト教的な価値判断を嘲笑してポリコレとかフェミニズムとかgender equalityかwokenessとか新しい思想を持ち込み、お互いに喧嘩ばかりしている。

今のアメリカでは社会的なこと政治的なことについてまともな討論が成り立たない。共通の価値規範とか文明観を失った国民はお互いに罵るだけでまともな議論にならない。トクヴィルも言ったように、慌てて古くからある宗教を捨てて新思想を注入するとろくでもないことになる、というのはほんとにほんと!
 アメリカの今の価値判断の錯乱状態=キャンセルカルチャー(お前に発言する権限や自由なんかない、お前の話は聞きたくない、あんたの意見に耳を傾けるつもりはないという、キャンセルカルチャーというのはこれなんです。)で、あなた、民主主義がこれで成り立つと思います?成り立たないでしょほんと。アメリカはここまで来ている。私はアメリカのこの状態をみるたびに、ああ、トクヴィル先生は正しかった、180年前に今のアメリカがこういう状態になることがすでにわかっていたのだというふうに思うんであります。

長くなってごめんなさい。

(後編終わり)

 

素晴らしい話でしたね。民主主義というものを安易にまた単純に礼賛する人たち(例えば「ぼくらの民主主義なんだぜ」という本を書いた高橋源一郎など)がいるわけですが、トクヴィル先生の民主主義への懐疑を学んで、また伊藤貫先生の解説を聞いて、チャーチルの「 民主主義は最悪の政治形態らしい。 ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが」という言葉が如何に欺瞞的で人々を騙すものであるかということに気付くことができるというものです。

更に深く民主主義の問題を学びたくなりました。主権者とは何か、特に国民主権との関係など。

 

一度ではよくわからないところもあり、何度も聞き返す、読み返す価値のある話なので、今後も折に触れて読み続けていこうと思っています。

 

今後も「伊藤貫の真剣な雑談」ほか、ちょっと古い西部邁ゼミナールでの伊藤貫氏の対談などの文字起こしを紹介していきます。