両親の自殺ほう助で逮捕されたということ、そして保釈されたということは、もう両親を死に至らしめた罪(殺人)には問われないということが決定したも同然である。

裁判が行われても、おそらく殺人か自殺ほう助かは争われないだろう。

警察/検察が「自殺ほう助」で起訴しているのに、裁判所は「いや、自殺ほう助は認められない」なんて判決を出すだろうか。考えられない。

 

因みに、安倍元首相暗殺事件の犯人は山上として起訴されるが、山上犯人説に疑問を持つものが多い。

真犯人を見つける又は山上が犯人でなく、真犯人が他にいることを世に知らしめるためには、裁判を活用することが可能となる。つまり、弁護士と一緒に山上犯人説の疑義を証拠をもって訴えていけばよいのである。簡易手製銃では安倍元首相を撃ち抜くことは不可能で、解剖の結果も矛盾だらけと証明できれば、真犯人は他にいる(誰かはわからなくても)ことを証明できる。

 

 しかし、猿之助の場合は、殺人か自殺ほう助かを争う者が存在しない。当然猿之助の弁護士は軽罪にするために自殺ほう助でしかも心神喪失状態だったとか主張するだけだ。まともな裁判官なら自殺ほう助の結論が納得できないという判断を下す可能性もないではないが、そんな苦労を自ら背負う裁判官がいるかどうか。

 

もう殺人罪として疑問すら呈することが出来なくなった。しかし、普通に考えれば、(警察はもっと情報を出すべきなのだが)前回も色々書いたように自殺ほう助では納得できないのである。

 

 

「死人に口なし」で、事件の説明は全て猿之助が行ったものに過ぎない。

そしてそれは全く納得できるものではないのだ。(よく警察は納得したものだ!)

 

 

両親が、バカな息子のスキャンダルを週刊誌に暴かれた、ただそのことだけで親子みんなで死のうと決めた、なんていう説明で誰が「そうだったのか」なんて言うか。両親はその程度のこと息子であっても他人、しかもホモだパワハラだ程度のバカバカしい週刊誌ネタで自殺するわけがないではないか。

つまり、自殺理由は猿之助の言葉だけであり、全く説得力に欠けるものなのだ。

こんな程度のいい加減な理由で両親が自殺しようなんて言うわけないことは、世間の誰もが思っていることだ。

当然のことだが、自殺でない可能性は非常に高いのである。

 

週刊新潮によれば、

「猿之助は聴取の中で独自の死生観についても明かしている。

〈私たち親子は仏教の天台宗の敬虔な信徒で、死に対する恐怖はありません。自殺が悪いことだとは考えていません。私たちは輪廻転生を信じています。生まれ変わりはある、と本気で考えています〉」  

と警察に語ったと報じている。

 

嘘か本当か分からないが、「皆で天国へ行こう」という自殺理由が荒唐無稽気味なので、「天台宗の信徒で、自殺が悪いことだとは考えてない。私たちは輪廻転生を信じて生まれ変わりはある、と本気で考えてる」などと、両親の自殺理由を、さも心からであるかのように補強(それらしく見せる)しているように感じるではないか。

猿之助が輪廻転生を信じているかもしれないが、両親が輪廻転生とか生まれ変わりはあると本気で考えているなどという証拠があるのだろうか。これも死人に口無しの類ではないのか。自殺の説明があまりにいい加減なのである。

 

素人が納得しない「皆で天国へ行こう」という自殺理由を専門家の警察が納得するわけがない。それなのに、こんな程度の曖昧な説明にもなっていない猿之助の言い訳に警察は自殺ほう助で済ませてしまった。何らかの葛藤が警察内に必ずあったに違いない。

それがどんなものにせよ(圧力?忖度?)自殺ほう助で逮捕したことで肩の荷を下ろしたのではないか。歌舞伎界のスーパースターの将来を忖度して、一応は罪に問いながら、ほぼ無実という結論を与えたのではないか。

歌舞伎業界も世間もこの結論にある意味ホッとしたのではないだろうか。殺人罪に問われなくてよかった、また舞台が見れる、と。

 

そして一番ほっとしたのは当然猿之助であろう。自分の書いたシナリオ通りになったのだから。

少し強引な筋書きだったし、ビニール袋をかぶせて、養生テープでとめて窒息させたのに、(それは既に自殺ほう助ではありえない!)それは余り問題にされなかったのでうまくいったと。

もし本当に自殺ほう助ならば、両親だけ殺して自分は生き残ったとことに深い後悔の念を抱くはずだ。

先日保釈で警察から出てきたときの猿之助の表情からはそういう後悔の念は微塵もうかがえなかった。

 

私は、両親が自殺したいと思った明確な理由が説明されない限り、猿之助が両親を死に至らしめたのは自殺ほう助ではなく、そもそも自殺があり得ないのだから、重い罪を犯したと考えるしかない。

 

そして保釈され、おそらくホッとしている猿之助が今何を思っているのか、誰も知る由もないのだが、100年近く前に書かれた探偵小説というか世界的な奇書、夢野久作「ドグラ・マグラ」にその心境が書かれているのではないかと思うのである。

それは主人公の一人である九州帝国大学精神病科教授正木博士が殺人犯とされる狂人に語るところのものである。

 

  

「…かりにある人間が、一つの罪を犯したとすると、その罪は、いかに完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の「記憶の鏡」の中に残っている、罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消すことができないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、やむをえないので、だれでも軽蔑するくらいよく知っている事実ではあるが……サテ実際の例にしてみると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿なるものは、常に、五分も隙のない名探偵の威嚇力と、絶対に逃れ途(みち)のない共犯者の脅迫力とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一絶対の弱点となって、最後の息を引取る間際まで、人知れず犯人につきまとってくるものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われ得る道は唯二つ「自殺」と「発狂」以外にないと言ってもいいくらい、その恐ろしさが徹底している。世俗にいわゆる「良心の呵責」なるものは、畢竟するところ、こうした自分の記憶から受ける脅迫観念に外ならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺してしまうより外に方法はない…ということになるのだ。
……だから、あらゆる犯罪者はその頭が良ければいいほど、この弱点を隠蔽して警戒しようと努力するのだが、その隠蔽の手段がまた、十人が十人、百人が百人共通的に、最後の唯一絶対式の方法に帰着している。すなわち自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の「罪の姿」を「記憶の鏡」といっしょに密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、あいにくなことに、この「記憶の鏡」という代物は、周囲を暗くすればするほど、アリアリと輝きだしてくるもので、見まいとすればするほど、見たくてたまらないという奇怪きわまる反逆的な作用と、これにともなう底知れぬ魅力とをもっているものなのだ。

しかしそれをそうと知れば知るほど、その魅力がたまらないものとなってくるので、死物狂いに我慢をしたあげく、やりきれなくなってチラリとその記憶の鏡を振り返る。そうすると、その鏡に映っている自分の罪の姿も、やはり自分を振り返っているので、双方の視線が必然的にピッタリと行き合う。思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれることになる……こんなことが度重なるうちに、とうとうやりきれなくなって、この秘密室をタタキ破って、人の前にサラケ出す。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せる。「犯人はおれだ。この罪の姿を見ろ」…と白日の下に告白する。そうするとその自分の罪の姿が、鏡の反逆作用でスッと消える……初めて自分一人になってホッとするのだ。  

……または、自分の罪悪に関する記憶を、一つの記録にして、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この呵責を免れる一つの方法だ。そうしておいて記憶の鏡を振り返ると、鏡の中の「自分の罪の姿」も、その記録を押え付けつつ自分を見ている。それでイクラか安心して淋しく笑うと「自分の罪の姿」も自分を見て、憫(あわ)れむように微苦笑している。それを見るとまた、いくらか気が落ち着いてくる……これが吾輩のいわゆる自白心理だ……いいかい……。

……それから今一つ、やはりごく頭のいい……地位とか信用とかをもっている人間が、自分の犯罪を絶対安全の秘密地帯に置きたいと考えたとする。その方法の中でも最も理想的なものの一つとして、今言った自白心理を応用したものがある。すなわち、自分の犯罪の痕跡という痕跡、証拠という証拠をことごとく自分の手で調べ上げて、どうしても自分が犯人でなければならぬことが、言わず語らずのうちにわかる……と言う紙一枚のところまできり詰める。そうしてその調査の結果を、自分の最も恐るる相手……すなわち自分の罪跡を最も早く看破し得る可能性を持った人間の前に提出する。そうするとその相手の心理に、人情の自然と論理の焦点の見損いから生ずるきわめて微細な……実は「無限大」と「零」ほどの相違を持つ眩惑的な錯覚を生じて、どうしても眼の前の人間が罪人と思えなくなる。その瞬間にその犯罪者は、今までの危険な立場を一転して、ほとんど絶対の安全地帯に立つことができる。

そうなったらもう、しめたものである。いったん、この錯覚が成立すると、容易に旧態に戻すことができない。事実を明らかにすればするほど、相手の錯覚を深めるばかりで、自分が犯人であることを主張すればするほど、その犯人が立つ安全地帯の絶対価値が高まって行くばかりである。しかもこの錯覚にひっかかる度合いは、相手の頭が明瞭であればあるほど、深いのだ……いいかい……。」
「日本探偵小説全集〈4〉夢野久作集」創元推理文庫 685~687ページ

 

ここに犯罪を犯した後の犯罪者の心理が書かれている。

今猿之助に去来するのは

かりにある人間が、一つの罪を犯したとすると、その罪は、いかに完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の「記憶の鏡」の中に残っている、罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消すことができないものである。…世俗にいわゆる「良心の呵責」なるものは、畢竟するところ、こうした自分の記憶から受ける脅迫観念に外ならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺してしまうより外に方法はない…ということになるのだ。」

そして

自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の「罪の姿」を「記憶の鏡」といっしょに密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、あいにくなことに、この「記憶の鏡」という代物は、周囲を暗くすればするほど、アリアリと輝きだしてくるもので、見まいとすればするほど、見たくてたまらないという奇怪きわまる反逆的な作用と、これにともなう底知れぬ魅力とをもっているものなのだ。」

ということではないか。

 

猿之助は舞台芸術家である。自分の所業を「見まいとすればするほど、見たくてたまらない」ということになって、今後は芸術のなかでそれを発揮していくのではなかろうか。そこに「良心の呵責」なるものがあるのかどうかわからないが。

しかし、本当に自殺ほう助であっても、両親を死に至らしめた事実は死ぬまで消えないのだ。

そのことについては、いつまでも両親に悔いてほしいものだ。 

何年後か知らないが、いつか本当のことを話してほしい。その日が来るかどうかは猿之助が普通の精神に戻った時だからいつになるのやら。