新「なるほどメモ」その9(解釈学的循環とは)

「何かを理解するには、まずそれに先立って、理解の文脈と言うか、枠組みを抑えておかなくちゃいけない。これは先入観と言ってもいい。理解が進むにつれて、当然ながら先入観は修正される。ところが修正された先入観は、完全かと言うとそうじゃない。前よりはちょっとマシというくらいのものだ。

しかし理解を先に進めるには、この新たな先入観を持って臨むしかない。こうやって先入観→理解→先入観→理解…という具合に「解釈」が進行することを「解釈学的循環」と呼ぶ。」

(斎藤環「生き延びるためのラカン」ちくま文庫)

 

ヤフーニュースやMicrosoft Edgeニュースのコメントを見ると、ウクライナ戦争はロシアの侵略だという声が圧倒的に多い。たまに2014年からのドンバス虐殺を指摘すると、お前はロシア人かとか新ロシア派とかの罵倒コメントが返されてくる。

「ああ言えばこう言う」状態で議論にならないが、英米プロパガンダに洗脳されて「プーチンは悪魔」という固定観念に捉えられているということがよくわかる。

もし、そのことを指摘すれば「お前こそロシアのプロパガンダに洗脳されている」と返されるのが落ちだから、議論する気もならない。

 

しかし、考えてみれば、どちらが正しいか、どちらが洗脳されているか、は神々の闘いとなり、どちらも等価といえる。つまり議論では決着はつかない。彼らは都合が悪くなると必ず証拠を出せ、とくる。しかし裁判じゃあるまいし、そうそう説得的な証拠など出せるわけがないし、出したとしても「嘘だ」と言われればそれまでだ。

 

例えばロシア軍とウクライナ軍、どちらが勝っているのか。バフムトは陥落したのかしないのか。これも議論では決着がつかない。

 

 

決着は現実が示してくれるはずだが、そこにもまた新しい言い訳を持ってくるに違いない。

 

つまり、朝まで生テレビ同様議論はむなしいのである。そしてほんの偶(たま)にではあるが、もしかして自分の方が間違っているのかも、とつい思ってしまうこともある。つまり相手の先入観や偏見を問題にしているのだが、自分の方もそんな先入観や偏見・固定観念で偏った見方をしているかもしれないと。

 

そんな時、斎藤環「生き延びるためのラカン」を読んでいて、「解釈学的循環」の説明に出会った。

ここでは堂々と先入観について肯定的に述べているのだ。

何かを理解するには、まずそれに先立って、理解の文脈と言うか、枠組みを抑えておかなくちゃいけない。これは先入観と言ってもいい。

といっても、ずっと先入観を持ち続けていいわけではなく、

理解が進むにつれて、当然ながら先入観は修正される。理解を先に進めるには、この新たな先入観を持って臨むしかない。」

 

先入観→理解→先入観→理解…」は、物事を深く理解するための方法のようなものと言える。

まず先入観から入ってよいというのは勇気づけてくれるではないか。

 

因みに、ネット辞書によると、解釈学的循環について次のように書かれている。

「ディルタイは、その解釈学において「全体の理解は部分の理解に依存し、部分の理解は全体の理解に依存する」ということを指摘し、何かを解釈する際には、全体の理解と部分の理解が、どちらが先でどちらが後であるとは言えない、循環的な関係にあることを問題にした。」

 

さて、そもそも先入観というものは否定的にしか捉えないのが普通だ。

例えば、「確証バイアス」。これは思考方法としてはバッテンが付けられる。

ネットの解説によると、

「確証バイアスとは、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと 。

自分を肯定する情報を無意識のうちに収集して判断材料にすること。たとえば、自分は正しいと思いたいため、「自分に都合のいい情報を採用する」「自分自身を否定する情報をシャットアウトする」といった行動。」

 

私も国際情勢その他をネットで拾ったり、読んだりするとき、この「確証バイアス」にもろ陥っていると感じる。そして引け目を感ずる(たまにね)のだが、斎藤環のいう「解釈学的循環」に従って、まずは大いにいい意味での「先入観」を持ち、そして理解を深めて最初の先入観を修正していくことを繰り返せばより良い認識に到達することができるはずだから、自信を持ってこれまでの信念を貫いていこう。そのためにも「確証バイアス」に陥らないように、反証する情報を無視せず集めることもしていこうと思うのである。

 

ついでに。

解釈学的循環について、推理小説を例として説明されていたものを引用しておく。

「貴方は文章を読んでいき、キャラクターやその行動、さまざまな手がかりを見つけていく。これは部分だ。最後まで読み、トリックと犯人が判明する。全体が理解できるわけだ。

この時、部分を読んでいかなければ全体を理解することはできない。

(キャラクターたちの行動やてがかりがあったから最後、全体がわかる)

しかし一方で、全体がわかることで、それぞれの部分の意味がわかるのだ。

(その時点ではわからなかった行動や手がかりの意味がわかる)

①「全体」を理解するためには「部分」が必要

②「部分」を理解するためには「全体」が必要

→循環している

これが解釈学的循環だ。」

 

これは政治現象を理解するうえでも使えそうな例と言えるかもね。