オバマ政権で副大統領だったバイデンが機密文書を持ち帰っていたことが問題視され、ガーランド司法長官は政権から独立して捜査を行う特別検察官を任命したとのこと。

ニュースはバイデン大統領が窮地に立たされているなんていうが、そんなはずないだろう。

 

ニュースより。

「アメリカのバイデン大統領が、窮地に立たされている。

オバマ政権で副大統領だった時代の機密文書を、個人事務所などに持ち帰っていたことが判明した。

機密文書が最初に発見されたのは、2022年の中間選挙の前とされ、バイデン氏が選挙にマイナスになると、公表を隠していたと批判されている。

バイデン氏は機密文書を自宅に持ち帰ったトランプ前大統領を批判してきただけに、大きなブーメランとなっている。」

 

「バイデン米大統領が副大統領在任当時の機密文書がバイデン氏の個人事務所などで見つかった問題で、ガーランド司法長官は12日、政権から独立して捜査を行う特別検察官を任命したと発表した。」

 

トランプ前大統領のときは、マーラゴにFBIが急襲して強制捜査をして、機密文書以外の何か起訴できそうな証拠を探し出すという「バイデンのFBIらしい」ことをやったわけだが、結局何も出てこなかった。

機密文書らしい文書は、「すべて機密解除された文書だ」とトランプは反論。その通りであったが、その際トランプは、「オバマ大統領がシカゴに持ち込んだ3300万ページの文書(その多くが機密扱い)をどうするのか」と指摘していた。つまりバイデンもオバマも機密文書の扱いはデタラメだったということだ。

 

しかし、バイデンはこの件で窮地になど立つわけがない。特別検察官だってバイデンを守る悪名高きガーランド司法長官が任命したんだから、適当な理屈を作って、何も問題はなかったと結論付けるに違いない。

 

その理屈は恐らく、バイデンは当時から物忘れが激しく、老人性健忘症で文書をたまたま家に持ち帰っただけで、事件性はない、と。

こういう時はいつも指摘されている認知症とか老人性健忘症なんかがとても役に立つというもんだ。

そしてこんなバカげた理屈でも今のアメリカの司法やマスコミでは通ってしまうだろうと予測出来てしまうということが恐ろしい。

 

さて、そのバイデン。影武者なのかも、といわれているらしい。前からそういう噂はあったが、私が尊敬する地震爆発学者石田昭氏のサイト「新・地震学セミナー」に面白い画像が載っていたので紹介したい。

 

これを見ると過去と現在のバイデンはかなり違って見える。加齢をすれば我々も顔相は変化するのだけれど、このバイデンの顔はそういう年齢の変化なんだろうか。

また、サインも全く変わってしまっているのもかなり変だと言わざるを得ない。

 

 

元のバイデンはまともだったので、ネオコンらは簡単に操縦が効く認知症のバイデン似の男を連れてきてすり替えたのかもしれない。

その男は無名の俳優アーサー・ロバーツだというブログがあった。

 

Spiderman886のブログより

2021年9月24日

バイデンの影武者がボリス・ジョンソンとの会談中に正体を明かす

…本物のジョセフ・R・バイデンは、2020年の大統領選挙直後から公の場に姿を見せていないというのがRRNの主張である。

その理由は、2月初旬に大規模な脳卒中を起こして脳死状態に陥り、ウォルター・リード国立軍事医療センターに入院して以来、昏睡状態が続いているからだ。バイデンのディープステートは、カマラ・ハリスに大きな期待を寄せ、彼女がバイデンの後継者になると考えていましたが、彼女にはリベラル層をまとめるための不屈の精神力がないことがすぐに明らかになりました。悔しいことに、彼女は後回しにされ、ディープステートはジョー・バイデンを演じることのできる替え玉を探していた。

その一人、アーサー・ロバーツは、80年代に活躍した無名の俳優で、1984年に公開された格闘技映画『リベンジ・オブ・ニンジャ』で邪悪な忍者ブラデンを演じたことが映画界での最大の功績だった。その後、彼は無名になり、映画やテレビの脇役として活躍していたが、3月初旬にディープステートがバイデンの後継者候補として彼をつかまえた。
ロバーツは、生粋のバイデンよりも年上の、決して若くはない人物だが、どうやら認知症の気があり、それが原因で台本から逸脱し、ボリス・ジョンソンの目に疑惑を抱かせてしまったのである。

マイクには録音されておらず、報道陣に聞かれないように小声で話した瞬間、ロバーツはジョンソンに自分の映画キャリアの失敗を嘆き始め、自分が脇役として出演した映画『リトル・ミス・マジック』と『アップ・イン・スモーク』を見たことがあるかどうかを英国首相に尋ねたのです。
関係者によると、芝居がかったマスクをしたボリス・ジョンソンは、マイクの音を消してロバーツに向かって優しく語りかけ、「あなたはジョー・バイデンではありませんね。あなたはいったい誰ですか?」(後略)」

(引用終り)

 

これ、ホントの話かねえ?

 

金正恩様も、今しきりにミサイルを撃っているのは影武者だと言われている。

篠原常一郎氏よると、少し前は金正恩は酒を飲み過ぎ、贅沢な食事をし過ぎ、かつ暗殺のストレスで糖尿病や心臓病にかかり、一時はフランスから専門医を呼んで手術をしたのではないかと噂された。その結果、いまは寝たきり状態又はもう死んでいるとはっきり言っていたが、今もそう主張しているのだろうか。

確かに金正恩には影武者が何人もいるようだ。

一番面白かったのは、金正恩がある集まりに登場する動画映像で、思わず変な仕草をしてしまったことだ。それは、最初腹を出しながら偉そう歩いていた金正恩様が、ある男と目が合った時、思わず会釈をしてしまったのだ。独裁者金正恩様がたいして偉くもない部下に会釈をすることなどあり得ないではないか。こりゃ影武者だな、と誰もが思ったに違いない。

 

NHK大河ドラマの徳川家康も影武者説がある。小説は隆慶一郎「影武者徳川家康」であるが、昔途中まで読んで止めてしまったので、結論は知らないが、影武者も優秀で家康になり切って仕事をしたという話になっている。

また、この家康影武者説は小説の中だけではなく、史実としてももしかしたら、という話もある。

 

wikiより。

徳川家康の影武者説は、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯は通説で考えられているものと異なり、人生のいずれかの段階で別人と入れ替わったという仮説(別人説)。

入れ替わった段階をいつと捉えるかによって説の内容は異なるが、いずれの説も史料批判の誤りが多いため、フィクションとしてはともかく、アカデミズムにおいては否定的見解が強い。この項では明治時代の地方官であった村岡素一郎が唱えた桶狭間の戦い直後に入れ替わったという説を主に扱い、その他の説を付記する。

影武者説の発端

徳川家康は江戸時代を通じて神君とされていたため、その出自を疑う者はいなかった。1902年(明治35年)4月、徳富蘇峰が経営する民友社から、地方官吏であった村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という書籍を出版して家康の影武者説を唱えた。

影武者説の概要

村岡素一郎によれば、「松平広忠の嫡男で、幼名は竹千代。元服して松平二郎三郎元信と名乗った人物は、正真正銘の松平(徳川氏)の当主である。桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも、この竹千代(当時は元康)である。しかし元康は桶狭間の戦いで今川義元が死去した後に独立したが、数年後に不慮の死を遂げた。そして、その後に現れる家康は、世良田二郎三郎元信という、全くの別人が成り代わったものである」という説を村岡が着想したのは、林羅山の著書『駿府政事録』の1612年(慶長17年)8月19日の記述である。村岡は以下のように引用している。

「(大意)『駿府政事録』にはこうある。慶長十七年八月十九日、家康が雑談の席で「私は子供の頃、又右衛門ナニガシというものに銭五貫文で売り飛ばされ、九歳から十八歳、十九歳まで駿府に居たのだ」と語ったというのだ。家康公は戦国時代よくあった誘拐にあい、売り飛ばされていたのである。家臣達はみな、この話を聞いていたのだ。」

影武者・世良田二郎三郎元信

村岡素一郎は元康と入れ替わった人物を「浄慶」、後に「世良田二郎三郎元信」と名乗った願人であると推定している。

彼の母親は、ささら者(賤民)の娘である於大、父親は新田氏嫡流(新田氏支流江田氏)で下野国都賀郡小野寺村出身の「江田松本坊」という祈祷僧としている。

天文11年12月26日(1543年1月31日)、駿府の宮の前町で生まれた子は「国松」と名付けられたが、松本坊は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したとしている。

 

その後、国松は東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と改名したとしている。しかし今川家の菩提寺で殺生禁断の地とされた増善寺山内で小鳥を捕らえたため、師から破門されたという。その後、浄慶は駿府を放浪していたが、又右衛門という男に攫われて、子供を欲しがっていた願人の「酒井常光坊」に銭五貫で売られたという。村岡は、願人を妻帯肉食の修験者と説明している。

 

こうして少年時代を過ごした浄慶は、1560年(永禄3年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る。実父の松本坊が新田氏の末裔と称していたため、世良田姓を名乗ったという。

そして同年4月の桶狭間の戦い直前、元信は元康の嫡男で駿府に人質としてあった竹千代(のちの松平信康)を誘拐して遠州掛塚に逃走したという。

そして桶狭間で今川義元が織田信長に討たれて今川氏が混乱すると、「世良田二郎三郎元信」は同志を集めて浜松城を落とし、さらに勢いに乗じて三河を攻略しようとしたが、松平元康に敗れて尾張に逃れる。信長と水野信元を使い、元康に今川から離反するよう説得する。しかし元康が断ったため、怒った信長は、信元に命じて元康を攻撃する。しかし、元信が期待したような本格的な侵攻にならず、孤立した元信は元康に降伏し、信康の身柄を元康に返還することを条件に罪を許され、その家臣になったという。

 

「元信」の入れ替わり

村岡素一郎の主張では、元康は1560年(永禄3年)12月4日、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻を開始したが、その途上である尾張守山において12月5日、元康が阿部正豊(弥七郎)に暗殺されたという。

これは家康の祖父松平清康が家臣の阿部正豊(弥七郎)に暗殺された、守山崩れと酷似している。村岡はこの守山崩れの伝承は、元康の死をカモフラージュするために清康の死として語られたのだと主張している。

そして元康の死を秘匿し、その身代わりとして立てられたのが、世良田二郎三郎元信であるとする。当時の松平氏の三河は、信長と今川氏という両大名によって挟まれていた。信康はまだ3歳の幼児である。そのような幼児が信長や今川氏と渡り合えるはずがないと考えた家臣団は、信康が成長するまでは、替え玉である世良田二郎三郎元信に松平氏の家督を代行させたというのである。

1562年(永禄5年)、元康に成りすました元信は、清洲城に出向いて信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。翌年、元信は松平家康と改名し、「二人の家康」から「一人の家康」となったという。

(後略)」

 

大河ドラマも隆慶一郎の「影武者徳川家康」を元にしたドラマの方が面白くなったのではないか。

そして、米国もバイデン影武者説でドラマを作ったら面白いと思うがねえ。