現知事の小池百合子様はどうしようもないほどのアホで、やることなすことダメなのだが、最近では特に新築一戸建て住宅の屋根に太陽光パネル設置の義務化という公害まき散らし政策の強制や都立高校入試の英語スピーキングテスト導入など都民に迷惑を掛けることばかりだ。

損害を最小限にするためにも早く都知事を辞めてほしいというのが、全都民の願いだろう。

 

太陽光パネル設置の義務化は、いつもの小池百合子のパフォーマンスつまり先日のエジプトでのCOP27で個人的にアピールしたいために決めたのだろう。最低の知事ではないか。

中国のソーラーパネル云々より、そもそも太陽光パネルは公害発生装置なのだ。環境破壊機械なのである。個人の趣味で設置するならまだ許されるが、小池個人のパフォーマンスのために公害発生装置を都民に強制するなんて犯罪行為に等しいといえるではないか。

 

さて、現知事のバカは誰もが知っているが、元の知事猪瀬直樹も桝添要一も馬鹿げたことで知事を辞めさせられた。どんなことで辞めたかはほとんど覚えがないが、ワイドショーを連日騒がせたことだけは記憶に残っている。

 

その二人が、サッカーワールドカップの日本対ドイツ戦について、試合そのものではないが、ツイートしたようなのだ。

その件について、「由紀草一の一読三陳」(社会、政治、教育評論として優れたブログ)に書かれていた。

 

「由紀草一の一読三陳」(2022.11.30)より

「日本対ドイツ戦での、歴史的な逆転勝利の後、著名人による以下の二つのツイートが紹介されていたのが目についた。

① サッカー・ドイツ戦に勝ってよかったけれど、26人のうち19人が海外チームで活躍している選手ということで、グローバルな世界での戦いを心得ていた事実を、今後、鎖国型人事の日本の企業がどこまで学ぶかですね。(猪瀬直樹11月24日)


② 日本のサポーターがスタジアムの清掃をして帰るのを世界が評価しているという報道もあるが、一面的だ。身分制社会などでは、分業が徹底しており、観客が掃除まですると、清掃を業にしている人が失業してしまう。文化や社会構成の違いから来る価値観の相違にも注意したい。日本文明だけが世界ではない(桝添要一11月25日)


(引用終り)

 

まず猪瀬直樹のツイート。

日本の選手が海外チームで活躍していることをビジネス社会に結び付けて、「今後、鎖国型人事の日本の企業がどこまで学ぶかですね。」とツイートしていることに、由紀草一氏がコメントしている。

 

「… ①の猪瀬直樹氏のツイートが当然の前提としているのは、日本国内の基準はグローバル・スタンダード(国際標準)とズレており、それはよくない、ということだ。だいたいビジネスで勝てないし、というわけで。
 嘘だとは言わない。個人でも企業でも、アメリカやチャイナなどで活動しようとしたら、当然日本とは勝手が違うことが多々あるだろう。そこからくる苦労を減らすための教育、ということになると、本当に必要なのだろうか? それも、国民全員に。
実際のところ、海外で生活する日本人の数は、外務省の統計によると長期滞在者と永住者を足して134万人ほど、だいたい総人口の1%。もちろん日本にいても、日常的に諸外国との交渉に従事している人は多いだろうし、日本国内だけの話でも、国際化に伴う「時代の流れ」というやつで、生活様式や仕事のやり方が変わっていくことはあるだろう。
 それでも、日本人の全員が「国際化」を気にかけて、それに沿って行動しなければならないということになるだろうか。義務教育で目標の一つにされるのは、社会の普遍的な価値と認められる、ということなのだが。
 だいたい、状況が変わったら、それに合わせる必要も出てくるという、平凡とさえ言うまでもない当り前の話に、良い・悪いはない。「郷に入れば郷に従え」というやつ。英語でもWhen in Rome、do as the Romans doという有名な諺があるくらいだから、日本だけの話ではない。しかし、周囲に合わせることを陰に陽に求められる、いわゆる「同調圧力」の強さこそ日本社会の特徴と言われるのは、きっと本当なのだろう。それだと今後は困る、ということで、上述の、国際社会で求められる人材は「自らの考えや意見を自ら発信し」云々ということになるのだろうが、それなら「これからの時代は国際化」なんぞという、同調圧力のテンプレみたいな言い方は使わない方がいい。
 それに、「郷に入れば~」より確実に、日本にあって欧米にはない観念があって、それこそ「国際社会」なのである。「国際化する」internationalizeという動詞はあって、何かを世界的に有名にする、とか、何かを国連などの国際機関の管理下に置く、などの意味で使われる。前者はいいことであり、後者は良くも悪くもないことだが、いずれにしろ、社会全体を国際化しようとか、国際的な人材を育成しよう、なんぞという発想はない。当然のことだ。前述のように、日本で言われている国際化とは、イコール西洋化ということなのだから、西洋はもともと国際的なのである。少なくとも、日本ではそういうことになっている。
 以上は、大前提、という意識もないぐらい当り前になっている前提なので、深く考えられることもなくひょいと出てくる。日本国内でのみ通用する「鎖国人事」などはもうダメだ、グローバルな世界=西欧世界で活躍するには、もっとそこでの戦い方≒西欧的な基準、を知らねばならない、という具合に。もちろんビジネスや外交の、実際上の必要性はあるだろうが、どこまでいっても善悪の問題ではなく、西欧風の基準・やり方に合わせるべき精神的道徳的義務など存在しない

(中略)

さらに付け加えると、「鎖国型人事」はよくないということで、外国籍の人を積極的に雇うのは、企業なら自由かも知れないが、公務員はよしてもらいたい。相対的な価値観が乱立する世界の中で、その「標準」からして、あまりに乏しすぎて、実際に危険でもあると思えるのは、日本の国防意識だからだ。よその正義を力づくで押しつけられないようにするためには、国家の力が必要で、グローバル時代で国境の壁が低くなればなるほど、その重要性は増す。
 もちろんそれと、スポーツや学芸など、純粋にその範囲で使われる知識・技術だけが問題になる分野は全然別だ。今度のサッカー日本代表26人のうち19人がふだんは日本ではなく、外国のチームで活動しているということだが、国籍には関係なく、できるだけ好条件のチームと契約するのは、サッカーでは全く普通である。野球ではそれほどではなくても、野茂英雄から松井秀喜からイチローからから大谷翔平まで、アメリカの大リーグでプレイする日本人の例は少しも珍しいことではなくなった。彼らには、日本人だからといって卑下する様子も、逆に「日の丸を背負う」なんて悲壮な決意も見られない。
 かなり以前に、当時はアメリカにいた新庄剛志が、英会話能力について訊かれたとき、「いやあ、英語の勉強のために来たわけじゃないですから」と、例によってヘラヘラ言っているのを見た時には、私は陰キャなのでこのタイプは苦手であるのにかかわらず、かっこいい、と思ってしまった。彼は、「国際化」なんて全く気にしない程度に国際化して、「主体的に」生きている。海外にいる他のアスリートもそうだろう。正直、羨ましい。
 ただし、そういう人たちも、WCやWBCの時には日の丸の元に集まって、ナショナリズムの視線を浴びて戦う。国とは終始無縁、というわけにはいかない。今の世界は、そういう場所なのだ。」

(引用終り)

 

「鎖国型人事の日本の企業」というくらいだから、猪瀬の頭にはまだ日本が明治維新前の日本を想定して、鎖国を排せと言っているようだ。つまり、猪瀬の頭のなかは、明治維新のときと同じで、未だに日本の封建社会から脱却して、西欧に追いつき、追い越せと言っているのだ。

明治維新から150年以上も経っているのだから、いい加減西洋化を理想とするのは止めてほしいものだ。小池の都立高校入試の英語スピーキングテスト導入も明治の精神で行おうとしているのだろう。

日本人の英語の苦手さはいつまでも直らないが、個人毎は別として、もう日本全体を卑下して西洋を拝跪する時代ではなかろうに。猪瀬や小池にはまだ西欧崇拝の残滓が残っているのだ。

企業のバカトップが調子に乗って西欧崇拝人事をやって、日本型経営を破壊すればこれまで以上に日本企業はダメになっていくはずだ。

 

次は舛添要一のツイート。こちらは思想的なものは感じられないが、言っていることは猪瀬より馬鹿げている。

由紀草一氏のコメント。

「②の桝添要一氏のツイートは、欧米では階層意識が強く、公共の場所の掃除は下層の人がやると決まっているのであって、そこで「自分の使ったところは自分がきれいにする」という「日本文明」は奇異に見られるし、実際に迷惑をかけることもあり得る、という「国際標準」を伝えている。サッカーの観客が上層の人たちだけかはわからないが、それはその場では「観客」として、「上」として扱われるべき、でいいのだろう。
 こういうことを心得ておくのはいい。実はこれは欧米だけの話ではなく、日本以外はたいていそんなもののようで、日本のやり方を真似てサウジアラビアの観客も掃除を始めたというニュースもあったが、かの国の階層差、いや身分秩序は現在のたいていの国より強いようだ。

2022年度のサッカーWCの開催地であるカタールは、石油のおかげで、国民はたいてい豊に暮らしているが、その代り肉体労働は、苛酷な環境下で外国人労働者がやっている、という話もある。

あるいは、階層意識の乏しさ(ないわけではないが)こそ日本社会の特殊性なのかも知れない。だとしたら、国際化時代を迎えて、こういうことは改めていくべきなのだろうか?
 逆に、日本こそ正しいのであって、諸外国はそれに倣うべきだ、と言ったとしたらどうか、から考えてみよう。

桝添氏が言うことが現実にどれくらいあるかはわからないが、階層差を当然の前提にした社会で、それを無視したように振る舞って、それで疑いや失笑を買うのはかまわないとしても、誰かの職を奪うような加害行為になるのだとしたら、慎むしかない。

自分が持ち込んだゴミを持ち帰らないだけではなく、できるだけ沢山持ち込んで放置するように心掛けるべきなの、か? だからと言って日本国内でもそうすべき? そんな筈ないでしょう。
 もっと大きな例で、イスラム教国では、日本や欧米の基準からしたら女性蔑視としか見えないこともよくあるが、それを不正として一方的に断罪することはできない。
 要するに、世界全体にそのまま通用するような正義はそんなにあるものではない。それを踏まえると、「異文化や異なる文化をもつ人々を受容し、共生する」なんて簡単に言っても、空疎なだけだ。目下では、うまい「棲み分け」を目指すぐらいがせいぜいだろう。それだって、途方もなく高遠な理想のように思える世界の現状はある。」

(引用終り)

 

舛添は猪瀬と逆のようで、「日本文明だけが世界ではない」と言っているから、外国にいる日本人は「(外国という)郷に入っては郷に従え」といっているようにみえる。

しかし、外国人が日本にやってきて、日本文化を理解しないと、日本人には「郷に入っては郷に従え」は現代の国際社会では通用しないから、日本の価値観を外国人に押し付けるなといい、外国にいる日本人には「郷に入っては郷に従え」とその国の価値観に従えと言う。

 

そこに共通するものはまさに「日本の価値観だけは日本でも外国でも押し付けるな」「日本文明だけが世界ではない」んだから、といいたいらしい。

 

由紀草一氏はその辺のところを揶揄して、

「階層差を当然の前提にした社会で、それを無視したように振る舞って、誰かの職を奪うような加害行為になるのだとしたら、慎むしかない。

自分が持ち込んだゴミを持ち帰らないだけではなく、できるだけ沢山持ち込んで放置するように心掛けるべきなの、か? だからと言って日本国内でもそうすべき?」

と書く。

もちろん由紀氏は「そんな筈ないでしょう」と書くが、舛添の論理からすればカタールにいる限りは日本人は、ゴミは拾ったり、片づけてはいけないのだ。

 

なぜそんなことをわざわざ舛添は言い募るのだろうか。

そもそも、カタールは「身分制社会で分業が徹底しており、観客が掃除まですると、清掃を業にしている人が失業してしまう」のか。由紀氏はそういう仕事は外国人労働者がやっているのでは、と付け加えているが、舛添はカースト制のインドと勘違いしているんじゃないか。

私が想像するに、日本人サポーターがゴミを片づけたら、清掃人の手間が省けて喜ばれるんじゃないかと。こんな程度のゴミの片づけで「清掃を業にしている人が失業してしまう」訳がない。

 

なぜ、舛添は事実でもなさそうなことを大げさに言うのか。

私の想像はこれひとつだ。

日本人サポーターのゴミを拾う、片づけるという仕草が世界に宣伝されるのを舛添が嫌っているということだ。舛添にとっては日本人は世界では低レベル人間にしておきたいのである。

だから、日本人サポーターのこれらの行為を邪魔したい、日本人は下等国民なのだから余計なことはするなと。それを直接言えないから、変なレトリックを使って日本人サポーターの良き行為に水を掛けたのである。舛添は日本が嫌いなのである。だから何であっても日本をくさしたいのである。

 

結論。

都知事になった、現になっている者たちは、ホントにろくでもないものばかりである。

 

追伸

もうすぐクロアチア戦!

勝てる気はしないのだが、二度あることは三度ある、ということわざもあるので、奇跡の起きることを願おう。

日本、頑張れ!