ウクライナ戦争ではゼレンスキーがロシアに核を打ち込みたくてNATOをけしかけている。ロシアのプーチンは負けが込んで核を使うと脅していると西側は非難する。

 

ちょうど60年前の1962年10月にキューバ危機は起こり、世界は核戦争の瀬戸際に追い込まれ、米国、ソ連ともに本当に核兵器の使用を視野に入れ、世界が破滅の恐怖におびえた戦後最大の危機だった。

 

「発端はソ連が、米国に近接するキューバで核ミサイル基地の建設を始めたことだ。米国は搬入を阻止するために海上封鎖に踏み切り、攻撃を受ければ全面報復すると宣言した。2週間にわたって続いた緊張の末、ソ連がミサイルの撤去を決め、決着に向かった。

 背景には、戦争になれば核戦力で劣るソ連が大損害を受けるとのフルシチョフ首相の現実的な判断があった。当時、秘密裏に核ミサイルを配備し、運用可能な状態だったが、大規模な反撃を恐れたという。国際社会から孤立することも避けたかったとされる。

 米国のケネディ大統領が大規模攻撃を迫る軍部を抑え、水面下で外交を進めたことも事態打開に貢献した。フルシチョフ氏と何度も書簡を交わし、最後にはソ連を標的とするミサイルをトルコから撤去するという極秘の提案をした。」(毎日新聞 2022.10.15社説より)

 

キューバ危機における核使用危機とウクライナ戦争の核危機との違いは、前者は米・ソ共に首脳が核戦争による世界の破滅を回避しようと真剣に取り組んだことだ。もちろん両国の軍部は核戦争も辞さないとの強硬意見だったが。後者は、ウクライナ戦争の当事者のウクライナ・ゼレンスキーや米英が核使用を本気で危機と思っていないことである。つまり60年前は核戦争回避を真剣に考え、現在は核戦争を本気でやりそうな気配つまり核戦争回避に真面目に取り組んでいないということだ。

 

つまり、60年前は真剣に核戦争を回避しようと双方が努力をしたが、現代のウクライナ戦争では当事者ゼレンスキーがロシア憎しのために核を本気で使いたくて、その結果、悲惨な結果を想像する能力も意欲もないこと。そして、英米も平気で核使用を考えている節があることだ。

つまり、キューバ危機では米国本土に核ミサイルが落とされるが、今回は、核は欧州限定で米国本土に核ミサイルは飛んでこないと高をくくっているから安易な核使用を云々するのである。

 

ロシアは、抑止の為に核の使用の可能性をいうが、先制核攻撃をする気はなく、ロシア・ラブロフ外相は「ロシアに対する直接的な核攻撃、わが国の存在を脅かす兵器の対応策として、核兵器の使用を考えていると、何度もプーチン大統領は発言してきた。核戦争、大量破壊兵器について、ロシアへの挑発を行う者たちは、その責任を自覚してほしい。交渉について一切断らないと、何度も言ってきた。依頼があれば、検討する」と述べている。

 

片方は核使用に抑制的であるのに、片方は核使用をしたくてしょうがない、というのは、キューバ危機以上の核戦争の危機が高まっていると言える。それは、西側諸国とウクライナ・ゼレンスキーという指導者の余りの劣化を示しており、危険極まりないとしかいえない。

 

キューバ危機による核使用は、ケネディとフルシチョフの努力で回避されたが、そのキューバ危機の最中に本当に核ミサイルを発射する危機が起こっていたことは余り知られていない。

もしそれが現実に起こっていたら、60年前に米・ソは確実に核弾頭を双方に撃ち込み合っていたことだろう。世界は今日のような姿をしていなかったかもしれないのだ。

「知らぬが仏」とはまさにこのことだろう。

 

世界を核戦争から救った男がいる。その名はソ連原潜B-59副艦長ヴァシリィ・アルヒーポフ。

どんな状況で核ミサイルを発射する寸前までいったのか。

 

ヴァシリィ・アルヒーポフ

ネットの記事から再構成してみる。

1962年10月、キューバにおける核ミサイルの設置によって、アメリカとソ連の間で緊迫した事態が発生した。キューバ危機である。アメリカはキューバ上空に偵察機を飛ばし、キューバの周りの海上封鎖を行って、米ソの間に核戦争の危機が訪れた。

10月1日、ソ連は4隻の潜水艦をキューバに向かうよう命じた。アルヒーポフ中佐が副艦長を務めるB-59もその内の一隻であった。B-59は、広島級の核兵器を含む22の発射台を備えた攻撃潜水艦で、乗艦していたのは艦長サビツスキー中佐、副艦長アルヒーポフ中佐、政治将校イワン・マスレニコフである。

10月24日、アメリカはソ連に対し「キューバ近海を海上封鎖し、付近に潜む潜水艦を強制浮上させるために演習用爆雷を投下する」と通告した。

10月27日、ソ連からの軍事貨物船がキューバを目指して航行していたが、この船をソ連潜水艦B59が護衛していた。

同日、アメリカ海軍の空母ランドルフおよび駆逐艦11隻からなる艦隊が、キューバ近海でソ連のフォックストロット型潜水艦B-59を捕捉した。

公海であるにも関わらず、米艦隊は演習用爆雷を投下、爆発による信号を送ってB-59の強制浮上を試みた。米国の駆逐艦は、ソ連が彼らの船を守るために派遣した潜水艦が核兵器を運んでいることを知らなかった。

 

B-59がバッテリーを充電するために浮上したときソ連潜水艦は米艦隊に発見された。

「空母1隻、駆逐艦9隻、航空機4機、トレッカー3隻が、沿岸警備隊の3つの同心円に囲まれていた。...潜水艦のコニングタワー(司令塔)からわずか20〜30メートル上の飛行機による上空飛行、強力なサーチライトの使用、自動砲(300発以上の砲弾)からの発射、爆雷の投下、危険なほど(小さな)距離で駆逐艦による5隻の潜水艦の前で横断、潜水艦への銃の標的、拡声器からエンジンを止めるための叫び声など。それは明らかに、驚くほどの敵対的な武器の配列だった。実際、アルヒーポフが述べたように、「米軍の挑発的活動の全範囲」がB-59の乗組員を待っていた。

潜水艦司令官のサビツスキーは、彼らが遭遇した反応の規模にショックを受け、盲目になった。そのような状況では、船は敵に核弾頭を発射する準備として「緊急潜水」を実行するべきであるとプロトコルには指示されていた。」

 

B-59は数日の間モスクワと通信が出来なかったため、アメリカの民間ラジオ電波を傍受して情報収集していた。しかし、爆雷から逃れるため深度を下げて航行した結果、ラジオ電波の受信が困難になった。情報が遮断され、米ソが開戦したのか否かを知ることがB-59乗員には不可能となった。

 

ところで、政治将校が搭乗しているソ連艦は、現場の艦長クラスの判断で核ミサイルを打ち込むことが許されていた。モスクワからの指示は対潜水艦電波で送られていたが、深海に潜っている場合は届かなかったため、現場で臨機応変に対応するためにそのような措置が採られていたのだった。

 

10月27日、B-59艦長バレンティン・サビツスキーは、すでに両国が開戦したと判断し、核魚雷の発射を企図した。

他の潜水艦と異なり、B-59の核魚雷の発射には乗艦していた三人の士官(艦長サビツスキー、政治将校イワン・マスレニコフ、副艦長アルヒーポフ)の全会一致の承認が必要であった。通常、特殊兵器を搭載したソ連潜水艦において、その艦長は政治将校の許可さえあれば核魚雷の発射が可能であった。しかし、アルヒーポフはB-59では副艦長に過ぎなかったが、彼はB-4、B-36、B-130等の潜水艦小艦隊の司令でもあり、階級は艦長と同じであったため、艦長は彼の承認も得なければならなかった。三人の間で口論が始まった。

 

情報が完全に遮断され既に開戦しているかどうかも分からず、4週間近くのミッションで疲労困憊になっていたB-59の搭乗員の緊張はピークに達していた。

B-59のバレンティン・サビツスキー艦長は、「おそらくソ連とアメリカの核戦争は既に始まっているであろう。我々はアメリカに核攻撃を行うべきだ」と主張した。

艦長サビツスキー、政治将校マスレニコフは核攻撃を強く主張したが、アルヒーポフは「モスクワからの指示が確認できない状況で、そのような衝動的な行動は行うべきではない。まずはモスクワと連絡を取るべきだ」と発射を拒否した。

 

そして、アルヒーポフはサビツキー艦長を何とか説得し、潜水艦を海上に浮上させ、モスクワ本部と連絡できる状態にさせた。B-59のバッテリ残量はごく僅かで、空調も故障していたため、米艦隊の中央に浮上せざるを得なかった。

アメリカ軍が実際に潜水艦に警告信号を発しており、攻撃していないのを見て、彼は当然のことながらパニックに陥ったサヴィツキーを落ち着かせ、彼の指揮が潜水艦の魚雷を担当する将校に伝わらないようにし、すべての挑発行動を止めるように明確なメッセージがアメリカ人に送り返された。

これは、アメリカ戦闘機によるその後の12回の別々の上空飛行が"それほど心配していない"ことを意味し、アメリカ公共放送局の"断続的なラジオ傍受"は、"状況は緊張しており、戦争の瀬戸際にあった"が、まだあからさまな戦争ではなかったことを示していた。

 

そしてモスクワから無線で「ロシアに帰還するように」という指示を受け、翌日完全に再充電されたB-59が警告なしに潜水し、ソ連の基地に戻った。

結果だけ見るとアメリカの圧力に屈した形だったので、搭乗員は懲罰を受ける覚悟で帰国したが、海軍の潜水艦司令官は「お前たちが無事に帰還したので、それだけでよかったのだ」と述べ、無罪放免となった。

その後、アルヒーポフは引き続き潜水艦・潜水飛行隊の指揮官として活動し、1975年には海軍潜水艦司令官に昇進。中佐だった彼は最後には中将まで昇進した。その後、1980年代半ばに引退し、1998年に72歳で亡くなった。

 

ところで、世界を核戦争から救った男、ソ連原潜B-59副艦長ヴァシリィ・アルヒーポフはどんな軍人だったのか。

ヴァシリィ・アルヒーポフは1926年1月30日、モスクワ近郊の町スタラヤ・クポヴナの貧しい農家の生まれ。幼い頃から聡明だった少年アルヒーポフは、16歳で太平洋高等海軍学校で教育を受け、1947年にカスピ海海軍高等学校を卒業。卒業後は、黒海、北部、バルト艦隊にて潜水艦勤務にあたった。

 1961年、彼は一度目の「核危機」を経験する。原子力潜水艦K-19の副艦長となったアルヒーポフは、1961年夏にグリーンランド近辺で実施された演習に参加し、原潜事故に遭遇するのである。

 

さて、原子力潜水艦K-19に聞き覚えはないだろうか。

ハリソン・フォード主演の映画「K-19」(2002)である。

 

ハリソン・フォードはアレクセイ・ボストリコフ艦長を、ミハイル・ポレーニン副艦長はリーアム・ニーソンが演じた。実際の艦長名は、ニコライ・ウラジミロヴィッチ・ザテエフ大佐、副艦長はヴァシリィ・アルヒーポフ中佐である。

 

1961年7月4日、北大西洋を航行していた時、K-19は原子炉システムにトラブルを起こして、冷却水漏れ事故が起きてしまった。その上、他の故障も重なって通信システムが使用不能になり、モスクワに指示を仰ぐことも救援要請もできない状態になった。 

K-19の艦内では、8人の作業員が冷却システムの応急措置をするために、長い時間、高濃度の放射能を浴びるはめになってしまった。その結果、修理にあたった8人全員が、その後1週間以内に放射能被爆によって死亡した。修理作業を手伝っていたアルヒーポフ副艦長も、高濃度の放射能を浴びた。 

映画では頑固なハリソン・フォード演ずる艦長が強引な指揮を行い、部下が離反していったが、リーアム・ニーソン演ずるアルヒーポフ副艦長の適切・果敢な指揮により一応の危機を脱したというストーリーである。

 

ところで、なぜ、アルヒーポフ副艦長は、核ミサイルの発射に断固反対したのだろうか、ということについて、ネットでは K-19の事故の際に、モスクワ本部と通信できなかった辛い経験から、今回は何とかしてモスクワに連絡・確認を取ろうとしたことが、彼に核ミサイル発射を最後までためらわせた一因だとしているものが多いが、私からすると説得力が今一つのように感じられる。

 

やはり、核ミサイル発射による結果の余りの大きさについて、軽々な判断をすべきでないと軍人として強く思ったのではないか。ゼレンスキーのように後先考えずに、核ミサイルを撃ち込めばいいというものじゃないと。

映画では「K-19」の事故を描いたが、むしろ「B-59」を描いてほしかったと思う。この原潜によるミサイル発射危機は2002年まで極秘にされていたとのことだが、今からでも映画を作る価値はあるのではないか。そして、アルヒーポフ副艦長が艦長と政治将校の主張を抑えてミサイル発射を拒否した部分を描いてくれたら面白い映画ができるはずだ。

 

何はともあれ、アルヒーポフ副艦長が核ミサイルを発射することに賛成しなくて本当によかった。まさに、世界を核戦争から救った男といえるだろう。

 

さて、世界が核戦争一歩手前まで行ったのはもう一つあるようだ。

1983年9月26日のことだ。

「この日、ソビエト連邦のミサイル攻撃警告システムは「LAUNCH(発射)」という言葉を表示しました。これは非常に高い確率で大陸間弾道ミサイルがアメリカからロシアに向けて発射されたことを意味するもの。そして、この警告は次から次に、計5発分表示されることになりました。

当時、ソビエト連邦の軍に従事していたスタニスラフ・ペトロフ中佐は、この表示を目にし、決断を迫られました。警告があったことを上に報告すれば報復としてのミサイル発射が行われることになります。ダブルチェックを行う時間や、アメリカと交渉する時間はありません。

当時のレーガン政権は、それまでのカーター政権やニクソン政権よりもソビエト連邦に対して強硬な姿勢を取っており、戦略防衛構想を打ち出していました。またレーガン政権はソビエト連合に対抗するため西ドイツやイギリスにパーシングIIという二段式弾道ミサイルを配備している最中であり、アメリカとソビエト連邦との競争が苛烈して実際にアメリカがミサイルを撃ってきたという可能性も、十分に考えられたとのこと。

しかし、ペトロフ中佐と彼のチームは5度にわたって表示された警告を「誤報」だと判断し、上へ報告しませんでした。

実際に、この警告は太陽光が雲に反射したものをミサイルだと誤検知したものだったと、後に判明しました。

1983年当時のソビエト連邦は3万5804発の核弾頭を、アメリカは2万3305発の核弾頭を保有しており、ペトロフ中佐の報告次第では核戦争に発展してもおかしくありませんでした。

1979年5月に発表された報告によると、両国が相手に向けてミサイルを発射した場合、2国合わせて1億3600万~2億8800万人の死者が出ると予測されていました。加えて、戦争が地球の気温に影響し、農業が打撃を受けてさらに死者が増える可能性もありました。

何億人もの人の命がかかった決断は、ペトロフ中佐にとってとてつもなく重いものでした。もし判断が間違っていてアメリカのミサイルがロシアに到達すれば、運よく生き残っても反逆罪に問われることになったはず。

実際にペトロフ中佐の判断は間違っていなかったにもかかわらず、ペトロフ中佐は激しい尋問を受け、その決断が政府から称賛されることはありませんでした。

しかし冷戦が終わると、ペトロフ中佐は国連から称賛され、国際平和賞であるドレスデン賞を受賞しました。2014年にはペトロフ中佐のドキュメンタリー「The Man Who Saved the World」が公開されましたが、この中でペトロフ中佐は「私はちょうどその時、その場所にいただけです」と語っています。その後、2017年、ペトロフ中佐は77歳で亡くなりました。」

(引用終り)

 

コンピューターの誤作動は非常に恐ろしい。核ミサイルの場合は確認する時間の余裕がないからだ。

そして、いま流行のAIにこの判断をさせたらどうなるか。誤作動の可能性をAIは考慮に入れるのか。それとも、誤作動でない確率が少しでもあれば、ミサイルを発射すべきです、なんて判断をするかもしれない。そのとき、人間は悩むが、AIは全く悩まず冷徹な判断を下すだろう。AIにとって世界の破滅など何ほどのこともないからだ。

 

しかし、今のウクライナ戦争ではAIより恐ろしいかもしれない。米国がロシアに核ミサイルを撃ちこんでも何とも思わないネオコンという冷徹な無慈悲な集団がおり、またウクライナにはネオナチのゼレンスキーがいるからだ。戦争を回避する気が米国とゼレンスキーにはないとはキューバ危機よりももっと危機なのではないか。