新「なるほどメモ」その3(わかっていなかったのは、秋篠宮と眞子だけだった)

「判事が法廷に入ってくると、みんな起立しますが、それはその人に敬意を表するためではなく、その人が帯びている責任、その人が果たそうとしている役割に敬意を表しているのです。その人を与えられた役割にふさわしいものにしているのは、その役割に伴う原理原則の代表者としての当人の誠実さであって、…あなたが起立する相手は一種の神話的な人物なのです。

 おそらく国王だの女王だののなかには、そんじょそこらではお目にかかれないほど無能な、ばかげた、くだらない人間もいるんでしょうね。馬と女にしか興味を持たないような。

 でも、私たちは個々の人間としての彼らにではなく、彼らの神話的な役割に対応している。

ある人間が裁判官に、あるいはアメリカ合衆国大統領になったとき、当人はもはやその人ではなく、恒久的な役職の代表者なのです。

その人はいま自分が果たすことになった役割のために、個人的な願望を犠牲にし、様々な生活や生命の可能性さえも犠牲にしなければなりません。」

(ジョーゼフ・キャンベル「神話の力」より。)

 

もう小室眞子・圭にはほとんど興味はなくなったのだが、この夫婦いつまでNYでフラフラ生活をして、税金を使って寄生虫生活を続けるのか見届けたい気は十分にある。

一番の課題は圭の定職をどうするかだが、結果が明らかになってしまうような弁護士業を眞子や宮内庁・外務省らが世話をしようとしても、圭の能力では無理筋だったのだから、いつまでも資格試験を受けさせて落第させるという恥をかかせるのは、眞子にも本人にも可哀そうな気がする。というか、官僚による眞子・圭への嫌がらせ、見せしめの感を感じないでもない。

 私が前から指摘していたように、投資コンサル会社の社長になるのが一番だが、そんなやり手でもないようで、ただ眞子を引っ掛けただけの男に過ぎなかったから、もう自力で定職を決めることは不可能だ。いま噂される国連職員(外務省丸抱えの)になることが一番可能性が高いのではないか。

まあ、なんだかんだ、早く税金への寄生だけは止めてほしいものだ。

 

さて、なるほどメモだが、「神話の力」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)のなかの、神話学者ジョーゼフ・キャンベルの発言である。神話の人生における意味や役割を解説する書なのだが、この引用文は、ある役割、特に高貴な役割を持った人物への私たちの関係を説明している。

それは読めば誰でもが理解しており、そのように行動し、受ける側もその役割に従って行動しているわけで、至極当然のことを言っているにすぎないのだが、現代日本では、天皇家という家柄や役割が最高である存在の者が、そんな簡単なことを全く分かっていなかったということが、ここ数年の日本を騒がせたことであった。

 

「ある人間が裁判官に、あるいはアメリカ合衆国大統領になったとき、当人はもはやその人ではなく、恒久的な役職の代表者なのです。」は、「ある人間が皇室の一員になったとき、当人はもはやその人ではなく、恒久的な役職の代表者なのです。」と書き替えられるが、秋篠宮と眞子は、そんなことより、日本国憲法を重視して、個人の自由こそ最大限尊重されるべきである、と日本国民に宣明してしまった。神話的人間からスルスルと降りてしまったわけだ。

 

「そんじょそこらではお目にかかれないほど無能な、ばかげた、くだらない人間」でも、皇族に対しては、「私たちは個々の人間としての彼らにではなく、彼らの神話的な役割に対応している」ということは、日本国民なら全員知っていて、行動しているのに、「そんじょそこらではお目にかかれないほど無能な」眞子は、

「いま自分が果たすことになった役割のために、個人的な願望を犠牲にし、様々な生活や生命の可能性さえも犠牲にしなければなりません」という役割を拒否して、自由人としてNYに羽ばたいた。そして秋篠宮はその娘の暴挙を完全に許した。

 

しかし、どういう訳か、眞子はその大事な役割を拒否して、皇族から離れてもなお皇族特権は離さないという暴挙を演じて恥じないのであった。宮内庁も外務省も秋篠宮と眞子の言いなりになるという情けなさ。

 

この神話学者ジョーゼフ・キャンベルの言葉は、眞子を教育する上で幼いときから繰り返し頭に叩き込んでおかなければならなかったのだが、父親もこういう意味を知らなかったのだからどうしようもないのだけれど。