前回の記事「ヒラメを育てた小学校児童…」の中で、
「トロッコ問題を小中学生に与えたら不安を訴える児童・生徒が続出したという。そのことについては、以下の記事に書いた。
と書いた。
しかし、ふつう記事内で引用案内しても誰も読まないよね。
でもこの2年半前の記事は結構真面目に考えて書いた。まだ書き足りないのだけれど。
まあ古い記事は読んでくれない、当たり前だけど。でも古くても読んでほしい記事は再録という形で強引に提供させてもらっちゃおう。
既読の方にはごめんなさいね。飛ばして下さい。
この「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」というトロッコ問題、形式的・抽象的に考えると余り面白くないのである。中にも書いたけど、助かる人、犠牲になる人をとても具体的に想定すると、回答がいろいろなものになってきて、トロッコ問題が問題設定としてあまりよくないと分かってくるのである。つまり一筋縄では解決しないということが。そういうことを考えながら読んでいただけるとありがたいです。
熱心すぎる教師の早すぎたトロッコ問題思考実験。小中学生に殺人を強いる授業して何がしたかったのか。
いわゆる「トロッコ問題」を小中学生に授業の素材として使ったらしい。そうしたら、問題に不安を訴える児童・生徒が続出したとのこと。
この教師たち、熱心はいいが、熱心すぎて、トロッコ問題同様に暴走してしまったようだ。
こんな事件だ。
「山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。
市教委青少年課によると、授業は5月に東中の2、3年生徒、東小5、6年児童の計331人を対象に「学級活動」の時間であった。同じスクールカウンセラーが担当し、トロッコ問題が記されたプリントを配布して授業した。
プリントは、トロッコが進む線路の先が左右に分岐し、一方の線路には5人、もう一方には1人が縛られて横たわり、分岐点にレバーを握る人物の姿が描かれたイラスト入り。「このまま進めば5人が線路上に横たわっている。
あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる。トロッコにブレーキはついていない。 あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか」との質問があり「何もせずに5人が死ぬ運命」と「自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命」の選択肢が書かれていた。
授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。
しかし、児童の保護者が6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。
両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で数人の児童が不安を訴えた。
市教委によると、授業は、県が今年度始めた心理教育プログラムの一環。スクールカウンセラーによる授業については資料や内容を学校側と協議して、学校側も確認してから授業するとされていたが協議、確認していなかった。 東小の折出美保子校長は「心の専門家による授業なので任せて、確認を怠った」と確認不足を認めた。」
「トロッコ問題」は倫理学思考実験としては面白いのである。先日も羽鳥慎一モーニングショーでも扱っていて、玉川が不貞腐れていたが。
「トロッコ問題」は究極の選択を突きつけて、その時の判断基準や思考過程を吟味するものだが、マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」で扱われ有名になった。
究極の選択問題には色々な種類がある。
乗せられる人員に限りがある救命ボート問題やメデュース号の筏(いかだ)やミニョネット号事件のカニバリズム問題、旅客機がハイジャックされ多数の観客のいるサッカースタジアムに旅客機を墜落させようとするテロリストとこれを防ぐため旅客機を撃墜して旅客機の乗客を殺してもいいのか(シーラッハの小説「テロ」)とか、何しろ緊迫感をもたらすから、小説やアクションドラマの恰好なテーマとなる。
笑い話にもなる。沈没船ジョークというもの。ちょっと脱線します。トロッコじゃないってか。
世界各国の人々が乗った豪華客船が沈没しかかっています。しかし、乗客の数に比べて、脱出ボートの数は足りません。したがって、その船の船長は、乗客を海に飛び込ませようとしますが…。さて、船長が各国の人を飛び込ませるために放った言葉とは何でしょう?
アメリカ人に対して・・・「飛び込めばヒーローになれますよ」
ロシア人に対して・・・「海にウォッカのビンが流れていますよ」
イタリア人に対して・・・「海で美女が泳いでいますよ」
フランス人に対して・・・「決して海には飛び込まないで下さい」
イギリス人に対して・・・「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」
ドイツ人に対して・・・「規則ですので海に飛び込んでください」
中国人に対して・・・「おいしい食材(魚)が泳いでますよ」
日本人に対して・・・「みなさんはもう飛び込みましたよ」
韓国人に対して・・・「日本人はもう飛び込みましたよ」
北朝鮮人に対して・・・「今が亡命のチャンスです」
関西人に対して・・・「阪神が優勝しましたよ」
教師たちもこんな笑い話をみんなで一緒に作ってみよう、と授業をしてもよかったものを。小中学生にトロッコ問題を扱うなんてバカ教師というしかない。
なぜなら、ホントかどうか知らないが、何か事件が起きると必ず校長がいうセリフ「命の大切さを教えています」と。
にも関わらず、殺人の選択をさせた。殺すしかないんだ、それが正義なんだと。
つまり今回の「トロッコ問題」は、命の大切さを殺人することによって教えるという倒錯的な授業にしてしまったのだ。殺人しか選択肢はないのだから、子供たちは、特に真面目に考え、世間ずれしていない子供たちは、混乱を起こし不安になったのもよくわかる。
「授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。」
これは当然「逃げ」、「責任回避」の言い分だ。そもそもトロッコ問題に正しい回答はないのだから。といいつつ、多数を生かすために、一人を殺せと命じている。
はっきり言って、このテーマは大学生以上に与える問題だ。思考実験の意味が理解できる、つまりゲーム感覚で参加し、思考を幅広く展開させることのできる年齢であることが必要だ。
このトロッコ問題には様々なバリエーションが考えられており、ネットに沢山紹介されている。そして自分でもそれを作ることができる。
私も少しやってみる。
サンデルの挙げた例では、次のようなバリエーションを取り上げる。
「あなたは線路を見下ろす橋の上に立っている。惨事を防ぐ手立てが見つからない。ふと隣をみると肥った男がいるのに気が付いた。あなたはその男を橋から突き落とし、疾走してくる路面電車(サンデルはトロッコでなく路面電車)の行く手を阻むことができる。その男は死ぬだろうが、5人の作業員は助かる。その肥った男を線路上に突き落とすことは正しいだろうか。」
ここでサンデルは、肥った男を突き落とすのは間違いだと多くの人は思うだろうという。なぜなら、肥った男はたまたまそこに居ただけで、その男を突き落とすのは気分が悪いから。
この辺はサンデルの本はいろいろな考え方を並べて分析しているが、そこは省略。
ここには、道徳的ジレンマがあるという。
「できるだけ多くの命を救うべし」と「正当な理由があっても無実の人を殺すのは間違いだ」という対立する道徳的原理。
もうこうなると小中学生の手に負えなくなることは明らかだし、教師の手にも負えなくなっているはずだ。こんな問題を扱うこと自体がそもそもおかしいのである。
私が作る例とは以下のようなものだ。
暴走する路面電車がぶつかってひき殺すのは、作業員ではなく、我が子、妻、親、恋人の場合はどうなるか。
「正当な理由があっても無実の人を殺すのは間違いだ」という道徳的原理を適用するか。しかも、橋の上に立っていた肥った男とは、見知ったパワハラ上司、とんでもない奴だったらどうするか。
また、ひき殺されるのが逆に悪い奴らで、嫌な上司や部下で、橋の上の肥ったのが大好きな渡辺直美だったら、突き落とすだろうか。
「できるだけ多くの命を救うべし」という道徳的原理を適用するだろうか。
これに人種や民族が関わったら余計にややこしくなる。
つまりこんな思考実験をやって何になるというのかということである。
最近読んだ本でハッとすることが書かれていた。
科学史・科学哲学者の伊東俊太郎氏の「変容の時代」という本の中で、サンデルの正義論について述べている。
「…しかしここに出てくる正義論(暴走路面電車のこと)の例にはちょっと首を傾げたくなるものがあります。…(橋の上から突き落とす例)それはさすがにいいとは、彼は言っていないのですが、そんな例が上がっているんです。私は不快ですね。それを読んでまずそういう例は不快だと感じる。良い悪いの問題の前に、気持ちが悪くなる。正義を論じるじゃなくて、どっちに転んでも不正義になるようなことを論じているんではないんですか。…そこで私なら手を挙げて言いますよ。「先生が挙げている例は、良い悪いは別として、まず不快です」と。」
そうなんだ、伊東先生の言うように問題が不快なんだ。何かいらつくのは問題が不快なんだということ。これは大きな気づきだった。小中学生の児童・生徒もこの不快感に敏感に反応したんだと思うのだ。
倫理学の思考実験をしているのであり、不快かどうかは関係ない、という声が聞こえてきそうだが、哲学者の苫野一徳氏が「はじめての哲学的思考」という本の中で、哲学的思考の初歩の初歩、「問い方のマジック」に引っかからないように、と書いている。ここに答えがありそうだ。
「…「問い方のマジック」とは、いわゆる二項対立的な問いのことだ。
「教育は子どもの幸せのためにあるのか?それとも国家を存続・発展させるためにあるのか?」
僕たちは「あちらとこちら、どちらが正しいか?」と問われると、思わずどっちかが正しいんじゃないかと思ってしまう傾向があるのだ。…でもこれは文字通り「マジック」なのだ。この世に、あちらとこちら、どちらかが絶対に正しいなんてことはほとんどない。とりわけ、意味や価値に関することについてはそうだ。
にもかかわらず、「問い方のマジック」は、まるでどちらかが絶対に正しい答えであるかのように人をあざむく。そして、僕たちの思考を誤った方向へ向かわせてしまうのだ。
…だから僕たちは、上の問いを本当は次のように変える必要がある。
「教育は、どのような意味において子供たちのためにあり、またどのような意味において国や社会のためにあるのか。」
(引用終り)
苫野一徳氏は「ニセ問題」があるといい、「問いの立て方」を変えるべきだと言う。
トロッコ問題もこの「問い方のマジック」にはまってしまったようであり、「問いの立て方」を変えるべき問題なのではないかと思うのだ。その警鐘としての不快感だったように思う。
トロッコ問題をどういうふうに「問いの立て方」を変えたらいいか答えはないが、小中学生には絶対に相応しくない問いかけだったことは確かだと思うのである。
問い方の間違った究極の問題例。これはネットにあったもの。
「あなたはB29爆撃機の操縦士です。
1945年8月6日に広島に原爆を落とすよう指令されました。今ならあなたの力で「小倉」に変更することができます。どうしますか?なお人口は、広島のほうが小倉より多い、となっています。」
これこそが問い方の間違った問題例と言えるだろう。
ちょっと悪乗りして。
この操縦士が韓国人ならどうするか。
今の韓国人なら、広島より東京に落とすというだろうね。
いや韓国人だけでなく、反日日本人も…。
(引用終り)