もうすぐ対米開戦の日(8日)、つまり真珠湾攻撃の日だが、騙し打ちという説は間違いでむしろルーズベルトに騙された説のほうが有力になっている。

 

しかし、国力の差が歴然としているのにわざわざ開戦した軍国主義が今でも責められるのだが、小説家司馬遼太郎は日清・日露を戦った明治国家は評価するが、昭和の日本は全く評価しなかったようだ。

 

特にノモンハン事件における装備貧弱、精神主義のみの日本軍に愛想をつかし、また本土決戦の際の、戦車隊の運行に邪魔になる住民は「轢き殺してゆけ」といった参謀将校に司馬は慄然とする。だから昭和についての小説は書けなかったと。

 

この司馬の語る「轢き殺していけ」エピソードはどこに書かれているのか。

司馬遼太郎『歴史の中の日本』のなかに書かれているようだ。

 

「…「昭和二〇年の初夏、私は、満州から移駐してきて、関東平野を護るべく栃木県佐野にいた。

当時、数少ない戦車隊として、大本営が虎の子のように大事にしていた戦車第一連隊に所属していた。

ある日、大本営の少佐参謀がきた。おそらく常人として生れついているのであろうが、陸軍の正規将校なるがゆえに、二十世紀文明のなかで、異常人に属していた。

連隊のある将校が、このひとに質問した。

「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」

高級な戦術論ではなく、ごく常識的な質問である。だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。

「轢き殺してゆく」

私は、その現場にいた。私も四輌の中戦車の長だったから、この回答を、直接、肌身に感ぜざるをえない立場にあった。

(やめた)

と思った。

そのときは故障さ、と決意し、故障した場所で敵と戦おうと思った。日本人のために戦っているはずの軍隊が、味方を轢き殺すという論理はどこからうまれるのか。

私はこのとき、日本陸軍が誕生したとき、長州藩からうけついだ遺伝因子をおもわざるをえなかった。これはあとでのべる。

(中略)

大正、昭和に軍部の主導権をにぎったひとに、東北人が多い。戊辰戦争で「賊軍」にされた藩から、多くの軍人が出ている。かれらは西国諸藩出身よりも、より以上に「勤皇屋」になり、陸軍の「長州的暴走性」のうえに、狂信性を加えた。東条英機の祖父が南部藩士であり、旧会津藩士の家系からも多い。かれらは、「わが藩は、薩長よりもむしろ尊王の伝統が深かった」というさまざまの藩伝説を誇大に教えこまれて維新後育った家系の出身である。一種の史的コンプレックスからぬけるために、非常な精神家になる場合が多かった。

「轢き殺しても進め」

といったひとは、東北人であり、「天皇陛下のためだからやむをえない」とつけくわえた。」

『歴史の中の日本』

 

なんだか東北人特に会津人に対して失礼、侮辱なのではないかと思ってしまう。勿論この少佐参謀の「轢き殺しても進め」という言葉は戦時中であっても異常だが、それを語ったのが東北出身だからといって、全ての東北人を代表していたかのように東北人全体を責めるのは行き過ぎの気がする。

 

この「轢き殺していけ」と言う話、司馬遼太郎はいくつも文を書いているようだ。ネットで調べていたら「愛・蔵太の気になるメモ」というサイトに出会った。詳しく書かれていた。

 

『歴史と視点』「石鳥居の垢」から。

「“敵が上陸してくる場合、北関東にいるわれわれは、それぞれ所定の道路をつかって南下する。その邀撃作戦などについて説明すべく、大本営から人がきたことがあった。そのため連隊の将校たちが集められた。

 終って、質問になった。速成教育をうけただけの私にはむずかしいことはわからなかったが、素人ながらどうしても解せないことがあった。

その道路が空っぽという前提で説明されているのだが、東京や横浜には大人口が住んでいるのである。敵が上陸(あが)ってくれば当然その人たちが動く。物凄い人数が、大八車に家財道具を積んで北関東や西関東の山に逃げるべく道路を北上してくるにちがいなかった。

当時は関東のほとんどの道路は舗装されておらず、路幅もせまく、はっと二車線程度という道筋がほとんどだった。戦車が南下する、大八車が北上してくる、そういう場合の交通整理はどうなっているんだろうかということであった。

その人は相当な戦術家であったであろう。しかし日露戦争の終了とともに成立した官僚国家が、その後半世紀ちかく経ち、軍人官僚をもふくめて官僚秩序というものが硬化しきったころに太平洋戦争があり、この人はその官僚秩序のなかから出てきている。

戦術もその官僚秩序のなかで考えている人であり、すくなくとも織田信長や羽柴秀吉のような思考の柔軟さは環境としてもっていなかった。

このため、この戦術という高級なものを離れた素人くさい質問については考えもしていなかったらしく、しばらく私を睨みすえていたが、やがて昂然と、

 「轢っ殺してゆけ」

と、いった。

 同じ国民をである。われわれの戦車はアメリカの戦車にとても勝てないが、おなじ日本人の大八車を相手になら勝つことができる。しかしその大八車を守るために軍隊があり、戦争もしているというはずのものが、戦争遂行という至上目的もしくは至高思想が前面に出てくると、むしろ日本人を殺すということが論理的に正しくなるのである。

私が、思想というものが、それがいかなる思想であってもこれに似たようなものだと思うようになったのはこのときからであり、ひるがえっていえば沖縄戦において県民が軍隊に虐殺されたというのも、よくいわれているようにあれが沖縄における特殊状況だったとどうにも思えないのである。

米軍が沖縄を選ばず、相模湾をえらんだとしてもおなじ状況がおこったにちがいなかった。ある状況下におけるファナティシズムというものはそういうものであり、それが去ってしまえば、去ったあとの感覚では常識で考えられないようなことがおこってしまっているのである。」

(引用終り)

 

さきの『歴史の中の日本』と今回の『歴史と視点』のそれとは若干ニュアンスが異なる。

後者では、道路の混雑時に戦車はどうすればよいかの質問は司馬が直接したことになっている。

しかも、答えは「昂然と、「轢っ殺してゆけ」」とドラマチックな表現になっている。

そして、この吐かれた言葉を分析して、「戦争遂行という至上目的もしくは至高思想が前面に出てくると、むしろ日本人を殺すということが論理的に正しくなる」として、思想の危うさを思い、何の戸惑いもなく、「沖縄戦において県民が軍隊に虐殺された」ことに強引に結びつける。沖縄戦では日本軍の守備隊が県民を虐殺なんかしたのかね。

 

司馬はまだ別のところでこれについて触れている。

「対談・歴史の中の狂と死」(「朝日ジャーナル」昭和46118日号)

日本人を占領していた軍部

司馬(遼太郎) 私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。それは自分の体験からくるんですけれども、私は兵隊にとられて戦車隊におりました。終戦の直前、栃木県の佐野の辺にいたんですけれども、東京湾か相模湾に米軍が上陸してきた場合に、高崎を経由している街道を南下して迎え撃てというのです。

私はそのとき、東京から大八車引いて戦争を非難すべく北上してくる人が街道にあふれます、その連中と南下しようとしている、こっち側の交通整理はちゃんとあるんですか、と連隊にやってきた大本営参謀に質問したんです。

そうしたら、その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。

これが、私が思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点ですけれども、「ひき殺していけ」といった。

われわれは日本人のために戦っているんじゃないのか。それなのに日本人をひき殺して何になるだろうと思いますでしょう。私は二二歳か二三歳ぐらいでしたから、もうやめたと思いました。何ともいえん強烈な印象でした。

つまり、私たちは、参謀肩章をつっている軍部の人間に日本民族は占領されていたわけですね。それはやはり思想的な背景が強烈にあるんで、集団狂気のなかからいえば、高崎街道を北上してくる避難民はひき殺していけという結論が出るわけです。ぼくは猛烈に幻滅した。これはマルクス思想に対しても、カトリック思想に対しても、思想の悪魔性という点で同じです。

 

戦後、アメリカ軍がなるほど占領にやってきたけれども、その占領のほうがやや軟弱なる占領であって、その前の占領のほうがきつかったという感じ。ぼくは復員して普通の生活に入るんですけれども、戦後社会を見たときに、これが初めて日本人が持った暮らしやすい社会なんじゃないかという感じがしましたですね。

いまだって、戦後社会のそのときに感じた民主主義なら、うまく守っていきたいという感じがついしちゃう。狂気じゃありませんけれども、そういうことを守るためなら自分は死んでもいいという気持がしょっちゅうあります。むろんこの死ぬというのは日本人の口ぐせであって、気持の高揚のときに言うんで、言いながら私は自分を軽蔑してますけれども(笑い)そんな体験がありますね。」

 (引用終り)

 

私はこの少佐参謀の乱暴な発言はあったかもしれないと思う。しかし、本気でそうしろという思いはなかったのではないか。若造の生意気な兵隊から痛いところを突かれて、大本営エリート少佐は逆上して思わず口走ったのではないかと。

 

もちろん司馬にとっては、「思わず口走った」としても、言っていいことと悪いことがあるし、激情にかられた発言の方が本音が表れているというかもしれない。

そして、この経験が戦後民主主義を命をかけても守る原点だと。

立憲民主党やシールズがこれを読んだら泣いて喜ぶことだろう。

 

最近たまたま予備校講師の書いた茂木誠「保守ってなに?」という本を読んだ。ほとんど戦前戦後の政治史なんだが、その中にこの司馬の戦車隊エピソードが紹介されていた。

そして、このエピソードの種明かしのようなものが書かれていた。

 

「この衝撃的なやり取りについては、司馬以外には証人は一人もいない。のちに司馬は戦友会の会合で語っている。

「私は小説家ですよ。歴史研究家ではありません。小説というものは面白くなければ読者は離れてしまいます。」(秦郁彦「昭和史の秘話を追う」)

つまり、話を盛ったのである。」

(引用終り)

 

話を盛った。「盛った」といえば法律事務所向けの経歴書に嘘を並べて盛った小室圭のことを思い出す。

司馬の場合はどういう目的で話を「盛った」のか。

確かにお話として面白く脚色したかったのであろう。

しかし、どうもそれだけではあるまい。

 

つまり、司馬が一番言いたかったのは、軍国主義の否定、当時の軍人が如何に狂信的だったか、戦前昭和の否定だった。だからあり得る話のように脚色したのだと思われる。

 

私は先にも書いたように、そういう少佐参謀の常軌を逸した発言はあったかもしれないと思っている。しかし、それは戦車隊の専門家でない行きがかり上の発言であり、これれだけをもって戦前の昭和を否定するのはちょっと言い過ぎではないか。

 

この盛った話について、もう一つ関連座談会というものがある。

昭和588月中央公論社『増刊・歴史と人物』誌の「座談会 もしも本土決戦が行われたら」という特集だ。(これも「愛・蔵太の気になるメモ」から)

 

秦郁彦教授 実際には七、八歳の子どもが戦うことだってあり得たんですね。檜山さんの小説では、小学校の三、四年生が、女の先生といっしょに戦車に向かって突撃する場面がでてきますね。

まぁ、そうした国民ぐるみの戦法が一方にあるわけですが、最精鋭の戦車連隊中隊長として、近藤さんは戦車を並べた正々堂々の攻撃も考えられたのでしょう。

 

近藤(戦車隊中隊長) それが正々堂々じゃないんですよ。向こうのM4戦車にはこちらの一式中戦車の正面射が通用しないんです。弾がとおりません。そこで考えついたのが、夜のうちに飛白(かすり)状にこちらの戦車を配置しておいて、向こうが攻撃してくるのを横から撃とうという刺しちがえ戦法でした。九五式の軽戦車は爆弾を積んで体当たりさせる。

それからもう一つ、田圃の畝(うね)のようなものをウネウネと並べて作っておく、その畝にM4が乗り上げるとキャタピラの半分くらいが上がって、薄い底板が見えますから、そこを狙ってこちらの戦車が撃つことも考えました。こちらは戦車を土の中に入れ姿勢を低くしておく、したがって射界は限定されますから、自分の射界内のものだけを確実に狙うことにしたのです。言うならば、弱者の戦法に徹したのです。

 

秦 司馬遼太郎さんは、そのころ宇都宮の戦車隊にいて、大本営の参謀が来たときに、九十九里浜まで戦車が進出する場合、避難民が逆流してきたらどうするのか、と質問したそうですね。参謀はしばらく考えていたが、轢いてけ、と答えたというんですよ。

 

近藤 あの話は、われわれの間で大問題になったんです。司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当ったけれど、だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね。

 

秦 もっとも、無理に住民の中へ突っ込めば、大八車なんかもあるし、戦車のキャタピラの方が壊れてしまうのではないかという意見もありますがね。

 

近藤 当時、戦車隊が進出するのには、夜間、四なり五キロの時速で行くから、人を轢くなどということはまずできなかったですよ。夜光虫をビンに入れて背中にかけた目印の兵が戦車の前に立ち、それの誘導でノロノロ進むのです。轢き殺して行けと言ったとしたら、その人は、戦車隊のことがよく分かっていないのではないですか。

 

秦 夜光虫とはおどろいた。

 

近藤 これが、まっすぐ見たら見えないんです。少し横から見ると見える、ですからそういう訓練もしましたね。

 

藤原岩市(元参謀中佐) 今になってみると、ずいぶん下らんことを考えたと思われるかもしれんが、当時は、絶体絶命、藁をもつかむ境地だったんだな。理屈に合わんと知りつつ、淡い願望をつないだんだ。」

(引用終り)

 

さて、歴史小説は非常に面白いのではあるが、ちょっと困ったことも生ずる。

この歴史小説に書かれたことを「史実」と思いこんでしまう、又は思わされてしまうことだ。

特に史実と小説を混同させることを得意?とする小説家は、この司馬遼太郎と山崎豊子だ。

 

実を小説という形でしか書けないこともある。しかし、逆に嘘を真実のように偽装して思い込ませるという狡い小説もある。

そして、誤った印象を植え付けたことに異議を唱えると必ず言う狡い言葉「小説ですから」と。

歴史小説は事実に余りに囚われれば面白くなくなるのは確かだから、自由に「if」を書いてほしいが、意図的に混同を目的にする小説は止めてもらわないといけない。

 

この「轢き殺していけ」も「小説ですから」と言うのならば知的誠実さに欠けるというものだ。