なるほどメモ⑥

「念仏していると眠くなる」

「ある人法然上人に、「念仏の時睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何(いかゞ)して此の障りをやめ侍らむ。」と申しければ、「目の覚めたらむ程念仏し給へ。」と答へられたりける、いと尊かりけり。

又、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり。」といはれけり。これも尊し。また、「疑ひながらも念仏すれば往生す。」ともいはれけり。是も亦尊し。」

 徒然草第三十九段
(現代語)
「ある人が法然上人に対して「お念仏を唱える時に眠気に襲われて勤行が疎かになります。どうすればこれを克服できるのでしょうか。」と伺うと、上人は「目の覚めている時に念仏をなさい」とお答えになった。尊いお言葉である。

また、往生は必ずできると思えばできる。出来ないと思えばできない、といわれた。これも尊い言葉である。また、「疑っても兎に角念仏しさえすれば往生する。」とも言われたという。これまた尊い言葉である。」

 

この徒然草第三十九段を宗教学者の阿満利麿氏は、法然浄土教の本質を表していると述べる。
「はじめのエピソードは、一見たわいのない話に思われるが、深い問題を示している。法然以前であれば、念仏をしていて眠くなることがあれば、なんとか睡魔を追い払って念仏を続けるように教えたであろう。従来は、およそ行という以上は、苦行でなければならなかった。おのれの犯した罪、他人の犯した罪をあがなうことによって、また、これから犯すであろう罪にそなえて、あらかじめあがないをしておく、そのことによって、後生の救いを願う。その際の行が安楽なものであるはずはない。

 ところが、法然は、眠たい時に無理をして念仏をすることはない。目が醒めてからでよいではないかといとも簡単にいってのけるのだ。本願念仏においては、念仏だけがすべてであり、苦行することが救済の条件とはなっていない。法然は、このような苦行主義を、救済とはなんのかかわりもないとして否定した。

本願念仏の真意は悪を犯さずには生きて行けない凡夫を救済するところにある。凡夫救済が主眼なのである

凡夫の自覚とは、単に愚かものということではない。自分で自分に戦慄することである。

ひとたび、自己を凡夫と自覚するに至ったものには、それまで教えられてきた修行方法は一切意味を失う。そこには絶望と悲嘆が残るのみであった。このように、従来の行から一切見離された凡夫の自覚こそが、本願念仏を見出したのである。」

(阿満利麿著「法然の衝撃」(ちくま学芸文庫)より)


 この歳になると少し宗教の意味を探ってみたくなる。そのなかで、法然の浄土教には、わからないながら不思議な魅力があると感じられるのです。引用が長くなりましたが、これだけではよくわからないと思います。でも「凡夫救済」という言葉に惹かれます。今日通勤電車の中でこの本を読んでいて、なるほどと思ったのでメモをしてみたのでした。思えば今年(平成232011)は、法然上人の八百年大遠忌(八百回忌)だったようです。 

 

⇒まだ会社勤めをしているとき書いた10年も前の「なるほどメモ」です。当時は仏教に少し関心があったのですが、今はご無沙汰。ただ、最近になって、高神覚昇著「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)を読んで面白かったので、巻末の「般若心経」全文の暗記に挑戦しました。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空

……

半分ほどは覚えましたが最後までは行かず終い。わずか262文字なんですが結構難しい。

YouTubeで「般若心経」を検索すると、薬師寺寛邦キッサコという若い坊さんの「般若心経」読経が出てきました。ほぼ音楽のような(本当にギターなどに合わせて読経)感じで、一緒に口ずさみ、楽しかったです。

 

 

さて、「本願念仏の真意は悪を犯さずには生きて行けない凡夫を救済するところにある。凡夫救済が主眼なのである」という法然の教えは、親鸞により受け継がれ、「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」」という悪人正機説といわれるもので私たちは知っているのですが、菊池寛の短編小説「ある抗議書」(注)を読むと、阿弥陀仏の本願は罪深い悪人を救済することであり、悪人こそ仏の教えを聞いて悟りを得る能力・資質を備えた往生するに相応しい者であるという親鸞の思想もなかなか容易に納得できないことだと感じもします。

 

(トラ注)

菊池寛「ある抗議書」

娘を殺された母親は、死の間際、
「あんな極悪な人間は、ここで捕まらなくても死んだら地獄に落ちるのじゃ。地獄でひどい目に逢うのじゃ」と、言い残し亡くなったが、彼女の思いなど無視するように、犯人は、信仰を持ち「死」さえ恐れず、また信仰をもったことで死後も安らかなる場所にいく。
そんなことが許されるのかと、姉を殺された弟はいい、そこに導き、改心し善行のひととなった犯人をまとめた本のなかで、彼を褒めそやした役人にも抗議する。

「殺人犯坂下鶴吉のキリスト信仰を真実のものだとする時は、坂下鶴吉は、明かに天国へ行って居るのに違いありません。が、坂下鶴吉は天国へ行ったとして、彼に殺された被害者は何処へ行ったでしょう。」

 

キリスト教も仏教も悪人のほうが天国へ行き、救われるのなら、殺された被害者はどこへ行って救われるのか、とした問題提起の菊池寛の小説である。

 

 

なるほどメモ⑦

「神仏は存在する?」

引き続きで、阿満利麿著「法然の衝撃」からの抜書きです。

「明治の宗教哲学者、清沢満之は、宗教とは主観的事実だといったことがある。神仏の存在が、客観的に証明されたならば、そのとき私も神仏を信じようというのは、宗教からもっとも遠い精神だ。どうしても神仏を求めずにはいられないとき、そのときはじめて神仏は、その人間にとって存在するようになる。」
阿満利麿著「法然の衝撃」(ちくま学芸文庫)より


「どうしても神仏を求めずにはいられないとき」とは「不幸なとき」しかないように思いますが、「どうしても」ではなく、自然にそういう思いになりたいものです。昔からの日本人はそうしてきたのですから。