私は前から東京五輪は反対だったが、それはコロナを理由としてではなかった。しかし今となっては中止するべきではない。開催しても大丈夫だ。中止を叫ぶ勢力が理不尽すぎる。
産経新聞論説委員五十嵐徹氏も
「「国民の命と五輪開催のどっちが大事か」といった信じがたい議論が聞こえてくる。次元が違う問題を並立させ、政府に二者択一で「開催中止」を迫る考えは不見識というほかなく、理解に苦しむ。日本にとっては「どちらも重要」であることは当たり前ではないか。」
と書いている。
少し前の「表現者クライテリオン 2021年3月号」を見ていたら、次のような言葉にぶつかった。
ここでは、「命か五輪か」ではなく、「命か経済か」という問い方に疑問を呈していたが、意味することは同じだろう。
「コロナが導く社会崩壊」より対談記事
柴山圭太(経済学者)
僕は「命か経済か」という二分法がどうしても気になります。マスコミ世論は感染者が増えると「命」を守れの大合唱になり…
でも「命」とはなんだと考えたときに、コロナ感染症の死者だけが死者ではないことは明白です。「経済死」、「社会死」あるいは最近は「絶望死」という言葉もある。
短期のロックダウンによって、この感染症を完全にゼロにできるという想定はどう考えても成り立たない。医療崩壊を防ぐために再度の緊急事態宣言が必要なのだとしても、それによって失われるものが何であるかをはっきり意識した上でないとやはり議論が偏ったものになると思うんです。コロナ対応も総合的な問題なのですね。
(引用終り)
「命か五輪か」の問い方は、あの8割おじさんの西浦ボケ教授の42万人死亡説と同じ暴論であり、偏っており、マスコミらが衆議院選で自民党を大敗に追い込もうという意図が見え見えなのである。
つまり、「命か五輪か」と問うマスコミや野党は「命も五輪も」どちらにも興味も関心もない。ただ選挙を有利に戦いたいだけのレトリックなのである。
最近は尾身会長の発言も痛々しい。尾身ならぬ御身(おんみ)大切か。
現在の緊急事態宣言に対して、市民はもう慣れっこになって外出をこれまでのように極端に自粛はしない。節度を保ちながら、生活もしていくという賢明な行動をしている。
だから、いま自然に感染者数は減少しているではないか。これはワクチン効果では全くないし、ましてや飲食店で酒を禁じた効果でも何でもない。緊急事態宣言に入る直前に、感染の原因として酒を出す飲食店は全体の1割程度だった。飲食店の酒類提供が感染の大きな原因ではないことがわかっていても、何かインパクトを強く出せる犯人が必要だったので、飲食店が生贄に提供されてしまっただけである。
今度は五輪が生贄になった。「死ぬぞ」と。「死ぬぞ」というなら、コロナ感染よりワクチン副作用による死亡の方が余程怖いのである。
先日のブログ記事では、ワクチン接種による死亡者は、5.16現在85人と書いたが、今(6.4)では196人も死んでいる。接種が進んだから当然死亡者も飛躍的に増加しているのである。「命か五輪か」ではなく、「命かワクチンか」と問うべきだろう。
因みに米国で6月4日までに報告されたワクチン死者数は、1週間前より723名増え、5888名にもなったという。
これでも驚かないのか。これでもワクチンを打ちに行くのか。勇気あるねえ。私は絶対に嫌だね。
ワクチンのマイナスはコロナ感染防止を補って余りあると主張する。つまりトロッコ問題。一人の犠牲で5人を助ける。又は原爆投下の理由。本土上陸による米軍戦死者数を少なくするために、広島・長崎の原爆死は止むを得ない等々。みんなトロッコ問題だ。しかし、ワクチンの犠牲が多すぎて、トロッコ問題になっていないのではないか。
さて、産経新聞論説委員五十嵐徹氏は次のように続けて書いている。
…ところが多くの新聞・テレビは、日を追うごとにヒステリックな「中止論」ばかりをあおっている。
…民放テレビのワイドショーに至ってはもっと露骨だ。多くの世論調査で五輪開催の中止・延期を求める声が大勢であることは事実だが、「こんなことで五輪開催などできるのでしょうか」という無責任なコメンテーターの発言ばかりが垂れ流されている。それがまた、視聴者の不安心理を刺激する悪循環をもたらしていることには思いが至らないのだろうか。(後略)
(引用終り)
このまま推移すれば、東京五輪は予定通り開催されるだろう。その時、テレビ局のワイドショーは、まだ「命か五輪か」と騒ぐのか。前半は玉川徹が「死ぬぞ、死ぬぞ」と叫び、後半は、日本選手の金メダルに喝采を浴びせるのだろうか。そんな狂ったテレビを誰が見るというのか。