去年の月刊誌WILLの記事2020.1月特大号)からです。

書棚にあった古い雑誌を引っ張り出して読んでいたら、ジェンダーについて述べていることばにぶつかりました。埼玉大名誉教授で哲学者の長谷川三千子氏のことばです。

文芸評論家小川榮太郎氏との対談より。

 

小川榮太郎(文芸評論家)
戦後70年が経って、日本人が積み上げてきた歴史と文化にかなり手を突っ込まれている。標的になるのは、家族や地域社会などの中間共同体。まず日本の強みを切り崩しにかかるのが、日本の国力を削ごうと企む勢力の常とう手段です。
長谷川三千子
近頃のフェミニストはジェンダーなるものを提唱しています。
でもあれは、実際には「ジェンダー破壊学」です。ジェンダーとは元々文法用語で、太陽は男性名詞、月は女性名詞といった区分のある言語について使われる。
生物学的なオスとメスの区分を文化の領域に持ち込むとき、それをジェンダーと呼ぶわけです。例えば、ほとんどどんな文化でも、女性の服装と男性の服装は異なっている。「なぜ?」と訊かれても、合理的な説明ができるとは限らない。そうした文化的な領域の男女の差異を、全てケシカランと言って解消させていくのが現代の「ジェンダー」です。
本来のジェンダーは、実は各々の文化を支え、男女の補完的関係を支える大切な役割を果たしてきたものなのです。
これを破壊すると、家族や社会の根底が崩れていってしまう。現在進行形の少子化も、そこに遠因があると言えます。

(引用終り)

 

ジェンダー論には興味がほとんどない。なぜならボリコレ棒と同じで、それ自体の主張よりヘンな理屈を持ち込んで、相手を折伏(しゃくぶく)させる、つまり言論を弾圧する武器として主張するだけだからです。長谷川氏も言うように、男女の文化的違いを説明しようにも「合理的な説明ができるとは限らない」ので、その隙を狙って勝手な理屈で攻めてくるわけです。

 

例えば国際協力機構のホームページをみると、

「ジェンダー(gender)とは、生物学的な性別(sex)に対して、社会的・文化的につくられる性別のことを指します。世の中の男性と女性の役割の違いによって生まれる性別のことです。たとえば、「料理は女がやるもの」って考えている人、いますよね?料理=女のシゴト。でも男で料理上手もいるのに?この性別がジェンダーです。」

 

性別による役割の違いは確かに存在するので、その指摘はもっともなものもあるのですが、それをいいことにこれを主張する人々は勝手に範囲を拡大し、男女の別を全て否定しようとしているように思います。

 

まさに、その狙いは男女の差異を壊すことですから、まさにジェンダー論は「ジェンダー破壊学」となっているわけですね。フェミニストたちは、みんな「のっぺらぽー」が理想のようですが、そんな文化のどこが面白いんでしょうかねえ。面白い訳がない。そんなことは彼ら・彼女らも承知なんだと思います。それよりも相手の言論を弾圧することが目的だからそんなのっぺらぼーさ、なんてどうでもいいんでしょうね。

 

因みに、「太陽は男性名詞、月は女性名詞」云々と長谷川氏が述べていますが、ジェンダー主張の世界では、この区分はどうなっているのでしょうか。日本語ではいちいち男性名詞、女性名詞なんて区別はしませんが、ドイツ語やフランス語などの外国語ではかなり厳密に区分しているはずです。今はジェンダー先進国ヨーロッパでは全部廃止してしまったのでしょうか。

 

ネットから。

学生:先生、なぜフランス語には男性名詞と女性名詞があるんですか?単語の意味だけじゃなく、いちいち男性名詞か女性名詞かも覚えなくてはならないので大変です。

先生:名詞に性があるのはフランス語だけじゃなくて、インド=ヨーロッパ語族の多くの言語も同様だけどね。男性/女性で名詞につく冠詞や形容詞なども変わってくるし、確かにやっかいだけど、これは覚えるしかない。 

学生:そもそも男女の区別がない事物も男性/女性に分類されるなんて変じゃないですか。「絵画」peinture は女性名詞、「芸術」art は男性名詞。「ビール」bière は女性だけど、「ワイン」vin は男性とか。いったい何を基準にして男女に分かれているのでしょうか。

先生:無生物についての男性/女性の割り当ては恣意的で、性と単語の意味とは関係ないんだよ。男性/女性といっても、それは文法的な約束事でしかなく、雌雄の性別とは別物と考えなくてはならないんだ。 

学生:そうなんですか。でも「月」lune が女性名詞で「太陽」soleil は男性名詞とかは、男性と女性のイメージと重なるようにも思うのですが。

先生:確かに、そういった対でとらえられるようなものは男性/女性の類推が働いているようにも思えるのだけど、同じものを指していても、言語によって異なる性が割り当てられていることもあるよ。フランス語とは逆にドイツ語では「月」Mond は男性名詞で、「太陽」Sonne は女性名詞だね。「死」はフランス語では mort で女性名詞だけど、ドイツ語だと Tod で男性名詞。(後略)

学生:ムチャクチャですね。このデタラメな性の振り分けは何に由来するのでしょうか?(後略)

 

・…いったいなぜなのかと尋ねることができたとしても,返ってくる答えは「わからない,そういうことになっているから」にとどまるだろう。現代のフランス語話者にも尋ねてみるとよい.なぜ太陽 soleil は男性名詞で,月 lune は女性名詞なのかと。そして,ドイツ語話者にも尋ねてみよう.なぜ逆に太陽 Sonne が女性名詞で,月 Mund が男性名詞なのかと。いずれの話者も納得のいく答えを返せないだろうし,言語学者にも答えられない。
 言語の性とは何なのか。私は常々次のように考えてきた。言語における性とはフェチなのである.もう少し正確にいえば,言語における性とは人間の分類フェチが言語上に表わされた1形態である。
 人間には物事を分類したがる習性がある。しかし,その分類の仕方については個人ごとに異なるし,典型的には集団ごとに,とりわけ言語共同体ごとに異なるものである。それぞれの分類の原理はその個人や集団が抱いていた世界観,宗教観,人生観などに基づくものと推測されるが,それらの当初の原理を現在になってから復元することはきわめて困難である。現在にまで文法性が受け継がれてきたとしても,かつての分類原理それ自体はすでに忘れ去られており,あくまで形骸化した形で,この語は男性名詞,あの語は女性名詞といった文法的な決まりとして存続しているにすぎないからだ。
 世界観,宗教観,人生観というと何やら深遠なものを想起させるが,そのような真面目な分類だけでなく,ユーモアやダジャレなどに基づくお遊びの分類も相当に混じっていただろう.そのような可能性を勘案すれば,性とはフェティシズムすなわちその言語集団がもっていた物の見方の癖くらいに理解しておくのが妥当だろう.いずれにせよ現在では真には理解できず,復元もできないような代物なのだ。自分のフェチを他人が理解しにくく,他人のフェチを自分が理解しにくいのと同じようなものだ。
 言語学用語としての gender を「性」と訳してきたことは,ある意味で不幸だった。英単語 gender は,ラテン語 genus が古フランス語 gendre を経て中英語期にまさに文法用語として入ってきた単語である。genus の原義は「種族,種類」ほどであり,現代フランス語で対応する genre は「ジャンル,様式」である。確かに人類にとって決して無関心ではいられない人類自身の
分法は男女の区別だろう。最たる gender がとりわけ男女という sex の区別に適用されたこと自体は自然である。しかし,こと言語の議論について,これを「性」と解釈し翻訳してしまったのは問題だった。gender, genre, kind は,もともと男女の区別に限らず,あらゆる観点からの物事の区別に用いられるはずであり,いってみれば単なる「種類」を意味する普通名詞なのである。これを男性と女性(およびそのいずれでもない中性)という sex に基づく種類に限ってしまったために,なぜ「石」が男性名詞なのか,なぜ「愛」が女性名詞なのか,なぜ「女性」が中性名詞や男性名詞なのかという混乱した疑問が噴出することになってしまった.
(引用終り)