森喜郎会長女性蔑視発言で世間は大盛り上がりのようだが、総選挙対策としてのマスコミからの批判は「政治的工作」だから無視するとして、その他の多くの有名人が森バッシングに参加していることに興味を覚える。

 

バッシングの中には、インド放送局の「恥を知れ。この男は性差別主義者だ。」という場違い者の闖入に「お前が言うな」と笑われてしまうものやTBSNEWS23」の小川彩佳アナ「正直うんざりしてしまう」という声に、お前の不倫夫の方に「正直うんざりしてしまう」方が先じゃないのか、という声にこれまたうなずいてしまう。

 

それよりも興味深いのは、我先にと森バッシングに参加しようと慌てている者たちの滑稽な必死さだ。

小池都知事は当然として佐竹秋田県知事その他の知事連中、後藤田正純等の自民党の政治家、ワイドショーのほとんど全てのМC、ロンブー田村淳その他多くの芸能人等々…。

 

これってリベラル左翼が日本を批判する時必ず用いる「同調圧力」に屈してしまう哀れな人々、と言えないか。

読んでないけど、講談社現代新書に「同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか」(鴻上尚史×佐藤直樹)という本があるようだ。この本の宣伝をネットでみると次のように書かれている。

同調圧力とは、多数派や主流派の意見に従えという、暗黙の「命令」だ。そして日本は、同調圧力が世界でも突出して高い国だという。それはなぜか。作家・演出家の鴻上尚史氏は、「世間」という日本特有のシステムが、同調圧力を生んでいると説明する。

「世間」と「同調圧力」が支配する日本社会のカラクリを解き明かした鴻上氏の新刊『同調圧力』(評論家・佐藤直樹氏との共著、講談社現代新書)。(後略)」

 

まさに、今回の森バッシング、森会長の魔女狩りに多くの著名人が参加している状態は、「同調圧力」に屈してしまっている姿なのではないのか。

「同調圧力とは、多数派や主流派の意見に従えという、暗黙の「命令」だ。」という言い方はまさに的を射ている。森バッシングに参加しないと非難されることを恐れているのだろう。

それだけ反女性差別とかポリティカル・コレクトネスというのは、人に同調圧力を加え、同調しないものを排除する恐ろしい文化装置と言える。

 

この同調圧力、昔は「空気」と言った(山本七平)が、ビジネスコンサルタントの鈴木博毅氏が面白いことを書いている。

「…終戦直前、護衛戦闘機もなく沖縄へ出撃した戦艦大和は、アメリカの戦闘機の波状攻撃を受けて戦果なく撃沈されました。無謀な作戦の理由を聞かれて、軍令部次長だった小沢 治三郎中将はこう答えたと言います。

「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」

 山本氏はこの発言に「空気」の存在を見ていました。

なぜ穏和な日本人は集団になると攻撃的になるのか

 日本社会でたびたび問題となる「いじめ」。集団の中で誰かを多数で攻撃したり、陰湿な差別をすることに、学校現場で歯止めがかかりません。いじめの対象にされた子どもが自殺する痛ましい犯罪がいまだに続いています。最近では、ネットや不特定多数が参加するSNSでも、特定の人物を袋叩きにするような現象が頻繁に起こっています。

 空気を乱す者を敵視して、集団になると個人の倫理を捨てて一斉に攻撃する陰湿さ。日本人は性格的に穏和な人が多いと言われながら、特定の状況には極めて非情、不寛容で仲間外れにすることに容赦がありません。まるで古い時代の村八分のようです。(後略)」

 

軍令部次長小沢治三郎中将の言葉を今回の森発言に変えて言い直しましょう。

「全般の空気よりして、今日も(女性蔑視発言の)森会長叩きは当然と思う」

これが森バッシングに参加した人達の偽らざる気持ちでしょう。

 

しかし、この件についてもう少し考えてみようという勇気ある発言もあったようです。

それは弁護士の山口真由氏の以下の発言。(ゴゴスマ)
「会見は衝撃的でしたが、私は、ああいう方を表に出してはいけない、裏で隠然とした力を発揮してもらえばいいという欧米の臭い物にフタを、みたいなポリコレ・カルチャーには若干違和感があって、多様性というなら、多様性に全く理解しない83歳のおじいちゃまも、社会につまみ出してはいけないと思うんですね」
あの方がああいう発言をして次に私たちが議論をして、自らの行動を反省する機会が与えられる。むしろこれをポジティブに変えていけたらなと思います

 

一番まともな意見だ。女性蔑視発言問題だから男は言いづらいが、女性からの発言だから受け入れ安い。

 

この同調行動はポリティカル・コレクトネスに関する限りはまさに左翼全体主義的だ。言論抑圧を強いる。そういう全体主義に違和感を持つなら、最低限沈黙するに限る。

しかし、今回の著名人の同調行動というか付和雷同については、単なる「空気」の存在以上の狡知が隠されているように思われる。

 

昔、このブログのどこかに「告発者は告発されない」という題で書いた気がするのだが、その意味は「殺(や)られる前に殺(や)れ」ということだ。今回の率先しての森バッシング同調者たちは、無罪証明が欲しくて率先して告発しているのではなかろうか。

 

告発者は告発されない
他人の罪をあばく者は、最初から意図していたかどうかにかかわらず、自らをいかなる告発の攻撃からも身を守ることのできる死角に置くのである。まるで告発するという行為自体がそのまま無罪を証明するかのように。

(したがってフルシチョフは、スターリンを弾劾することによって、自分は無罪であることを証明したかったかのようである)
(訳・解説志水速雄「フルシチョフ秘密報告書「スターリン批判」」講談社学術文庫より)

 

 昔からスターリンについて興味があったが、BOOKOFFで「フルシチョフ秘密報告書「スターリン批判」」を見つけたので読んでみた。

 フルシチョフがスターリンの粛清及び個人崇拝を告発しているのだが、臨場感があっていい。

そして、なぜフルシチョフがわざわざ党大会でこのように秘密報告を読み上げたかについての謎解き。フルシチョフ自体もスターリンの下で少なからず粛清に手を貸しており、スターリンの粛清批判は自らにも及ぶ危険があるのに、それをあえてしたのは何故か?非常にドラマチックな展開があったと。NHKスペシャルという番組ができそう。

(引用終り)