三橋貴明氏主宰の三橋TVの昨日の特別編で、自民党城内実議員が登場して、ハンコ廃止を進める菅内閣を批判していた。

城内議員は印章(ハンコ)議員連盟の会長代行を務めているため、ハンコ族議員だとかハンコ利権だとかの謂れのない攻撃を受けているとのこと。

 

突然菅や河野がハンコを目の敵にして、廃止を叫ぶ。婚姻・離婚届まで押印を廃止するという。ハンコ業界は誰でもわかるように小企業のかたまりだから、ハンコの全廃はハンコ屋さんはみんな倒産するだろうが、そういう面への配慮は河野太郎からは全く聞かれない。突然、ハンコが悪の象徴になり、魔女狩りが行われ、それを販売するハンコ屋さんが、そしてその家族が路頭に迷うことになる。

マスコミもいつもは政府批判をしているくせに、なぜかハンコ廃止には大賛成になったようで、喜々として河野の強権振りをほめそやす。

 

三橋氏はこれをルサンチマン・プロパガンダといって非難する。

国民の一部に敵を見つけて、こいつらが悪いんだと煽り、憎悪をその一部集団に向けて、非合理的な感情を煽って、プロパガンダをする側の隠れた意図を知られずに、大きな目的を達成しようとする。

 

私は河野太郎大臣を外交や防衛の大臣としての能力と手腕は高く評価したが、この行政改革、特にハンコ廃止については、全く情けないということにつきる。

 

印章(ハンコ)議員連盟が次のように「要請文」の中で言っている。

「…あまりにも拙速かつ行き過ぎた「脱ハンコ化」の議論が進んでいるため、異議を唱えているのです。内閣府は「不必要な押印を無くす」としているにも関わらず、報道では、「すべての押印を無くす」かのごとく国民に伝えられています。これにより、印章業界の方々は当然のこと、高齢者をはじめデジタル化に対応できない方々にも不安と動揺を与えております。まずは、報道を通じて誤解を訂正し、正しい理解を求めなければなりません。 

 そして、仮にハンコが全廃されたとしても、紙での決裁が残れば、根本的に全く解決しません。紙での決裁や申請書類様式の不統一などの問題を改善しない限り、本来目的としている業務効率化は達成できないのです。デジタル化が進まないのは紙への依存が原因であり、押印ではないということを正しく認識するべきです。 

 また、デジタル化することが目的化していることにも注意しなければなりません。本人確認や意志の担保のため依然として極めて有効な手段であるハンコを廃止した際のコストやリスクは現在全く検証されていないのが現状です。デジタル化によって、国民の利便性の向上、行政における業務の効率化が達成されなければ何も意味がないのです。 

 間違った認識で「脱ハンコ化」が進められて押印に対する国民の信頼が揺らぎ、さらに国民にとって利益がないのであれば、必ず正さなければなりません。」

(引用終り)

 

私も当初は政府や自治体内の業務効率化や意思決定の迅速化を目的として、その一つとしてハンコ押印の削減を河野太郎は主張していると思った。

例えば稟議書で関係部署に印を押させるが、それをハンコからサインにしたって全く意味がない。むしろハンコのほうが効率的だ。だから、稟議書の改善はハンコ廃止でなく、いかに稟議する関係部門を少なくするかが改革なはずなのに、河野はハンコを押すことを廃止したというバカげた結果で偉そうにやったやったと吠えている。

だから、官庁全部門も河野がハンコ廃止と言うからと何でもかんでも廃止すればいいんだろうということになっているようだ。

こういう馬鹿げたこと、ハンコ廃止が目的化してしまうことというバカげたことになり果てたのは河野太郎の責任である。

しかもその手法が魔女狩りというルサンチマン・プロパガンダでやってしまうとは呆れてものがいえない。河野の能力を全く間違った方向で発揮している。しかし、これは河野という政治家の限界と言えるかもしれない。

 

問題は三橋氏のいうルサンチマン・プロパガンダ手法である。

この三橋テレビの冒頭、以下の詩が紹介された。ナチス時代のマルティン・ニーメラーという牧師の詩である。この詩については知らなかった。

米国記者ミルトン・マイヤー著『彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員10人の思想と行動』より。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。
私は社会民主主義ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は労働組合員ではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき。
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。(マルティン・ニーメラー)

 

そして今日の三橋貴明「新世紀のビッグブラザーへ」ブログでも扱われていた。

ニーメラーの他人事のような態度が遂にはナチスを許してしまう。ルサンチマン・プロパガンダを成立させているのでは、というのである。

そしてルサンチマン・プロパガンダの手法を説明する。(図解は省略)

①グローバリズム(など)が、国民の一部に「網掛け」し、既得権益、あるいは「外国の手先」といったレッテルを貼り、攻撃する
②デフレ(など)でルサンチマンに溢れた「その他の国民」が、網掛けされた国民に対し敵対意識を持ち始める

この画像をシェア③網掛けされた「同じ国民」に対する敵対意識を持った多数派の国民は、グローバリズムをむしろ熱狂的に支持する 

④最後には、多数派の国民が、網掛けされた「同じ国民」や、彼らのために発言する「同じ国民」を率先して攻撃し始める

 

要するに、グローバリストや政府等が何かを仕掛けるとき、直接、その目的達成のためにある訴えをするのでなく、ある敵を選びだし、それは恣意的にストーリーが紡ぎ出されるのだが、国民の中のルサンチマン感情をうまく刺激し、国民が国民を攻撃するように仕向ける。

それによってある特定の目的をもった集団(グローバリストや政府等)が、暴力とか強制力を振るうことなく、国民の大いなる支持を背景として目的を達成してしまうのである。

これがルサンチマン・プロパガンダ手法だ。

 

郵便局が突然悪者にされ、郵政民営化改革が正義だと世の中が熱狂したが、これこそは小泉純一郎が総理大臣として用いた典型的なルサンチマン・プロパガンダ手法である。そして郵政民営化に反対する城内実議員はそのために自民党を離党させられ、議員としても落選させられたのだ。

 

この狡猾なルサンチマン・プロパガンダ手法に如何に対抗していくか、について三橋氏はマルティン・ニニーメラーという牧師の詩を持ち出したのである。ルサンチマン・プロパガンダに安易に乗ってしまうととんでもないことになりますよ、と。

 

そのニーメラーの詩の形式を借りて、三橋氏は日本で行われたルサンチマン・プロパガンダの実例を暴き出す。

 

かつて、国鉄が民営化されたとき、私は何も言いませんでした。

国鉄労組は「サヨクの巣窟」と思っていたから。
かつて、土建屋叩きが始まったとき、私は何も言いませんでした。

土建屋はバブルで調子に乗っていると思っていたから。
かつて、農協改革が始まったとき、私は何も言いませんでした。

農協は「既得権益」と思っていたから。
かつて、郵政が民営化されたとき、私は何も言いませんでした。

私は郵便局員ではなかったから。
かつて、公務員が叩かれたとき、私は何も言いませんでした。

公務員は税金泥棒だと確信していたから。
かつて、電力会社が叩かれたとき、私は何も言いませした。

あいつらは「電力利権」べったりで甘えていると思っていたから。
かつて、医師会が叩かれたとき、私は何も言いませんでした。

医者は給料が高すぎると妬んでいたから。
かつて、ハンコ業界が叩かれたとき、私は何も言いませんでした。

ハンコなんて古臭くて、要らないと思っていたから。

かつて、日本学術会議が批判されたとき、私は何も言いませんでした。

ILC(国際リニアコライダー: 次世代直線型衝突加速器)を潰した学術会議の連中が大嫌いだったから。
かつて、中小企業淘汰が始まったとき、少し不安に思いましたが、それでも何も言いませんでした。

自分は大企業に勤めていたから。
そして、ついに私に対する攻撃が始まったとき、私のために声をあげる者は、誰も残っていませんでした。
もちろん、次は、あなたの番ですよ。

 

三橋氏はこのように事例を挙げて、「次は、あなたの番ですよ」と警鐘を鳴らす。貴方の怒っていることは、作られたルサンチマンではないのか、思考停止して操られていいのか、そのまま過ぎていったら、「次は、あなたの番ですよ」と。

 

さて、この実例の中で違和感の覚えるものが一つあった。

それは、「かつて、日本学術会議が批判されたとき、私は何も言いませんでした。」だ。

なんか変な感じだ。つまり、日本学術会議を批判している人達は、作られたルサンチマンで踊らされているのではないのか、という指摘だ。

 

そうだろうか。日本学術会議については私も何回かブログに書いているように、学術会議の特定政治やイデオロギーの巣窟になっているのは確かなのだ。だから日本学術会議を批判している人達は、何らルサンチマンなど持っていない。学者が羨ましいなど一つも思っていない。学術会議批判者はエリートへの妬みで反対などしていない。

それなのに、三橋氏は「かつて、日本学術会議が批判されたとき、私は何も言いませんでした。」と問題にする。学術会議を批判するのに反対らしい。また批判者に対してもプロパガンダに乗せられているのだと言いたいらしい。

 

となると、このニーメラー形式を参考にすることには大きな問題があると言わざるを得ない。

「〇〇が批判されたとき、私は何も言いませんでした」とか「〇〇が叩かれたとき、私は何も言いませんでした」という言い方で、ルサンチマン・プロパガンダかどうかのリトマス試験紙にするにはやや危険が伴うと言えるのだ。

 

三橋氏のこのブログにある方が次のようにコメントしていた。

このニーメラーの詩は共産主義に利用されているという側面のあることを見逃してはいけません。」

と警告し、ニーメラーについて書かれた「しんぶん赤旗」のホームページを示していた。

 

そこには次のように書かれていた。

しんぶん赤旗2006.4

46年1月、ゲッチンゲンでの説教ではニーメラーは次のように語っています

「私には罪がある。なぜなら私は1933年になっても、ヒトラーに投票したし、また正式な裁判なしに多くの共産党員が逮捕され投獄された時にも、沈黙を守っていました。そうです。私は強制収容所においても罪を犯しました。なぜなら、多くの人が火葬場にひきずられて行った時、私は抗議の声をあげませんでした」

 

要は抑圧者又は弱者を装えば、ニーメラーの言葉によって、抑圧者に協力せよ、と強いることが可能となるのである。それは左翼や民主党、人種差別、BLMLGBT等々の強力な武器になるのである。アメリカのトランプ攻撃に効果的に使われている。

 

三橋氏の「次は、あなたの番ですよ」という言葉も、わかるようで、難しい言葉といえる。

昔の全共闘なら必ず言う言葉「ではお前は何をしたというのか」。これで全共闘に批判的なノンポリは沈黙してしまう。

左翼のアイデンティティ政治は説得するより、沈黙させる言葉となり、やがてそれが左翼政治を衰退させた。

だから「次は、あなたの番ですよ」という言葉も、もう少し説明が必要なのである。

私が考えるのは、「次は、あなたの番ですよ」といわれたら、国会にデモに行こうかな、ということではなく、「〇〇が批判されたとき、私は何も言いませんでした」ということが、本当にプロパガンダなのかどうか見極める目をもつための勉強を続けることだと思うのである。