JALは空港や機内で用いられる英語のアナウンスで使用していた「レディース&ジェントルメン」が、性別で区別される敬称であるとして10月1日より使用を止めることに決めたとのこと。

今後は「Attention please All passengers(アテンション・プリーズ、オール・パッセンジャーズ)」や「Good morning everyone(グッド・モーニング・エブリワン)」に変更。性別を前提とした表現を改め、性同一性障害など性的少数者に配慮したためと説明する。

 

ニュースでは、JAL社員が「社内で1年半も議論した結果だ」と説明していたが、そんなことは社員の議論では決められないはずだ。もう大きな流れとして、LGBTQ(性的少数者)に配慮していくという世界的な流れに遅れないように、又は先進的な企業イメージを打ち出すことを目的として、大した議論も検討もなく、単に世界の潮流だからというかなり安易な決定をしたのではないか。

もう今どこの企業でも後ろ指をさされないように、戦々恐々としてダイバーシティ文化を醸成してますよという素振りをしめさないといけないことになっている。

 

因みに、最近は特にLGBT関連だ。ネットをみていたら、LGBTQがついているが、このQって何だろうか。

クエスチョニングのQとのこと。クエスチョニングとは、自分の性別がわからない人や意図的に決めていない人、決まっていない人、模索中である人のことを指すと解説されているが、つまりその他いろいろあるが面倒だからまとめてQと表そうということなのか違うかもしれないが。

カナダでは、LGBTTIQQ2SAというらしい。またLGBTQQIAAPPO2Sというのもあるそうだ。なんだこりゃ。

クイア(Queer)、クエスチョニング (Questioning)、インターセックス (Inter-sex)、アセクシュアル (Asexual)、アライ(Ally)、パンセクシュアル(pansexual)、ポリアモラス(Polyamorous)、オムニセクシュアル(Omnisexual)、トゥー・スピリット(Two Spirit)。

つまり性的少数者に配慮していくとこういう世界を理解せよということになるのである。

 

何故か世界ではこのLGBTQQIAAPPO2Sという性的少数者を理解しないと、差別に無関心で、先進的でないというレッテルを張られてしまうようである。

そこで、JALは「レディース&ジェントルメン」を撤廃することにしたのであろう。

 

こういうアナウンスはカナダは先進的なので既に実施しているが、他の航空会社ではまだ少ないようだ。つまりJALはまさに先進的企業であることを世界に示したのである。

 

恐らく、他の航空会社も付和雷同的に追随するだろう。

何故って、「なんでお宅はまだレディース&ジェントルメンとアナウンスするんですか」と問われた時、答えるのが面倒になってくるからだ。そういうアナウンスを撤廃しないと、性的少数者を理解しない企業とか先進的でない航空会社とレッテルを張られるだろう。そんなことは困るからと、簡単にJALに倣って「レディース&ジェントルメン」を撤廃することにするに違いない。あっという間に「レディース&ジェントルメン」はこの世から消えることだろう。

 

別に私個人としては、飛行機にほとんど乗らないから、「レディース&ジェントルメン」というアナウンスが無くなっても別に構わない。ただ、その撤廃に至る過程が少々気に障るだけだ。

 

このポリコレへの安易な同調、何も考えないで付和雷同する態度、異論をいう用意もないから長いものには巻かれて、面倒を避けたほうがいい、それが大人の態度という姿勢が、世の中を壊していくのである。それが逆に抑圧社会を知らず知らずのうちに作っていくのである。

 

LGBT(性的少数者)に配慮するのは大いに賛成である。しかし、それを世の中の大問題のように騒ぐのはどうなのか。先にも書いたLGBTQLGBTQQIAAPPO2Sにまで拡大されて、マイナーな性的嗜好、それは本人たちの自由だから何ともいう気はないが、理解せよ、何とかしろと国民全員が強迫的に迫られるような問題なのだろうか。

 

このブログでも何回かポリコレについて書いてきたが、昔引用した言葉をもう一度掲げておきたい。

農と島のありんくりんブログから。

「ブログ「農と島のありんくりん」がこの辺のことを的確に書いているので引用しよう。

 

米国では今、行き過ぎたポリティカル・コレクトネスが猛威を奮っています。 これはオバマの政治手法が火をつけたもので、世の中をキレイゴトだけでバサバサと斬っていき、これでなんとなく歴史的に蓄積してきたネガティブな遺産を清算することができると思う発想です 

いかにも弁護士出身のオバマが考えそうなことで、法やそれに準じる規制法を作って、社会にタガをハメていけば「差別がない美しい社会」ができるという考え方です。ある種の設計主義に基づいた社会革命だと思えばいいでしょう。

 メディアやリベラル運動家がいわば思想警察となって、「違反者」をビシビシと取り締まり、社会的に抹殺するのですから、民主主義の仮面をかぶった警察国家の誕生です。 

…結果、このようなポリコレが現実に何を生み出すかといえば、魔女狩り社会であり、言葉狩り運動であり、ノイジー・マイノリティ(声高な少数者)団体が権力を振るう社会です。」

(引用終り)

 

もう一つポリコレについての文を見つけたので長いけど引用したい。御田寺圭という文筆家、ラジオ・パーソナリティーの方のBLOGOSに載っていた「世界中でポリコレが嫌われる最大の理由」という文章だ。

 

この中で面白かったのは、「結論を言ってしまえば「ポリコレ」が嫌われているのではなく「ポリコレファン」が嫌われているのである。」という行(くだり)だ。

「「ポリコレに反すると、ポリコレを篤く信奉する人びとが『正義』と書かれた旗を掲げ、目を血走らせながら押し寄せてくるのが息苦しい」のである。」
だから、逆に言えばポリコレは大いに且つ急速に世の中に拡散するのだが、誰も納得などしていない、心の中では「変だ」と嫌っているのである。だからその抑圧に苛立つのである。これがトランプが支持されている理由でもある。JALの「レディース&ジェントルメン」の撤廃も、人々は表面的には何も文句を言わないが、心の中では安易なJALを軽蔑している可能性が大いにあるといえるのである。

 

20200728

 世界中でポリコレが嫌われる最大の理由

いま、もっともホットな嫌われ者

 いま、世界でもっとも注目を集める社会正義思想が「ポリティカル・コレクトネス(略称:ポリコレ)」である。これはもともとアメリカの公民権運動が初出の概念であるとされるが、現在では女性、子ども、性的・人種的・民族的マイノリティーなど「弱者」とされる人びとに対して、彼・彼女らの心情や尊厳を害しないよう表現や記述に《配慮》を求める思想として理解されている。昨今、アメリカに端を発する「BLM Black Lives Matter)運動」の流れに乗じて「ポリコレ」は勢いを増し、とりわけ世界のエンターテインメント産業はその流れに一気に呼応する形となっている。

現在、アメリカでは、コンテンツ内容や記述が「ポリコレ」に準拠しているかどうかの審査がきわめてナーバスになっている。それだけではなく「人種差別」や「性差別」を想起させるようなものであれば、たとえプロスポーツのチーム名であろうが例外ではなく、「ポリティカル・コレクト」な形に改善が求められている。
 トランプ大統領はこうした流れに対して明確に反対を表明している。世界的な潮流となっている「ポリコレ」に反対しているのは、もはや彼だけのように見える。

しかし実際のところでは、ポリコレ発祥の地アメリカでは、直接口に出すことはなくとも、内心ではポリコレ思想を強く嫌悪している人が8割近くいるという調査も存在している。

本心からポリコレ思想を支持しているのはきわめて少数の進歩的な目覚めた人びとであり、その他大多数は「疲れ果てた多数派(exhausted majority)」なのである。

「疲れ果てた多数派」のほとんどは、ポリコレ文化を嫌っている。全体の80%が「ポリコレはこの国の問題である」と考えている。若い世代の間でも、2429歳の74%24歳未満の79%が、ポリコレ文化には息苦しさを感じている。若年層にかぎらず、ポリコレに目覚めた人びとは、すべての年代で明らかに少数派である。

若さがポリコレ文化支持者であることの指標とはならないのと同じく、人種もそうである。
ポリコレ文化がアメリカの問題であると考えている白人は79%であり、平均よりもわずかに低いだけだ。アジア系では82%、ヒスパニック系では87%、アメリカ先住民では88%、それぞれポリコレ文化に反対する。

The AtlanticAmericans Strongly Dislike PC Culture』(20181010日)より引用 

和訳は御田寺による

 「疲れ果てた多数派」とされる人びとが、声を大にして「アンチ・ポリコレ」をアメリカ社会で表明することはできない。なぜなら、迂闊にそのような言明をすれば「差別主義者」というレッテルによって社会的名誉・仕事を即刻失う「キャンセル・カルチャー」のターゲットとなってしまうためだ。日本では想像しづらいが、アメリカにおける「差別主義者」のレッテルは、一度その身に貼り付けられればすなわち社会的な死を意味するほどに重みがある。

 アメリカほどポリコレへの同調圧力(とポリコレ違反者へのペナルティ)の強くない本邦では、まだまだ自由にポリコレに対する嫌悪感や批判を表明する余地が残されており、「反ポリコレ」の立場を鮮明にしながら議論を展開する論者なども、数は少ないが存在する。

 社会正義に目覚めて、ポリコレを篤く信奉する人びとは「ポリコレに反する人がいる」ことに驚きと怒りを隠せない。彼・彼女たちからすれば、ポリコレ文化はそもそも「よい/わるい」「妥当か否か」といった相対的な批判的検討にかけられるべき概念ではなく、すべての人が無批判・無条件に支持・賛同すべき道徳律であると考えているからだ。

ゆえに「反ポリコレ」とまではいかないまでも「ポリコレに対して諸手をあげて賛同しかねる人」にさえ「お前は差別したい自由を守ろうとしているのか!? この差別主義者!! 野蛮人!!」といった攻撃性を発揮してしまう。「あなたの怒りはただしい」とお墨付きを与えられた時の人間はもっとも峻烈である。
「ポリコレは、これに反対する人のことさえ差別や偏見から守っているというのに、どうして嫌うの? たとえば私たち日本人が差別的に描かれないで済んでいるのは、まぎれもなくポリコレがあるおかげなんだよ?!」

 といった、比較的穏当な主張も日本ではSNSなどでよく見聞きする。しかしながら、これも的外れな主張である。ポリコレが批判されたり、反対されたりすることに我慢ならない人も含め、ポリコレを支持し、これを信奉する人は往々にして大きな勘違いをしている。

 

嫌われているのは「ポリコレファン」

 結論を言ってしまえば「ポリコレ」が嫌われているのではなく「ポリコレファン」が嫌われているのである。
 ポリコレを信奉する人びとはしばしば「ポリコレが嫌われている」「ポリコレが息苦しい」というが、これはあまり正確ではない。より正確には「ポリコレでこの社会の表現や言論すべてを染めようとする人たちが押し寄せてくるのが嫌われている」のである。

「ポリコレに反すると、ポリコレを篤く信奉する人びとが『正義』と書かれた旗を掲げ、目を血走らせながら押し寄せてくるのが息苦しい」のである。

 表現の自由を擁護する人は「ポリコレを嫌う人」と重複していることが多い。しかしそうした人の多くは「ポリコレ文化」を嫌っているのであって「ポリコレ表現」それ自体の存否を問うているわけではない。いうまでもなく、表現そのものは基本的人権として擁護される自由だからだ。

今般「ポリコレが嫌われる」理由のほとんどは、その表現自体ではなく「ポリコレを好み、これを信奉する人びとの異常な押しつけがましさと攻撃性の高さ」にある。

 「ポリコレ文化」は、それを楽しみたい人が集まって楽しめばよいのにもかかわらず、「ポリコレファン」たちがそれを「普遍的スタンダード」にしようと「ポリコレ文化」を好きでもなければ支持しているわけでもない他所に強要することに、ポリコレが嫌われる理由のほとんどすべてが凝縮されているといっても過言ではない。

 

 「ポリコレ文化」に反対を表明する人であっても「ポリコレ表現」自体には賛成するだろう。いうまでもなく、それもまた表現の自由・言論の自由のひとつであるからだ。

問題は「ポリコレファン」である。「ただしさ」を獲得した人間に特有な傲慢さと押しつけがましさが全面に押し出されるからからこそ「ポリコレ」は嫌われる。名曲をたくさん世に送り出すのに、熱心なファンがあまりにも鬱陶しくて敬遠されるミュージシャンのようなものだ。

 ポリコレを支持する人びとは「幅広い視聴者層に受け入れられるようにしたい」「マイノリティーへの偏見を助長しないようにしたい」とった理念を掲げるが、実際は「すべきだ」「していないものは許されない」といった道徳的強要をともなうからこそ、ポリコレは嫌われるのである。ポリコレに「すべきだ」「していないものは許されない」という教条主義的な性質を付与しているのはまぎれもなく「ポリコレファン」たちに他ならない。

 いま「ポリコレ問題」とされる議論のレイヤーは「ポリコレ表現」そのものではなく「ポリコレを押し付ける攻撃的な人びとの行動は是か非か」という、リスクマネジメントのレイヤーである。「ポリコレに反対するとは、この差別主義者め!」と道徳的優位性を保持しながら、ポリコレに従わない人を攻撃する「ポリコレファン」に向けられた議論である。

 「多様性」を求めているはずの人びとが、実は「ポリコレ表現に統一された表現・言論」で普遍化する「単一性」を求めていたり、「寛容性」を熱心に説く人が「ポリコレに恭順しない人や事象」にはきわめて「不寛容」であったりするという矛盾が「ポリコレファン」への嫌悪感、ひいては「ポリコレ嫌い」に拍車をかける。

 

嫌われていた「洋行帰り」たち

 日本が開国し、列強諸外国との往来が盛んとなった明治時代には「洋行者」と言われる人びとがいた。イギリスやフランスといった、当時もっとも先進的とされた国々に留学し、第一線級の知識や文化的教養を身に着けて帰国した日本人のことである。
 彼らは名実ともに日本最先端のインテリ層であり、人びとから多大な尊敬を集めていたと同時に、激しい嫌悪の対象でもあった。彼らは留学先で学んで日本に持ち帰ってきた西洋文明こそがただしく、日本の文化や文明を「劣悪・劣等なもの」として軽蔑・糾弾していたからだ。
 日本の文化や価値観を遅れて劣ったものだと非難し、すぐにでもただしく改変しなければならないと強く主張していた。西洋の文明や知見を急速に取り入れることが国家的急務とされていた時代にありながらも、しかしその「西洋文明ファン(洋行帰り)」たちの見下しや押しつけがましさや自惚れは、人びとの顰蹙を買い、嫌悪されていた。

 現在の「ポリコレファン」にもまったく同じことがいえる。進歩的な西欧の価値観を自分だけで享受するのではなくて、よりすぐれたものとして称揚し、「ポリコレ」におとなしく従わないものを「人権感覚の劣った未開人」「下劣で下品な差別主義者」などと攻撃する。
 オクラホマ州に住む40歳のアメリカ先住民の男性は、参加したフォーカス・グループで次のように話している――

 「毎朝目が覚めると、なにかが変わっているんだ。『ユダヤ人(Jew)』と呼べばいいのか、それとも『ユダヤ系(Jewish)』と? 『黒人(Black)』あるいは『アフリカ系アメリカ人(African-American)』と? まるでいつもつま先立ちで歩いているように怯えている。そのときなにを言うのが正しいのか、まるで分からないからだ。ポリコレはそういう意味で恐ろしい。」

The AtlanticAmericans Strongly Dislike PC Culture』(20181010日)より引用和訳は御田寺による

 

 ――「ポリティカル・コレクトネス」という思想がいくら美しく高尚なものであろうが、その思想を信奉する人びとが鼻つまみ者ばかりでは、その高潔さも台なしというものである。

 まとめに代えて、再三になるが述べておこう。昨今SNS上でも激しい論争が続けられている「ポリコレ問題」とは「ポリコレ表現の是非」の問題ではなく「ポリコレファンの行動様式」の問題なのである。
 ポリコレはあくまで「たくさんあるなかのひとつの表現」として楽しむのであれば、だれも文句は言わないだろう。熱心なファンたちが「ポリコレに適合的でない人・モノ・コト」を発見すると、それをまるで「絶対的悪」のように攻撃するようなことさえしなければ、「ポリコレ問題」はその大部分が解決する。
「嫌われているのはポリコレではなくお前。お前があまりにも嫌われすぎたせいで、ポリコレまで嫌われはじめている」――これが「ポリコレがなぜ嫌われるのか?」という問いの答えである。」

(引用終り)

 

「「ポリコレ問題」とは「ポリコレ表現の是非」の問題ではなく「ポリコレファンの行動様式」の問題なのである。」と御田寺氏は結論付けているが、私はそうは思わない。

「ポリコレ問題」とは、確かに「ポリコレファンの行動様式」の問題である。それは正しい。しかし、それだけではないはずだ。「ポリコレ問題」とは、「ポリコレ」という思想そのものの間違いが問われなければ「ポリコレ問題」は解決しないだろう。

「ポリコレ」という思想そのものの間違いについて、こういうものだとという答えは私にはまだないが、今後多くの思想家や学者が解いてくれるだろうと思っているし、私も考え続けて行きたい。