大相撲7月場所も観客が少ないので盛り上がりに欠けたが、返り入幕の照ノ富士が優勝したのは良かった。意地で耐えてきたのだろう。まだ膝に難があるが、また大関・横綱を狙ってほしい。

しかし、またまた白鵬、鶴竜両横綱の休場は怪我のためとはいえ、大相撲をつまらなくする一因となっている。そのためか、最近は下位力士の優勝が多い。つまり強い関取が休場しているから優勝しても本当の強さとはいえない。横綱・大関が踏ん張らないと相撲人気もじり貧をたどるだろう。

私の応援力士は栃ノ心と照ノ富士だが、栃ノ心も10勝したのでホッとした。もう一度大関を狙ってほしい。

 

さて、場所中に突然阿炎が休場したが、場所前にキャバクラ通いがバレて、錣山親方から怒られて無理やり休場と相成った。

元々阿炎は嫌いだ。相撲がワンパターンで面白くない。長身で手が長いから、立ち会うとすぐその長い両手を突っ張って押すだけ、足はバタバタ。相撲としての美しさが全くない。取り組みも面白くない。相手も長く突き出された手を持て余して、土俵を割る。こんな程度の相撲でもう小結までなってしまった。このままでは上位は望めない。もっと取り口を研究しろよ、といいたい。

 

そんな阿炎がコロナで皆が「不要不急の外出の禁止」の指針を守って大人しくしていたのに、キャバクラ通いとはホントにバカだねえ、と思うしかなかった。

 

場所が終わってから、師匠の錣山親方から引退を迫られていた(又は本人の申し出か?)のか、引退届を出していたのがわかった。

去年は付け人に暴力を振るったことで貴ノ富士が引退しているが、相撲協会の処分はちょっと厳しすぎるようだ。阿炎もキャバクラ通いで引退とは何だかこれも厳しすぎるような。

 

ただ、相撲協会が決めたわけではなく、今日理事会で正式に処分が出たようだ。引退とはならず、条件付きの3場所出場停止と5か月の減俸50%の処分。条件とは、「今後、程度を問わず協会に迷惑をかける行為を行った場合には、預かっている引退届を受理する」「またその事を了承する旨の誓約書を提出すること」「住居を錣山部屋に移し、師匠の直接的な監督下に入ること」とのこと。

監視付きでがんじからめの処分となったが、心を入れ替えて真面目にやればどうということはないはずだ。

 

しかし、阿炎は26歳の大人だがやっていることは子供そのものだ。自身のSNSへの不適切投稿や研修後の「爆睡してました」発言など呆れた行動が多い。最近は大人と言っても実年齢から10から15歳引かないと実情に合わないようで、阿炎は精神年齢は1015歳程度、小中学生程度とみてもおかしくない。精神年齢は小中学生程度でも体は大人だからキャバクラ通いにうつつを抜かす。

 

なぜか。勿論阿炎の性格もあろうが、若くして給料をもらい過ぎなのだ。

十両で年収1200万円以上。あんな十両のチンタラ相撲で年収1200万円とはびっくりだ。小結(阿炎)ともなると年収2100万円だそうだ。大臣の年収が2800万円らしいので、それよりは少ないが、普通の会社の取締役の年俸に匹敵する。

 

要は若いくせに給与をもらい過ぎているのだ。だから、何かに使ってパッとやりたい。キャバクラに行きたい、ということになるのではないか。子供だから給料の使い方を知らないのだ。ホントはしなくてもいいが、錣山親方からすれば、給与の使い方まで指導しないとダメだということになる。

 

 さて、「阿炎のキャバクラ通いを「性的唯幻論」で読み解く」と題を付けたが、そんな大それたことを書くつもりはない。

今、渡部健の女遊び騒動を考えるために、岸田秀「「性的唯幻論」序説 「やられる」セックスはもういらない」(文春文庫)を読んでいるのだが、その中に、阿炎のキャバクラ通いとはこういうことなんだ、と思われる文が出てきたのでそれを紹介したくなったので、そういう題を付けてみた。

 

岸田秀氏は精神分析学者で、ちょっと古いが「ものぐさ精神分析」という本を書いてひところ評判になった。人間は本能の壊れた動物であり、「幻想」や「物語」に従って行動しているに過ぎないと説く「唯幻論」を提唱している。

ネットの解説から。

唯幻論は、動物としての人間の本能が壊れていることを基礎に置きます。他の動物は本能によって生きる目的が定まっていて、その手段もまた本能によって定まっています。しかし岸田秀は、人間は目的のほうはいいにしても、その手段のほうが本能によっては決まっていないというのです。だからこそ、人間には言葉や社会などの「文化」が必要で、岸田秀はそれらをひっくるめて「幻想」と見なします。そして、幻想なくしては生きられない人間の理論的説明を「唯幻論」としてまとめたのです。
 唯幻論では、本能が壊れて生きる手段を幻想に頼っている人間観を前提に据えれば、生命の目的である〈増えること〉のための手段にも幻想があるものと考えます。いわば人間の生殖行為およびその価値観にも性に関する文化(幻想)があるというのです。これを「性的唯幻論」と言います。(後略)」

 

ここは阿炎のキャバクラ通いを説明しているなと思ったのは、第7章239ページのところ。

「…性に関して言えば、壊れて散乱した性本能の諸断片を何とかまとめて種族保存に役立つような性欲を形成するためには性のタブーが必要だったのである。

人間社会における日常性と非日常性との分裂はここに起因する。動物は、性行為においても子育てや攻撃行動においても、本能に基づいて普通のことをしているだけであるが、人間は、堅実で安定した生活を目指して普通のことをする日常性と、日常的には抑圧され、禁止された、普通でないことをすることが許される非日常性とに生活世界を人為的に分けている。

日常性においては性を禁止し、性を特別な非日常的なことにし、そうすることによって、人間にとってセックスを魅力的なものにしたのである。

動物にとってはセックスは「日常性」からの解放ではないが、人間は、退屈でつまらない日常性からの解放を求めてセックスすることもあるということである。

要するに人間は、壊れた性本能の散乱した諸断片(多形倒錯衝動)をかき集め何とかまとめて人為的に正常な性欲なるものを形成したのだが、そううまくは形成できず、この性欲は依然として厄介な要素を含んでいるため、性欲を非日常的な領域に閉じ込め、隔離することによって、日常世界の秩序を保全しようとしたのであった。性のタブーは性的な衝動や行為が日常世界に侵入し、その秩序を乱すのを防ぐのである。」

 

人間は、堅実で安定した生活を目指して普通のことをする日常性と、日常的には抑圧され、禁止された、普通でないことをすることが許される非日常性とに生活世界を人為的に分けて、日常世界の秩序を保全しようとした。そして非日常性のなかで、退屈でつまらない日常性からの解放を求めてセックスするように仕向けたのである。

 

しかし、阿炎は日常性と非日常性の区分けに失敗し、求められる日常性の最中に自分だけ非日常性であるキャバクラ通いによって、自分を解放してしまった。我慢して貯めこんでキャバクラでも何でも発散した方が喜びが大きくなったにも関わらず、我慢しきれずやってしまった。子供なんである。だから、引退まですることはないのである。こういう痛い経験を積んで大人になればいいのである。

 

照ノ富士は怪我が原因だったが、序二段まで落ちて這い上がった。阿炎もかなり下まで落ちるだろうが、腐らずに今のそうなった原因を噛みしめて、まだまだ子供であるということを噛みしめて本当の大人になってほしいのである。そのためには、諸手突っ張りだけでなくちゃんと技も磨いてね。

 

さて、岸田秀「「性的唯幻論」序説「やられる」セックスはもういらない」は、これでもかこれでもかというぐらい嫌らしい話が満載であるが、読んで価値のある本だ。まだ半分しか読んでないが、渡部健を読み解くにはこの本が大いに有効である。なんで多目的トイレでセックスしたのかなどいつか渡部健についても書いてみたいものだ。