ようやく緊急事態宣言も解除となり、各地の観光地は昔の趣を取り戻しつつある。土産物店はまだ休業中が多いようだが、観光地を訪れる日本人は、静かな観光地、中国人のいない落ち着いた観光地を一様に称賛する。観光を満喫できたと。

 

残念だが、今が旅行のチャンスなのだ。また数か月すれば中国人で観光地は混雑し、武漢ウイルスに心配しながらも観光産業は待ってましたとばかりに中国人訪日客を歓迎するのだろう。

日本の観光産業および観光庁には、日本人としての矜持がないのだろうか。中国人観光客が日本の観光地を破壊し、観光公害をまき散らし、国内旅行客を締め出したことに反省はないのだろうか。

今回の新型コロナにより、観光収入への打撃は多大なものがあったが、それが収まってもまだ中国人にしがみつこうとするのか。

 

産業のサプライチェーンが中国に偏り過ぎたとして各企業も反省をして、中国依存からの脱却を今後の方針としている。それと同じように観光庁や観光産業も中国人依存の失敗を改めるべきだという声は上がらないのだろうか。

 

いや、今回の打撃は新型コロナの感染によるもので、これが収まれば中国人訪日客は今後ともいいお客なのだ、とでもいうのだろうか。

中国人はいや中国共産党はそんなに甘くない。日本が中国人観光客に大きく依存しているということを知ったからには、中国共産党は訪日中国人を政治的武器として使うことは当然だ。中国と日本との間には各種の軋轢が存在する。中国が怒って政治的圧力を加えるとき、当然訪日客のストップという制裁を加えるに違いない。

 

そんなとき、日本の観光産業はまたもや困った、困ったと右往左往するのか、そして中国に逆らわないようにと日本政府に陳情するのだろうか。

サプライチェーンの分散と同じように、中国依存は止めて見捨ててきた日本国内の観光客を改めて優遇する方針に早く転換すべきなのである。

 

まずは、観光庁の訪日客目標人数というバカな目標数の設定を廃止すべきだ。これが一番の癌なのである。企業の売上高目標が余りに高すぎれば、無理をしたり、粉飾決算をしたりでろくなことはないのである。もっといいのは、観光庁の格下げだ。観光庁を廃止して、経産省内の観光促進課程度の力のない役所に落とすべきだろう。

 

観光公害について、京大助教で「表現者クライテリオン」編集者川端祐一郎氏が次のように述べている。

 

オーバーツーリズム(観光公害)論に不足している視点――資本主義と民主主義の対立

川端祐一郎

最近、ここ数年で議論が増えてきた「観光公害」「オーバーツーリズム」の事例を調べていたのですが、これは「交通機関の混雑」や「外国人旅行客のマナーの悪さ」といったミクロな問題というよりも、「資本主義が市民の生活権を侵害していく現象」として捉えたほうがいい面があるからです。

欧米でも日本でも、オーバーツーリズムの議論が高まったのは「違法民泊」問題がきっかけで、時期はだいたい2015年から2017年頃です。そもそも違法営業であること自体が問題ですが、…そしてやっかいなのは、各国の不動産業界が「普通の賃貸住宅を民泊に変えたほうが儲かる」と気づいたことでした。これは当然の話ではあります。例えば1泊数千円程度の宿泊料であったとしても、月に10泊も取れれば家賃収入を上回ったりします。そこで、旺盛な観光需要を背景に、「賃貸住宅から住民を追い出して、観光客向けの宿泊ビジネスで稼いでやろう」という発想になるわけですね。

分かりやす例としては、まず観光地の賃貸住宅を外資が買い占め、契約更新のタイミングで家賃を大幅に引き上げて住民を追い出します。

(中略)

そしてこれと並行して生じるのが、地域の「観光モノカルチャー化」です。モノカルチャーは「単一産業」「単一産品」という意味ですが、要するに、不動産業のみならず、地域の飲食店や小売店も観光客を意識した品揃えとサービスに特化していくので、住民にとっては買い物が不便になると当時に、街が「自分たちのものではなくなっていく」「観光客に奪われていく」という不満が蓄積されていきます。 

佐瀧剛弘氏の『観光公害』という本が紹介しているバルセロナの例では、

「週末はバルセロナ郊外の老舗のカフェでお茶を飲むのが楽しみだったが、最近は席に座るとスペイン語ではなく英語のメニューを渡されることが増え、疎外感を覚える」

という市民の声がありました。

これは日本、とりわけ京都などで最近生じている問題とほとんど同じですね。ヨーロッパの反観光デモの報道をみていると、プラカードには「This isnt tourism. Its an invasion!」(これはもう観光じゃない、侵略だ!)というものもあり、言葉は過激ですが、気持ちは分かります。
 

「観光公害」というのは従来、観光需要が過密化することから生じる混雑や環境破壊など、いわゆる「外部不経済」の問題として論じられてきました。また、最近は観光客のマナー違反や迷惑行為が目立つと言われますが、これも、広い意味での混雑に付随した現象と言えるでしょう。そして、観光や交通の研究者の多くが、旅行需要の分散化やインフラの増強・最適化方法を議論してきましたし、マナー啓発の取り組みが進められてもいます。

もちろん、それはそれで必要なことです。しかし、民泊問題に象徴されるように、(とりわけ地域外から流入する)資本が地域の生活環境を顧みずに「観光ビジネス」に特化した投資を行って、住民の生活上の権利が侵害されてしまうという構造に、もっと焦点を当てるべきではないでしょうか。これは今後、IRの開発をめぐっても繰り返されるであろう問題です。

もちろん観光依存度の高い地域では、観光ビジネスと地域住民の利害が一致する部分は比較的大きいと思います。しかし、先ほどの村山氏も指摘していますが、京都のような大都市というのは、製造業や(観光以外の)サービス業が地域経済の中心です。にもかかわらず「文化・観光都市として成長する」という自己規定を強く持ち過ぎ、観光産業を優遇する政策を採ったり必要な規制を行わなかったりすると、住民が置き去りにされてしまう面があるのです。

ヨーロッパではさすがに観光投資に対する規制強化が進み始めました。ところが日本政府は、

「我が国において…(オーバーツーリズムが)広く発生するには至っていない」(観光庁『持続可能な観光先進国に向けて』2019年)

との認識のようで、心許ないですね。

まぁたしかに、まだマシな方だとは言えるのでしょう。国連・世界観光機関のアンケートでも、日本人の不満はスペインや韓国などに比べると随分低い結果にはなっていますし、欧州のような住民デモに至っているわけでもありません。

しかし今後、地域住民の不満を軽くみて根本的な対策を打たなかった場合、深刻な問題が生じると思います。例えば、外国人観光客への嫌悪感が蓄積されていく中で大規模な自然災害が起きたりすると、取り返しのつかない悲劇が起きるかも知れません。

2019年になって「観光公害」に関する本が日本でいくつも出版されており、海外でもオーバーツーリズムをめぐる学術論文などが増えてきました。せっかく議論が高まっているのですから、今後は、観光問題の半面が「資本主義vs民主主義」の対立であることを強く意識しておくべきだと思います。(資本主義も民主主義も、どちらも有用な仕組みではありますが、過剰であっては困るのです。)

オーバーツーリズムや観光公害は、半分は都市工学的なマネジメントの問題でしょうが、もう半分はグローバル資本主義の横暴と、生活の場を奪われた庶民の怒りという文脈で語られるべき問題なのです。

(引用終り)

 

ヨーロッパの反観光デモのプラカードの「This isnt tourism. Its an invasion!」(これはもう観光じゃない、侵略だ!)というのは、全くその通りだと思う。

しかし、川端氏が「オーバーツーリズムや観光公害は、…もう半分はグローバル資本主義の横暴と、生活の場を奪われた庶民の怒りという文脈で語られるべき問題なのです。」とコラムを終えているが、私は「庶民の怒り」よりも「地域の「観光モノカルチャー化」」のほうを問題にすべきだと思うのである。

 

「モノカルチャー化」と言って思い出すのは、植民地や後進国で単一の産品や産業に依存させられた経済のことだ。

早大客員教授の藤末健三氏は「産業モノカルチャーの恐怖」という文の中で、「最近は聞かないが、私は子供の頃に「モノカルチャー経済」という言葉を習った。例えば、サトウキビやコーヒー豆など特定の農産物への経済的依存が大きい状態を指す。その状況でそれら農産物の市況が悪化すれば、とたんに国の経済自体が危うくなるというわけだ。」と書いている。

 

また、ウィキペディアによると、

「モノカルチャーの農業形態は、植民地化された土地で、支配国で需要の高い農作物を集中的に生産させた事が始まりである。例えば、オランダ領東インド(現在のインドネシア)における商品作物の強制栽培制度が挙げられる。これにより、支配国は効率良く、支配国が欲する農作物を得ることができた。代表的な作物にサトウキビ、天然ゴム、紅茶の茶葉、カカオ、コーヒー豆などがある。多くは主食たりえないものであり、農地は商品作物の栽培工場と化し、現地住民は商品生産の労働力として経済の中に組み込まれて食糧の自給能力を失った。これが飢餓の発生原因の1つともなった。

また、特定の産業に力を入れたために、それ以外の産業が発達しなかった。多くの旧植民地は独立後、様々な産業を発達させる努力をしているものの、そのために必要な資金を得るために植民地時代の輸出品に頼らないといけない国もあり、モノカルチャーへの依存から脱却できていないことが多い。」

 

日本の観光地、特に京都などはこのウィキペディアの説明にあるような「観光のモノカルチャー化」に陥ってしまっている。これは観光庁が旗を振った(安倍政権のアベノミクス失敗の糊塗)観光立国推進の頃から特に進んだようである。

 

そのため、モノカルチャー経済に化したアフリカ等の後進諸国と同じように、コロナ禍が発生すれば、地域経済が大打撃を受けるという、「地域経済の脆弱化」が進行したのである。

それは中国依存、中国という宗主国依存に成り下がったのだが、そうさせたのは中国ではなく、アベノミクス失敗のツケを払わせようとする安倍政権に責任があるのである。

 

今から「観光のモノカルチャー化」からの脱却はかなり困難と思えるが、少なくとも中国訪日客から国内観光客への転換は可能なはずである。

コロナ禍を契機にぜひとも各地の観光産業責任者は考え直すべきであろう。