企業人で読書家といわれる人はそう多くはないが、最近では元伊藤忠商事社長の丹羽宇一郎やライフネット生命会長の出口治明が有名だ。丹羽は「死ぬほど読書」やリーダー論その他、出口は「哲学と宗教全史」や「全世界史」など歴史書が多い。

丹羽は中国大使をやって中国べったりだし、本の中身もスカスカだから問題にならない。出口は古典や歴史書を学者以上に読み込んでいるようで、最近は分厚い歴史書を書いて、書店に平積みされている。

 

出口の読書量と記憶力には驚嘆するが、その中身はといえば首を傾げざるをえない。といってもまともに読んだことが無い。(12冊しか読んでない)立ち読みしても面白くないからである。買う気や図書館で借りる気も起きないのだ。

 

最近注目しているのは倉山満氏だが、倉山氏の書く歴史は独自の切り口により、発見に継ぐ発見で、引き込まれることおびただしい。

最近は「真実の世界史講義 中世編」「ウエストファリア体制」「国際法で読み解く戦後史の真実」「明治天皇の世界史」「大間違いの織田信長」等立て続けに読んでいるが、どれも引き込まれ、読書の愉しみを教えてくれる。

 

出口にはそんなものが何も感じられない。ただ事実を羅列している。出口の解釈が何も出てこないのである。主張がないから面白くないのである。「哲学と宗教全史」などは分厚くて大著なのだが、おそらくは退屈で50ページも進まないだろう。

出口は丹羽と同じく企業人だから、リーダーシップや働き方について色々発言しているが、これまた人の胸を打たないんだ。これについては、昔(5年ほど前に)「ネコ虎紳士の徒然ブログ」というブログを書いていた時の記事があるので、再掲したい。

 

そうそう、今日はなんで出口治明のことを書き始めたかというと、最近出口が読売新聞の人生相談欄の回答者をやっていて、いつもいい加減にお茶を濁す回答にイラついていたのだが、今日の人生相談の回答も相当適当な書き方なので、出口治明にもう一度ついて書こうと思い立ったのであった。

 

今日の人生相談は、90代のおばあさんからの「ご近所から差し入れ 困惑」という相談だ。

「90代の女性。近所のご主人が食べ物を持ってくるので困っています。

 いつの頃からか、年に3、4回、箱入りの和菓子を持ってくるようになりました。私に手渡すと、ご自身の人さし指を口にあてて、逃げるように帰ってしまいます。東京の百貨店の包装で、大きなものではありませんが、何か聞こうとしてもニヤニヤするばかりなのです。

 最初のうちは好意を持ってくれているのだろうと思っていましたが、同居している娘一家は誰も食べなくなり、私が新聞紙に包んで捨てています。その日は一日中、気分が悪いです。お返しはしないつもりでしたが、娘はそれなりの品物を買って、名字を書き、あちらのお宅のポストに入れているとのことでした。ご近所のことなので、本当に困ってしまいます。どうしたらいいでしょうか。ご意見を聞かせてくださいませ。(神奈川・E子)」

 

出口治明

「達筆で、とても読みやすいお手紙を拝見しました。90代を迎えられたとのことですが、これほどの字が書けて、お元気でしっかりしておられる。うらやましいくらいです。

 ご近所の方が持ってくるのは、東京のきちんとした店の和菓子とのこと。僕なら甘いものが大好きですから喜んでいただいてしまうと思いますが、あなたとご家族は嫌なのですね。

物を持ってくるのはご近所付き合いのあいさつであり、ご好意の表れでしょう。娘さんはお返しをされているとのことですから、はた目から見ればごく普通の近所付き合いをされていると思います。

 でもお嫌なら、「90代になって、あまり食べられなくなりました」と、はっきりお伝えされてはいかがですか。あなたはお元気でおられますが、年齢を区切りに、いろいろなことをやめるのはよくあることです。僕も古希で年賀状をやめ、フェイスブックでのあいさつに切り替えました。

 「私はもう食べられないし、娘夫婦も甘いものはそれほど食べない。お気持ちはありがたいのですが、もうこれからは結構です」と、はっきり申し上げればいいと思います。どうぞこれからもお元気でお過ごしください。」

 

こんな当り障りのない適当な回答に、この悩むおばあさんは納得するでしょうか。「そんなことはわかっています。それができないから相談してるんじゃありませんか。もう結構です!」と怒っていることでしょう。

 

そう、出口は72歳にもなっていながら、読書は人一倍して、古代から現代までの世界も日本も歴史を十分知っていながら、世間的な経験を一つもして来なかったようです。おばあさんの悩みなど全く理解しようとしない。哲学書にはこういう場面は出てこないからでしょうかねえ。

出口治明という男の信用できないところはこういうところなんです。本の経験を否定するわけじゃない。ただ、本を大量に読んで学んだ人間ならではからにじみ出てくるものを何か感じさせないのはどういうことなのか、ということです。

 

私にもこのおばあさんと同様な経験が10年ほど前にありました。引っ越し直後に、近所のおじさん、おばさんが親しみを込めて、話しかけてきて、そのご何度もみやげ物や食べ物を頻繁に持ってくるのです。その都度お返しはしていたのですが、度を越すようになったので、お断りをしました。

 

さあ、それからが大変です。もう怒り狂って私たち家族の悪口を触れ回りました。そして、嫌がらせ。

町内会の会長になれ、と強要するのです。そのおっさんは町内会長でもないのに、街のボスだったのですね。その町の新人住民が町内会長なんておかしいのです。それはいじめの手段のようでした。町のしきたりを何も知らない新米住民を町内会長に仕立て上げ、町内の会議でつるし上げようという魂胆だったと思いました。

それで、私は決然として、町内会を脱退し、「村八分」扱いになる前に、2年で引っ越しをしたのです。

 

さあ、このおばあさん、出口治明氏の回答通りに、「私はもう食べられないし、娘夫婦も甘いものはそれほど食べない。お気持ちはありがたいのですが、もうこれからは結構です」と、はっきり申し上げたら、それで無事解決するものでしょうか。

 

そんな簡単なものではないでしょう。もしかすれば、すんなりと理解してくれるかもしれません。でも下手をすれば私のように厄介なことになるかもしれません。

もう90代になって、ご近所のことで悩みたくない。静かに余生を過ごしたいのですよね、おばあさんは。もう少し真剣になったらどうですか、出口さん。

僕も古希で年賀状をやめ、フェイスブックでのあいさつに切り替えました。」

 

バカじゃないですか。日本生命やライフネット生命の会長をした人から、もう年賀状を止めます、と言われて、怒ったり、不愉快になったりする人がいるはずないでしょう。そんな例はこのおばあさんにとって、何の参考にもならないことなんですよ。深い教養はどこにいったんですか。

 

さて、なんでおばあさんは、近所の爺さんからものをもらうのが億劫になったのでしょうか。

「最初のうちは好意を持ってくれているのだろうと思っていましたが、同居している娘一家は誰も食べなくなり、私が新聞紙に包んで捨てています。その日は一日中、気分が悪いです。」

 

90代のおばあさんへのストーカー行為がいやなんだ、という訳でもないでしょう。90代でもかわいいおばあさんがいますから、ご近所爺さんもストーカーしているかもしれませんが。

それより、贈与には負い目が伴い、返礼が強要(無意識的にも)される(義務化)から、その重圧が耐えられなくて、「その日は一日中、気分が悪い」状態になるのではないでしょうか。

それはモース「贈与論」で説明されるところのものです

 

モースが分析した贈与行為は、次の3つの特色をもっていました。①贈り物を与える義務、②贈り物を受ける義務、③お返しの義務、です。これらが繰り返しループされるのです。

 

「モースは次のように書いている。「考えうるおよそいかなる社会でも、一定期間をおいて果たす義務を課すのは,贈与の本性に由来する。…贈与の風習においては,ポトラッチだけではなく,どれもお返しが前提になっている。僕らはお返しされるものと確信しながら贈与するのだ。

ポリネシアのマオリ族なら「お返し」をしない不届き者にはハウが死の罰を与えるから「お返し」は義務として強制されるのだ。ポトラッチの場合も,お返しをしないと他の部族の者たちから噸笑われ面白を失うことになるので,ここでもお返しは義務として生じる。」

「モースはポトラッチが無私無欲のものだとは言わない。どんなに馬鹿げた消費を行っても,この贈与の儀礼を行う者たちは地位や権力を求めているからである。だから,破壊や消費は「装い」に過ぎない。重要なのは,地位や権力の獲得だからだ。」(明治大学岩野卓司)

 

なんでそんなシチメンドクサイことをと思うが、贈与とお返しは歴史的文化的にもう強固に埋め込まれているですね。この近所の爺さんも、90代のおばあさんに向けて贈与することで、返礼の義務を強要している。それは地位や権力の衒示的行為だと思われるのです。90代の女性に無理やりしなくてもいいのに。

 

松岡正剛氏が言っています。

「諸君ももう少し、かつての日本の社会文化を彩ってきた贈答文化の例を知ったほうがいいだろう。たんに贈るだけなのではない。日本人はそこに気持ちをこめた。過剰になりすぎないようにも努めた。」

 

松岡先生は、贈る方にも「過剰になりすぎないようにも努めた」日本文化があったのだと言っています。

ということは、この近所の爺さんは正しい日本の贈答文化のルールを知らなかったということになります。だから余計に厄介であり、おばあさんが悩んでしまっているのです。

 

出口氏もモースの「贈与論」は当然読んでいるでしょう。(すいません、私は読んでませんが。)

もし読んでいるなら、そういう教養からこの爺さんやおばあさんの贈与、返礼問題を解いてあげるべきだったのです。そうすれば、新聞読者もまた納得感を高めて、自分なりによく考えてみようということになるのだと思います。

 

出口氏の回答は、そういうヒントもなにもなく、ダラダラと書かれたもので、教養の一片も感じられない。出口氏のこれまでの人生相談の回答はみんなそんな感じの、言葉はやさしいが、中身が薄っぺらの、出口氏の著作のような薄っぺらなものになっているのです。出口さんはそういうことに気付いているのでしょうか。それとも読書と執筆が忙しくて、人生相談など真面目にやってられるか、てことでしょうかねえ。

 

さて、5年前に書いたブログ記事「出口治明氏の教養の程度」を再掲します。

 

20151029

出口治明氏の教養の程度

 出口治明とはライフネット生命会長だが、最近読書家としても有名となり、いくつもの本を書き、テレビ番組等インタビューで読むことの楽しさについて発言している。トップビジネスマンとしてはかなりの読書家といえる。

日経の日曜読書欄でよく経営者の読む本などが紹介されるが、その選定本によって、この経営者はどの程度のものか探ることができる。つまり、偉そうにしていても、こんな程度の本しか読んでいないのか、と。経営者側もそれを見越して、文句の言われない古典の書を感銘を受けた本などと紹介している。ホントかもしれないし誤魔化しかもしれない。

就活の学生が面接で、あなたの尊敬する人物はと聞かれて、両親と答えるようなものだ。面接官からすれば、あんたの親なんて知らねえよということだが、それが就活学生からすれば、知らないから文句つけられねえだろうというのが目的なんだからしようがない。経営者の古典本選定も同じようなもの。古典の本はそうそう読まれていないから、ボロがでないというものだ。

 さて、出口治明氏の読書量と広さはハンパないようだ。ネットインタビューで出口氏が若手サラリーマンにビジネス書として薦めるのは、中国の古典『貞観政要』と『宋名臣言行録』。そして歴史を読む上で、必読の2冊として、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』とイマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム』を挙げる。また、感銘を受けた本として、ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』を挙げている。

 私も『貞観政要』や『想像の共同体』は知ってはいるけど、読了まではしていない。ましてや、ウォーラーステイン『近代世界システム』やユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』って何、といったところか。出口氏は、ウォーラーステイン『近代世界システム』を30代で読んで感銘を受けたというから余程優秀なんだろう。

 そういう経験を生かして、読書家としての本をいくつも書いているようだ。「仕事に効く教養としての世界史」とか「本の「使い方」1万冊を血肉にした方法」等。といっても私はそれらを1冊も読んでいないけど。最近では「人生を面白くする 本物の教養」という本を幻冬舎新書から出していて、売れ行きがいいらしい。読書週間だからか、昨日の読売新聞では「本物の教養」の大きな広告が出ていたっけ。

 ということで、早速書店に立ち読みに言った。(著者には申し訳ないが、この歳で買って読む本ではない。若いビジネスマン向けだろうから)
ネットでの書評を紹介する。

本書のなかで著者は、教養とは何か、どうすれば身につくのかを、実例を交えながら説明しています。シェイクスピアを読んでいたことで仕事がもらえたという著者の体験、世界の相場に疎かった幕府が、金を大量に流出させた話(貨幣博物館に行くと、深刻さがよくわかります)、日本財団のCMのおかしさを指摘した連合王国の友人の話など、エピソードを交えながら、教養があるとどんなに得をするか、ないとどんなに損をするかを語っており、教養の大切さを痛感させられます。

「著者が身をもって体得した教養の原理原則を平易な見解で展開しています。項目ごとの見解は賛否両論ありそうですが、自分の頭で改めて考える良い機会になり、今後広く関心を持ち考えることを習慣にしたいと感じました。
著者曰く教養とは、「人生におけるワクワクすること、面白いことや、楽しいことを増やすためのツール」で、自分の頭で考えられ、腑に落ちる感覚が大切と説いています。
以下私が注目した項目です。
・学生が勉強しないのは会社がそれを求めないから(思わず納得しました)
・世界標準では日本の企業幹部は圧倒的に低学歴(初めて知りました)
・政府を批判することは市民の重要な権利(当事者意識が重要)
・新しい分野を勉強するときは分厚い本から入る(次回実践したいです)
・世代間の不公平をなくす方法はあるのか?(真剣に考えたいテーマです)

・あくまでも「歴史は一つ」である(初めて知った解釈です)
・地球温暖化は人類の英知が問われる課題(京都議定書を詳しく知りたくなりました)」

(引用終り)

 好意的な感想が多いが、若いビジネスマン向けに書いたからから、なるほどと思う人も多いのだろう。しかし、私の感想は全く反対。こんな本、書かない方がよかったのではと思ったのであった。だって「本物の教養」なんて大げさな書名を付けて恥ずかしく思わなかったのか。いくら書名の命名権は出版社にあるにしてもね。


 というのは、これまで古典を読んできた、そして古典を大いに読もうと進めている割に、この本に出口氏の「教養」が全く感じられないんだ。

となるとウォーラーステイン『近代世界システム』やユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』に感銘したというのも、ホントかねと疑いたくもなってくるんだ。
 
本の冒頭で、もう「出羽守」は止めようと言っていた。西洋では、〇〇ではという「出羽守」だ。全くその通り、だと思ったら、その後の展開は次から次へと「出羽守」のオンパレード。

 

欧米のエリートは素晴らしいが、日本の企業幹部は教養がない。中国の官僚は素晴らしいが、日本はだめ。民主主義の教育は、スウェーデンでは、日本はだめ。

「出羽守」は止めようじゃなかったのかねえ。出口さんに「本物の教養」があったなら、中国の官僚は素晴らしいが、日本はだめ、ではなくて、中国の官僚はあんなに頭がいいのに、なぜ国としてあんなにデタラメになってしまうのかと問いかけるのが「本物の教養」ではないんですか。

 その後、日本の社会や政治、国際政治等についてコメントを続けていくが、日本をダメにした終身雇用等の日本的経営批判、消費税増税賛成、中給付を受けたければ、税等の中負担も等々、領土紛争はバカバカしい、中国とは仲良くしようとか。
 こんな程度の評論は、左翼新聞に書いてあることそのまま。知恵も深みも全く感じられない。1万冊の教養はどこにいったのか。

 これらから感じるのは、出口氏は国家観のないグローバリストで、新自由主義者らしき人物であるということだ。経済・財政については、一定見もない素人ではないか。これでも読書家といえるのか。ちょっと頑張って本を読めば、財政健全化論のおかしさに気付くはず。

そして、最後に「地球温暖化は人類の英知が問われる課題」として、地球温暖化批判論は陰謀論と切り捨てる。ということは、地球温暖化批判論の書物を一冊も読んでいないか、読んでも理解力がない、あるいは偏見が先走って理解できなかったことの証明じゃなかろうか。

 出口氏に「本物の教養」が全くないことがばれてしまった。それよりも悲惨なことは、古典なんかいくら読んでも、週34冊読んでも1万冊読んでも、バカはバカであるということが証明されたということだ。

 出口治明氏に教養が感じられないのは、発する言葉に深さが感じられないこと、考えさせるヒントを出してくれないこと、ただただ「浅い」のだ。

しかも日本の歴史や文化に言及がされない、日本人のくせに日本のことを誇りに思っていないようなのだ。こんなおっさん、もう私は読書家です、なんて言わない方が身のためだ。老醜をさらしてはみっともないだけだ。
 といっても私は「古典」を否定するわけじゃない。「古典」を読んだらエリートになれる、と勘違いしないようにと言いたいだけだ。若いビジネスマンはこんな低レベルの本を読む暇があったなら、長谷川三千子先生の本を読んだほうが余程教養が身に付くというものだ。