適菜収という評論家は、昔は「日本をダメにしたB層の研究」とか呉智英との対談本「愚民文明の暴走」など面白い本を書いていた時期もあったが、最近はふつうのおっさんのように「アベガー」ばかりで全く鋭さも面白さもなくなってしまった。

 

最近またアベ降ろしのツイートをして話題になっているようだ。

 

適菜収のツイート

「「安倍さんを降ろして、その先はどうするんだあ!」という安倍信者みたいなのがいた。チンパンジーがトラックを運転していたら、とりあえず止めるのが先でしょう。バカなんですかね??」

 

「この文章がボットで定期的に流れると、必ず湧いてくるのがネトウヨの「国の運営は急には止められない。空白になる。無責任だ」というテンプレ。総理大臣をやめさせた後の規定は憲法に書いてあるのにね。バカは底なし。」

 

「絡んでくるネトウヨのどのコメントを見ても、内容はほぼ同じ。安倍以外は、チンパンジーよりダメだと。思考回路も似てくるんですかね。」

(引用終り)

 

私も安倍晋三を評価していないから、安倍批判があっても何も文句はないのだけれど、適菜収のその文句の付け方のレベルが余りにもひどいと、その文句に文句がつけたくなる。

 

適菜収がそこらの老人かラサール石井のような老芸人ならともかく、一応は名の売れた評論家ではないか。やはり文言にそれなりの質が問われるというものだ。

 

チンパンジーがトラックを運転していたら、とりあえず止めるのが先でしょう。」というが、確かにトラックを止めたいが、代わりに乗り込む運転手がハイエナだとどうするのか。

 

どんな運転手でもいいんだ、暴走トラックをまず止めることが大事なんだと言いたいのだろうけど、誰も思うことは次に乗り込んだ運転手が、より暴走させたらどうするのかということ。

 その悪例は日本の民主党政権時代の悪夢があり、お隣韓国ではパククネというチンパンジーを降ろしたら、文在寅というハイエナが乗り込んできて、韓国というトラックを大暴走させている。日本人はみんなそれを心配しているのだろう。

 

だから問題は誰が運転手となるかが問題であり、ヒトラーや毛沢東ならいざ知らず、チンパンジーが運転しているかどうかは二義的な問題になるのである。

つまり交代する運転手が暴走を止めて正しい運転をしてくれるという信用を与えてくれないと困るのである。

 

次の適菜収のツイート。

「この文章がボットで定期的に流れると、必ず湧いてくるのがネトウヨの「国の運営は急には止められない。空白になる。無責任だ」というテンプレ。」

「絡んでくるネトウヨのどのコメントを見ても、内容はほぼ同じ。安倍以外は、チンパンジーよりダメだと。思考回路も似てくるんですかね。」

について。

 

最初に「この文章がボットで定期的に流れると」の「ボット」とは何なのかよくわからないので、ネットでみると、

「ボット(BOT)とは、コンピュータを外部から遠隔操作するためのコンピュータウイルスです。ボットに感染したコンピュータは、ボットネットワークの一部として動作するようになります。そして、インターネットを通じて、悪意のあるハッカーが、常駐しているボットにより感染したコンピュータを遠隔操作します。外部から自由に操るという動作から、このような常駐型の遠隔操作ソフトウェアのことをロボット(Robot)をもじってボット(BOT)と呼んでいます。」

とある。

 

適菜収に悪意ある人間が適菜のツイートを叩くために仲間にばら撒くというようなことか。

「必ず湧いてくるのがネトウヨの「国の運営は急には止められない。空白になる。無責任だ」というテンプレ」とネトウヨをバカにしているが、確かに「国の運営は急には止められない。空白になる。無責任だ」という反応になる。私も基本的にはそう思っているから。

 

しかし、「テンプレ」とは、ネトウヨが何も考えずに無批判で自動反応してしまうことを揶揄しての言葉だが、そもそも適菜収のツイート自体が「安倍辞めろ」の「テンプレ」になっているのではないか。

 

「絡んでくるネトウヨのどのコメントを見ても、内容はほぼ同じ。」と同様に左翼の安倍辞めろ合唱はいつも誰もが内容は同じじゃないのか。つまりは適菜収もネトウヨも同じことをやっているといえないのか。適菜収が評論家で飯を食っている分、左翼テンプレでは情けないと言えないのか。

「バカは底なし」とは適菜収にも当てはまっていると思うんだが。

 

なんで適菜収はこんなバカげたツイートをするんだろうか。

つまり適菜収の問いかけの仕方が間違っており、哲学者苫野一徳氏に言わせれば、問いの立て方を間違えた「ニセ問題」なのだといえよう。

 

まずは下手なたとえ話から間違っているし、それへの反論も想定しているのだが、反論に対する反論もまた陳腐な言説でしかないという評論家らしからぬ問いかけに堕してしまっているのだ。

 

それはデモ隊の先頭で声を枯らして「安倍辞めろ」を叫んでいるアジテーターの言説だ。評論家の言葉とは到底思えない。まさに堕落した哀れな評論家の姿がここにある。

 

苫野一徳氏は「はじめての哲学的思考」という本の中で、

「相手をいい負かすための議論術は、僕はこれをひどくむなしい、正直言って哲学の名に値しない論法だと考えている。何度も言うように、哲学は本来、相手をいい負かすためのものではなく、「共通了解を見出し合うためのものであるはずだから。」

と書いている。

つまり、哲学だけでなく、適菜収のような政治や社会の評論家も同様に、議論に勝つためでなく「共通了解」を見出し合うための問いかけや言説の提示をしなくてはいけないのではないか、と思うのである。

 

従って「チンパンジーがトラックを運転していたら、とりあえず止めるのが先でしょう。」という問い方は、「チンパンジーを引きずり降ろせ」といっているだけの「ニセ問題」なのであり、右翼左翼に関わらず、「共通了解」を見出し合うための問いかけになるように問いの立て方を変えないといけないのだ。

 

ネトウヨの「国の運営は急には止められない。空白になる。無責任だ」をテンプレと適菜収はバカにするが、ここで問題になっているのは、運転手の質である。

だからここでは、運転手をまず替えるということではなく、「どんな運転手が国家というトラック運転に相応しいのか」というふうに問題を設定すれば、共通了解を見出すための議論に発展していくのではないか。

そうすれば韓国の文在寅のような革命政権を求めることには、少なくともならないのではと思うし、安倍政権を何が何でも擁護するということにはならないと思うのである。

 

そしてそのような建設的な議論が進めば、野党がバカみたいな政局オンリーで政策を全く無視しして、テレビ受けの行動ばかりしてはいられないと反省するのではないかと思うのである。まあ無いものねだりではあるけれど。