最近は「働き方改革」と「生産性の向上」がセットで議論されている。

「働き方改革」のほうは、表向きはゆったりとした仕事を目指す労働者の方を向いた施策のようでいて、実は時間外勤務削減、給与削除に他ならないことはもうバレバレであるが、その働き方改革のための「生産性の向上」となるともう一つよくわからなくなる。

 

「生産性の向上」は、賃金アップのための必要条件なのだが、その中身は論ずる人によって違ったことをいっている。つまり、定義や概念が明確でないということだ。

 

「生産性の向上」を主張する論者としては、「新・観光立国論」や「新・生産性立国論」の著者デービッド・アトキンソンや三橋貴明氏その他数多くいるが、少し前になるがネットの書評サイトで、日本を余りに卑下するアトキンソンの「新・所得倍増論」について、多くの読者が手放しで称賛するのが面白くないので、次のようにコメントした。

 

「投資詐欺セミナーを聞いているような感じ。掲げる数字は事実でも、その評価と意味づけは恣意的で嘘とデタラメに満ちている。嘘とデタラメで騙すことができると思っているらしい。サッチャーを例に「これだけ一生懸命働いて、先進国最下位の生産性と言われて悔しくないですか」だって。まさに詐欺師の口調」と辛口コメントをした。

 

このアトキンソン、「生産性をあげる努力をすれば日本病から脱却できる」とかしきりに「生産性向上」を語るのだが、その意味が今一つはっきりしない。

なので、先の書評には

(アトキンソンは)GDP=人口×生産性だけで日本のダメさを証明しようとするが、まあ騙される方も悪いが生産性の定義を説明しない。ある時は人口、ある時は就業者と七つの顔を持つ多羅尾伴内じゃあるまいし。だからギリシャより生産性が低くなる。日本の経済成長は様々な要因で出来ているのに人口ボーナスだけで説明するのは、そもそも将来を悲観させるためのテクニックだ。

と続けて書いたのだった。

 

すると、アトキンソン本人から返信がきて、

「定義をしないというのは、あまりにもその定義が一般常識だから、定義をする必要がないからです。デタラメに感じるのは残念ですが、その定義さえ知らないのに、その理屈に付いて行けないのは仕方ないでしょう。」

と書いてきた。つまり、あくまでも生産性の定義をしようとしないのである。何故か逃げるのである。

 

そこでそれに返信。

「「定義をする必要がない」なんてずるいこと言わないでください。生産性概念はプロと素人ではイメージするものがかなり違うのは明らかですし、プロつまり経済学者ですら論争があるところです。そういう一番肝心なことを「一般常識」なんぞといって逃げるのは怠慢でしかありません。怠慢でなく、誤魔化し。人に何かを伝えたいと言う気があるならキチンと定義して議論するのがマナーでしょう。「そんなことも知らないのか」とバカにしたいのですか。」

 

これには返しがなかったが、「あまりにもその定義が一般常識だから、定義をする必要がない」というアトキンソンの説明は全く嘘なのである。みんな定義というかその言葉のイメージが人によって異なるので議論がかみ合わなくなるのである。

 

因みに「労働生産性の定義式は、GDPを労働者数で除します。労働者数一定とすれば、GDP増加で労働生産性上昇。逆に、GDP一定とすれば、労働者数減少で労働生産性が上昇します。」(大塚耕平参院議員)

 

その証拠が国会の論議だ。民民党の大塚耕平参院議員が紹介している。

頭の体操をしてみましょう。例えば、スーパーのレジ係の入力スピードが倍になると労働生産性は倍になります。しかし、それでスーパーの売り上げが増えるわけではありません。スーパーの立地や営業戦略、品揃えや広告等が奏功しないと、売り上げは増えません。

昨年の予算委員会でこのことを総理に質したところ、秘書官に耳打ちされて「レジ打ちが早くなれば列に並んでいる人をより多く処理できる」という珍答弁。

レジ打ちが早くなっても、列に並んでいる人の数(つまり売上げ)は増えないのです。このレジ打ち論争は話題になりました。」

 

国会の審議ですら、生産性向上の概念は混乱しているのです。アトキンソンが言うような「定義をしないというのは、あまりにもその定義が一般常識だから、定義をする必要がないからです」ではなく、一般常識になっていないので、はっきり定義又は整理する必要があるのです。

 

予算委員会での論議、レジ打ちが早くなったら、やはり生産性は向上するのです。しかし、それは一面の説明にしかなっていないというべきなのです。別の考え方もあるのです。というよりこのレジ打ちの生産性の向上では経済は成長していかないのです。

 

働き方改革における「生産性の向上」は、レジ打ちにおける生産性の向上と同じです。

先日テレ東「ガイアの夜明け」で定食チェーン大戸屋の残業時間の削減に取り組む様子が紹介されたのですが、社長による店長への頑張り指示がブラック企業そのものだと批判が多く集まったようです。

 

時代が変わったものです。昔なら、オーナー社長の店長への厳しい指示によって建て直っていく姿は感動ものとして称賛されたものでした。

 

【ガイアの夜明け】

「大戸屋」特集で社長の説教シーンが放送され「密着に見せかけた告発回」と話題に 

1211日(水) (キャリコネニュースより)

視聴者が抱いた印象は?

『ガイアの夜明け』(テレビ東京 1210日放送)が、定食チェーン「大戸屋」に密着し、ネット上で話題となった。残業時間の削減に取り組む様子を紹介したが、「密着に見せかけた告発回」「むしろブラックイメージを植え付けた」といった感想が相次いだ。

大戸屋の山本匡哉社長は全国の店長が集まる「店主会」で、100時間近くに及ぶ残業時間をとがめ、「(残業削減に)本気になってる?いや目が死んでるんだけど」などと店長ひとり一人を問い詰めていた。

飲食業は人手不足を店長が補うことが多く、長時間残業が常態化。今年4月から始まった大企業の残業規制で残業時間は原則45時間以内に規制され、業界では大きな課題となっている。

「空回りなんだって努力が。このままじゃお店なくなるよ?」と詰められる店主。番組で紹介されたのは東京都内の3店舗で、40代の店長たち。

(中略)

ツイッターで特に注目を集めたのが3人目の43歳の店長だ。

もともと「残業で自分が倒れては意味がない」という残業否定派で、人手不足は単発バイトを雇えるサービス「タイミー」を利用し解消できると考えていた。

ところが、単発バイトは店長が1から毎回同じことを教えなくてはならず、却って余計な仕事やコストが増えてしまうという落とし穴があった。その結果、残業が80時間を超えてしまい、山本社長に呼び出され説教されるはめに。

「店に活気があると自信持てる?」

「空回りなんだって努力が。このままじゃお店なくなるよ?」

「今まで頑張っていようが店主を降ろすしかないよ」

ガンガン指摘された店長は、神妙な表情で説教を聞き「それは嫌です」と決意表明していた。

そこで山本社長指揮のもと取り組んだのが、朝2時間かけていた「仕込み時間の短縮」だ。「さつまいもを揚げている間に豚汁を終わらせる」など、山本社長は極限まで作業を効率化する指示を出し、結果、半分の1時間に短縮できた。

これにネット上では、「怖いよ…作業の時短強要は気持ちを追い詰める結果になりやすい」など、心配や批判的な声が多数上がっている。

これで残業時間が短縮できたとして、得をするのは人件費を削減できる企業のみで、労働者は疲弊し収入が減るのでは……という心配がよぎってしまう。残業時間が削減できた、めでたしめでたしのように終わったが…

それでも様々な努力の結果、残業は削減され、山本社長は「社員たちも苦しんでいますが、それをみんなで乗り越えた時に人という部分で成長できて、企業として強くなっていける」と語った。

これに対してネット上では、バイトから叩き上げでのぼり詰めた社長が、まだ社員の熱意に甘えて精神論や根性論を説いていると捉えた人が多かった。「そうじゃないでしょ。本部主導で統一して変えないと」といった批判が続出している。

とはいえ、すべて現場まかせというわけではなく、時給アップに応えたり、店舗で切っていた肉をカット肉にしたり、支援員を派遣するなど、本部も何もしていないわけではない。店主たちは、残業削減によって本屋に立ち寄る余裕や、子どもと遊ぶ時間、犬の散歩をする時間ができるなど、それぞれ良い結果もあり、めでたしめでたしの様相で番組は終わっている。

ただ、山本社長は「頑張ったら給料が減ったという仕組みには絶対ならない。そこは安心してください」と語っていたものの、具体的にどうするか明言はなかった。確実な昇給や賞与アップなどを聞いて安心したかった、と考えたのは、筆者だけではないだろう。

(引用終り)

 

これは経済における生産性の向上ではなく、経営における生産性の向上です。大戸屋の件もそれなりに重要なのですが、その限界に社長が気づかないことに視聴者が苛立っているのだと思います。

 

歴史を紐解くと分かります。マルクスは資本論の中で資本主義の発展の原理として、「絶対的剰余価値から相対的剰余価値」へと利潤の増大の仕組みを分析しています。

つまり利潤、剰余価値をどこから生み出すか、ということです。

 

絶対的剰余価値とは、単純に労働時間を増やすことです。つまり、なるべく長時間働かせようとします。あるいは人間の肉体最大限働かせて、働かせることです。

しかし、働かせすぎて、病気になって仕事ができなくなってしまっては困るので、絶対的剰余価値の追求には限界があるのです。ではどうするか。

人間は一定程度の時間しか働けないし、一定程度の強度の仕事しか出来ないという前提で、更に剰余価値を得られるようにするためにどうするのか、です。

 

レジ打ちが早くなったら、やはり生産性は向上するのですが、それには限界があることから、絶対的剰余価値の追及の範疇でしょう。極限まで作業を効率化する指示を出す大戸屋の社長の考える生産性の向上もやはり限界があるので、絶対的剰余価値の追及の範疇です。

 

相対的剰余価値はネットでは

「労働力そのものの価値を下げることです。労働者の賃金は、生活費によって決まっています。どのようにして労働力の価値を下げるのでしょうか。それは生産力を向上させることによって、実現されます。生産力を向上させ、生活手段を構成する商品が安くなれば、生活費が安くなり、労働力も安くなるのです。」

と説明されています。

 

しかしこれではこれから説明したい生産性の向上がこの中に入ってしまっているので、説明したことになりませんし、何だか賃金を下げることだけが相対的剰余価値を得る手段のようになってしまいます。

しかし、低賃金化では資本主義経済の永続的発展は保証出来ないでしょうし、すぐに行き詰ってしまいます。

 

もっと分かりやすく相対的剰余価値を説明するなら、普通の労働者が普通に働いて(チンタラしていいということではありません)それでも、今まで以上の価値を生み出すことです。

 

その具体的イメージは工場生産又は農業生産に見いだすことができると思います。

特に農業の生産性の向上と言ってみて下さい。生産性の向上が何を意味するかすぐにわかるでしょう。

100年前の日本の農業と比べてもいいし、アメリカの農業と比べてもいい。

そこにあるのは肉体的労働としての生産性の向上ではなく、機械、工具、肥料、品種改良等々の進展です。これらが相まって初めて農業の生産性の向上は達成されたわけです。

こんなことは小学生でもわかる例ではないでしょうか。そしてこれが生産性の向上の本質なのだと思います。

 

工場生産も同じことでしょうね。しかし、なぜ働き方改革でも大戸屋でもこういう発想はしないのでしょうか。

 

サラリーマンの生産性の向上というと、何か専門知識を学ぶとか資格を取るとかITに強くなるとかワンパターンです。大戸屋もそうです。それは、サービス業種であり、工場や農業のような生産性の向上が難しく、労働集約的な仕事だからです。そのために、企業幹部はというと、働き方改革、生産性の向上をせよと言われると、肉体労働の強化のような絶対的剰余価値的な発想に陥るのです。絶対的剰余価値は限界があるから相対的剰余価値を考え出さねばならなかったのです。

 

だから日本もそういう方向で考えて働き方改革をしないといけない。じゃあどうするのか、といわれても私は今定年退職して職についていないからよくわかりません。

しかし、「絶対的剰余価値から相対的剰余価値」へと転換できたから、資本主義が発展したんだと捉えれば、無駄な仕事をさせることはなくなるはずだと思っています。大事なのは、考え方、考える方向です。これを間違えてはいい結果は生まれません。

 

そして賃金を下げるのではなく、生産性の向上のための投資をすることです。この投資が経済を成長させ、結果的に賃金アップにつながるのだと思います。

三橋貴明氏の生産性の向上はこういうことをやるべきだと言っているのだと思います。

それが少子化の日本でも経済成長できる道なんだと。

 

そして、大戸屋への視聴者の批判は当たっているのです。効率を限界まで追及するのもいいが、それだけではだめだということをまず社長が率先して考えて、店長と相談することです。それが一番の働き方改革のはずです。