ノーベル賞には余り興味がない。日本人が貰わないより貰った方がいいには違いないが、湯川博士や朝永振一郎博士が受賞したときのような感動はもうない。

 

また、ノーベル経済学賞や平和賞のような偏った受賞者が多く輩出されるようになってからは、ノーベル賞の権威はかなり低下した。

そもそも経済学賞や平和賞は、本来のノーベル賞そのものではないのであるが、押し掛け女房みたいに権威だけちゃっかりいただいたのがこの二つの「ノーベル」賞だ。

 

だから、平和賞は特に政治的に偏っていて胡散臭いし、日本の左翼プロパガンダの手段である新語・流行語大賞のようなものに成り果てている。

また、経済学賞はいわゆるシカゴ学派の主流派経済学しか世界で認められないから、先進的な例えばMMTのランダル・レイなどの異端又は反主流派経済学は絶対にノーベル経済学賞の受賞はありえない。

そういう経済学共同体内部で褒め合う賞など何の価値もない。

 

最近はそういうことがわかってきたからノーベル賞の権威も薄れてしまった。本来のノーベル賞でないものが、本家のノーベル賞を汚してしまったのだ。

 

さて、明日はスウェーデンで恒例の受賞者講演が行われるとのこと。ノーベル化学賞吉野彰氏は何度も環境問題についてのメッセージを発信したいと述べている。

 

文藝春秋のインタビュー記事に吉野氏の環境問題に対する考えが述べられていたので、これを参考にしつつ、偏見混じりでいつもの勝手な推測をしてみる。

 

その推測を簡単にいえば、

「技術進歩の環境問題への果たす役割は非常に大きいこと、とグレタのような若い人々が地球環境に関心を持って活動していることが地球の未来の希望である」

とこんな感じか。

 

もしこの二つ程度なら何の感慨もわかないし、まあノーベル賞といったってこの程度かと思う程度である。もし、地球温暖化CO2説を批判し、科学の僭越さを鋭く突いて、環境問題を通常の観点を批判的に問題にするなら、私(と同様な考えの人々及びトランプ)は関心するだろうが、世間はそんなトンデモを許さないし、吉野氏の見解はそこまで先鋭的ではない。

 

(文藝春秋のインタビュー記事)

1972年に旭化成に入社して以来、環境問題は私にとって大きなテーマの1つです。当時の環境問題と言えば水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などを引き起こした「公害問題」でした。「公害問題」と最近の「環境問題」は、一見似ているようで、中身はまるで違います。公害問題では、被害者と加害者を区別することができました。有害物質を垂れ流す企業と、その被害を受けて苦しむ市民という構図が明確だったのです。ところが「環境問題」と捉えると、被害者と加害者をはっきり分けられません。私たちは消費者、あるいは企業人として地球環境に悪影響を及ぼすと同時に、その報いも受けるからです。私たちは被害者であり、加害者でもある。」

 

これは納得できる見解です。「私たちは被害者であり、加害者でもある」という発想は大事です。

 

「私が、こういう問題を意識するようになったのは、十数年前に「サステナブル(sustainable)」という言葉を耳にしてからです。「持続可能な」と訳されますが、最初は何のことかよくわかりませんでした。しかし、この言葉は「地球環境を汚さず、資源も過剰に使わず、豊かな生活を維持できる」といった意味で、非常に重要な考え方を表しています。サステナブルな社会を築くことは、今日の中心的な課題です。」

 

これも納得できます。しかし、具体的な話になると首を傾げることが出始めます。

 

私は近い将来登場すると予想されている無人電気自動車が、この課題の解決に大いに貢献するだろうと考えています。無人電気自動車とは、AI技術をベースとした自動運転機能によりドライバーなしで走り回る電気自動車のことです。私はこれをAIEVArtificial Intelligence Electric Vehicle)と呼んでいます。

 すぐに思いつくAIEVの利点は、ゼロ・エミッション、すなわち二酸化炭素を排出しないことでしょう。しかしそれだけではありません。

 今、ITの世界では、各種のサービスがクラウドという形で提供されています。昔は重いソフトウェアも、データも自分のパソコンに入れて使っていました。しかし今では、クラウド上のソフトウェアやデータに直接アクセスして使うのが一般的です。今や多くの人が音楽データを自分のプレイヤーに入れずに、クラウドから逐次ダウンロードしながら再生して楽しんでいます。高速通信網が普及したからこそ可能になったシステムです。

 同じように、将来の自動車もネットワーク化され、みんなで共有できるものになるでしょう。いつでもどこでもAIEVが迎えに来てくれる定額サービスが普及すれば、車を自分で所有するニーズも減るでしょう。マイカーが減れば地球環境への負荷、交通渋滞、交通事故も減らすことができます。

 

「「地球環境を汚さず、資源も過剰に使わず、豊かな生活を維持できる」といった意味で、非常に重要な考え方を表すサステナブルな社会」は、無人電気自動車が作ってくれるとは、何だか拍子抜け。

イーロン・マスクのテスラの宣伝かはたまた無人電気自動車を開発しているメーカーが泣いて喜ぶご託宣です。

地球温暖化CO2説は当然のこととして、CO2排出をしないようにするにはどうするかと吉野氏は考えているようです。地球温暖化CO2説が正しいのか否かという根本問題を科学者として検証しないのでしょうか。

 

また、環境負荷について、エントロピーの概念なんか全く考えていないようですから、「マイカーが減れば地球環境への負荷、交通渋滞、交通事故も減らす」と小中学生の自由研究のようなことを言っています。もう少し広い視野はないのでしょうか。

問題のエネルギー政策についは次のように既存の枠から一歩も出ようとしません。

 

「さらにAIEVは「人」だけでなく「電気」を運ぶこともできます。AIEVを「巨大な蓄電システム」として社会インフラに組みこみ、電力需給バランスの安定に活用するのです。太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギーでの発電量は、天候など自然条件に左右されます。晴天で強風なら、使い切れないほど電気が発生しますが、雨天で無風なら電気が足りなくなる。

 既存の電力に対して再生可能エネルギーの割合を増やすには、電気が余っているときに充電できて、足りないときに放電できる蓄電池が欠かせません。だからといって電気を貯めるためにコスト負担の大きい蓄電池を一般家庭の一軒一軒に設置するのはあまり得策とは言えません。

インターネットにつながったAIEVが、あらかじめ蓄電しておいた電気を、必要な場所で、必要なときに配分する。その方が効率的です。車と電池と社会システムが一体化すれば、電気が足りなくなることも余ることもありません。発電所をたくさん作る必要もなくなります。

過去にIT革命が起こったように、エネルギー分野でも革命が起こるでしょう。私はそれをET(エネルギー・テクノロジー)革命と呼んでいます。」

 

再生可能エネルギーを最初から「良きもの」として扱っています。

再生可能エネルギーの弱点である天候など自然条件に左右される点は、吉野氏の専門である安価な蓄電池が解決するんだと。

安価な蓄電池がそんなに簡単に出来るもんでしょうか。ノーベル賞学者ならなんでも正しいご託宣ができるのでしょうか。悪しき科学技術礼賛になりかねないんじゃありませんか。

 

しかも太陽光発電や風力発電が起こす公害問題、環境破壊は視野に入ってきません。

環境問題を解決する結論は、AIEVと安価な蓄電池の開発にかかっているのだと。

それって、錬金術ですね。へぇーと言うしかありません。

リサイクルもそうですがエネルギーも自然エネルギーに関われば関わるほどムダ使い、つまり資源のムダ使いになるのです。経済計算はほとんど無視しますから。

 

「環境問題へ対処しなければならないと誰しもわかっていますが、なかなか本腰を入れられません。その理由は大きく2つあります。1つは、利便性が損なわれること。環境問題の解決策の多くは、人々に我慢を強います。しかし、今より不便になるのは嫌なものです。もう1つは、経済性です。環境に優しくてもコストがかかることはしたくないわけです。

 環境問題の解決に貢献して、利便性も向上し、なおかつ低コストを実現する技術があれば、誰も文句を言いません。その点、AIEVはこの困難を一挙に解決しうる方策だと思います。」

 

技術開発と低コスト化が環境問題を解決するんだということのようです

そんな程度で環境問題は解決するんでしょうか。もしそれが本当なら、地球の未来は明るいのですが、そんな程度のことで本当にいいのでしょうか。グレタはあと20年もすれば地球は滅亡すると言っているのですが。

 

吉野氏が恐らく言及するだろうことのもう一つはグレタのことです。

グレタもスウェーデン生まれですから、ノーベル賞の国スウェーデンでグレタを褒めてヨイショすればスウェーデン国民は大喜びでしょう。

そして、こういう若い人々が世界的に活動していることが、地球の未来の希望に繋がるとかなんとか言うはずです。

(勝手な想像ですから、そんなこと言わないかもしれませんが)

NHKも世界各国も国連もグレタを礼賛しているのです。

でも若者がグレタのように勉強もせずに、毎日デモをやっていたら、学力は低下し、技術進歩はできなくなるでしょうに。

 

是非吉野さんにはこう言ってほしいものです。

「グレタよ、今はデモより勉強した方がいい」

とね。