沢尻エリカが合成麻薬MDMAを所持したとして逮捕されたが、使用した証拠は見つからず、下手すれば微罪で済む可能性も出てきた。

 沢尻も調子に乗って10年前からやっていたなどとペラペラしゃべってしまったようだが、見つかったMDMAも「私のものじゃない」と取りあえずしらばっくれていればよいものを。といって沢尻の味方をするつもりは全くないんだけれど。

 

もう逮捕されたというだけでCM取り消し、ドラマ降板その他で賠償額は10億円にも上るというから、それだけ活躍していたことの証明にはなるが、なんだか勿体ないことをしたものだ。

 

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は今後どうするかが話題になっているが、そもそも最近のNHK大河ドラマは視聴率が低迷して、何をやってもだめという状況なんだから、この際これをきっかけに大河ドラマは終了という判断だってあると思うがねえ。

 

しかし、炎上商法そのもので、どっちにしても珍しもの見たさに、今回の大河ドラマ、最初の数回は高い視聴率間違いなしだ。

 

今日のフジテレビ「とくダネ!」では、NHK大河ドラマについて、小倉と古市がやり取りをしたようだ。

小倉智昭キャスターは、「そのまま出してもいいと思う」と話した。

コメンテーターで社会学者の古市憲寿氏は「NHKは国民をバカにしていると思うんです。沢尻さんが今回大河ドラマに出て悪影響を感じる国民だとか、これで薬物OKだと思う国民はたぶん、ほとんどいないと思う。

ほとんどいない人にケアしているってすごい無駄だなと思ってある種、国民をバカにしているからじゃぁ出すのをやめておきましょうっていう論法に見えてしまって、すごい無駄な事をお金をかけてやっているんじゃないかなって見えちゃう」と持論を展開していた。」(スポーツ報知)

 

古市はいつものように、斜に構えた訳の分からないことを言っている。

沢尻さんが今回大河ドラマに出て悪影響を感じる国民だとか、これで薬物OKだと思う国民はたぶん、ほとんどいないと思う。」

この言い分は確かにその通りだと思うが、それがなんで沢尻の出演するドラマを取りやめることが「NHKがほとんどいない人にケアしている」ということになるのかサッパリわからない。

別にNHKは薬物使用者を出演させると国民が薬物OKだと思う国民が出てくると困るから、出演を取り止めにしようと思っている訳ではない。

つまり「ケア」なんぞ何もNHKは考えていない。普通に考えれば、犯罪者を平気でドラマ出演させれば、企業としての倫理観又は社会的責任を問われると考えてのことだろう。

 

だから「国民をバカにしているからじゃぁ出すのをやめておきましょうっていう論法」なんてNHKは使っていない。それを古市は勝手に解釈してNHKを責めているだけだが、これは社会学者としての判断なのだろうか。社会学ってのは余程いい加減なものにちがいない。

 

もう一度大河ドラマを撮り直すことに古市は小倉と同様反対しているのであって、だから「すごい無駄な事をお金をかけてやっているんじゃないか」と言って、無駄遣いは止めてそのまま放映せよと言っているのだが、小倉と同じことを言うのになんとバカげた論法を使うことよ。古市もバカでしかない。

 

別に私はNHKに味方なんぞしていない。NHKは我々から税金もどきの受信料をたくさん徴収して、1兆円近くも貯めこんで、反日番組や地球温暖化詐欺の支援番組を作っているトンデモナイテレビ局なんだから、今回の騒動に同情は一つも湧いてこない。さあどうするか、高みの見物である。

単に古市の下らない論法が気に入らなかったから、コメントを書いたまでである。

 

それにしても、ここには作品と犯罪は別だ、作品に罪はないといった論法で、沢尻エリカ出演のドラマや映画を何とか上映してあげたい、お蔵入りにしたくないという気持ちが表れている。

 

その論理には一理あるのである。殺人犯又は犯罪者の芸術作品は、殺人犯だからといって否定されなければならないのかという問題だ。

 

連続ピストル射殺事件で4人も殺した犯人永山則夫は死刑になったが、獄中で手記「無知の涙」や小説「木橋(きはし)」を書き、新日本文学賞を受賞している。

また、イタリアのルネサンス後期の画家として有名なカラバッジョは、30代のとき乱闘で若者を殺しているが、それにより作品の評価が減ぜられることはない。

 

こういう過去の事例をみると、作品に罪はない、というのはよく理解できる。しかし、犯罪で逮捕された直後から、「作品に罪はない」というのはいかがなものか。

 

また、橋下徹が薬物犯罪を「誰にも迷惑を掛けていない」と沢尻を擁護する発言をしたが、木村太郎がすかさずドラマや映画製作者に多大な迷惑をかけているではないか、と反論していたが、木村太郎の反論も少しずれているように思われる。

橋下徹は、薬物を直接摂取しても、その薬物自体で困るのは摂取者本人だけではないか、と言いたかった。ドラマ関係者に薬物自体の迷惑は掛かっていない、迷惑はその後発覚して以後の付随的なものだから。

 

しかし、「誰にも迷惑を掛けていない」から罪に問うのはそろそろ止めたらどうかという論理もまたおかしい。

一番いい例は、泥棒が捕まった時、被害者に盗んだ金を返したら、金も元に戻って、「誰にも迷惑を掛けていない」のだから、泥棒の罪は許される、とでも言うのだろうか。

 

「誰にも迷惑を掛けていない」ことでも、法律に触れれば、罪であることになるのである。弁護士の橋下徹にこんな簡単なことがわからないのだろうか。

最近の不起訴が多いのは、恐らく示談によることが多いから不起訴になると思われるが、これこそ示談になれば「誰にも迷惑を掛けていない」ということの行き過ぎの例ではないのか。示談が蔓延れば法律は要らなくなってしまう。それは法治国家の崩壊につながるのではないのか。

 

ちょっと脱線したが、犯罪で逮捕された直後から、「作品に罪はない」というのはいかがなものか、というのが私の言いたいことである。

つまり、社会に影響力ある者への社会的制裁は必要であり、「作品に罪はない」ということを認めるにしても、犯罪直後は社会的制裁のほうが優先されるべきなのである。

そうでなければ、芸能人の薬物への抑止効果は全く無くなってしまうに違いない。薬物使用がばれれば、一瞬にして制裁を加えられるということが抑止効果となる。

 

しかし、「作品に罪はない」のだから、ある一定時間経過後は、作品は作品として認められていいのではないか。

 

社会的制裁を見越して自らを罰する例としては、高校野球の部員の不祥事が挙げられる。部員が不祥事を起こせば、甲子園出場を辞退しなければならない。他の選手に罪はないといっても許されない。それが社会的制裁というものである。そしてそこに抑制効果がある。

 

さて、何ら犯罪行為を犯したわけでもないのに、だから社会的制裁を自ら課す必要もないのに、単に臆病と言うだけで制裁を自ら課してしまった間抜けな例がある。

杉田水脈氏のLGBTがらみの生産性論文で、言論自由な日本のはずなのにひどいバッシングを加え、臆病な新潮社の社長は新潮45を廃刊までしてしまった。

沢尻エリカとの関連で言えば、NHKが大河ドラマを終了してしまったようなものだ。

 

しかし、沢尻と杉田水脈氏の違いは、沢尻エリカは薬物所持で犯罪者として逮捕されているが、杉田水脈氏は言論が自由な日本で、自分の考えを表明しただけである。その主張に反対してもかまわないが、なんら犯罪行為でもないのに、新潮社社長は雑誌を廃刊にしてしまった。左翼からの攻撃が余程怖かったのだろう。言論弾圧に屈したのである。

 

「作品に罪はない」と主張するなら、せめて新潮45に罪はないといってほしいものだ。誤解があるといけないが、杉田水脈氏には罪など全くないのである。罪がないのに、罪があるかの如く雑誌が罰せられたのである。

今さらいっても詮無いことかもしれないが、「作品に罪はない」という言葉を聞くたびに新潮45の廃刊を思い出すのである。