愛知トリエンナーレを反日・反天皇活動の場にしたことは大成功だったようで、今後全国美術館は、売春婦像や昭和天皇棄損写真を展示せよという左翼の要求には、断るのにかなりのエネルギーが必要となることだろう。

 検閲ということもさることながら、芸術とは何かということを常に問われることになるからだ。

よく知らないが、日本のアニメーター、漫画家である貞本義行という人が次のようにツイートしている。

 

キッタネー少女像。
天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。
かの国のプロパガンダ風習
まるパク!
現代アートに求められる
面白さ!美しさ!
驚き!心地よさ!知的刺激性
が皆無で低俗なウンザリしかない
ドクメンタや瀬戸内芸術祭みたいに育つのを期待してたんだがなぁ…残念でかんわ

 

このツイートにブログ「戦後体制の超克」氏は次のようにコメントしていました。(今は編集されてありませんが)

「その通りです!!

パヨク連中は、アートによる自己表現と、政治的メッセージの発信をはき違えています!

観る人に何らかの政治的メッセージを伝えることに固執するあまり、アート本来の「面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!知的刺激性」が欠如してしまっているのです!」

 

と書かれていたが、納得感があり、概ね賛成するものの、ちょっと違うのでは、と思った。

というのは、この売春婦像は芸術でないという声を聞いて、すぐ思ったのはマルセル・デュシャンの「泉」事件のことであった。

津田その他の左翼がこういうガラクタを展示しても堂々としていられるのは、マルセル・デュシャンの「泉」事件を知っているからだと思われるつまり芸術とは何か、という素人ではなかなか判断のつかない問題。

 

 

 

 

現代アートの父ともいわれているデュシャンによる作品、男性用小便器に「泉」と名付けたものを、1917年ニューヨークで開催された独立芸術家協会の展覧会に出品を予定していた。この展覧会では、手数料さえ払えば誰でも作品を出品できたにも関わらず、「泉」は委員会から展示を拒否。その後、作品はアルフレッド・スティーグリッツの画廊「291」で展示されたという。

そして、前衛芸術の美術史家であり理論家であるピーター・バーガーにより、20世紀の前衛美術の最も主要なランドマーク作品とみなされているとのことだ。

 

デュシャンの「泉」事件について、ネットでの解説を掲げる。

 

「彫刻家の大黒貴之です。

現代アートって、わからないという言葉をよく聞きますが、歴史や作品背景を知ればこのアートジャンルも面白いんですよ。ということで今日は、現代アートの父ともいわれているマルセル・デュシャンのお話をしますね。

その便器は「泉」と名付けられた

かつてマルセル・デュシャンという芸術家がいました。今からさかのぼること、100年前の1917年、ニューヨークのアンデパンダン展という誰でも参加できる公募展が開催されました。

デュシャンは、男性便器にR.MATTという架空人物のサインをしてその公募展に匿名で応募しました。

しかし「なんじゃこりゃ!こんなもんはアートじゃないっっ!」と審査員たちから罵倒され誰でも参加できるはずのこの公募展に出品を拒否されました。

その後、その作品は行方不明になり、今、美術館で見ることができる便器の作品つまり「泉」はレプリカです。

で、この「泉」がなんで、現代アートの世界で最重要作品の1つに位置づけられているのかというと、この作品はアート作品の観方、或いは考え方を変えたと言われているからです。

男性便器は、通常では用をたすのに使われるものです。ですので、本来はアート作品でもなんでもありません。しかし、デュシャンはその便器にサインをして美術館に展示されたらどうなるのか?という問いを突き付けたわけです。
(ちなみに「泉」というタイトルは フランスの新古典主義の画家ドミニク・アングルの「泉」からヒントを得ていると言われています)

鑑賞者の頭の中で作品が完成する

便器を見てもただの便器。しかし、便器にサインされたものが美術館という権威のある場所に展示されたとき、果たしてそれは便器なのか?それともアート作品なのか?

デュシャンの「泉」を前にしたとき鑑賞者は、頭の中にたくさんの??が点灯するはずです。「なんでこの便器がアートなの?」と。

しかし、その過程で彼の考えを知ったとき頭の中でハッと何かに気づくわけです。

つまり「アート作品は目前にある美しい絵画」という概念から、「その作品を起点にして、鑑賞者の頭の中で完成するのがアート作品だ」というコペルニクス的転回が起こったわけです。

 

この「泉」騒動は、時を経て「便器事件」と呼ばれるようになりました。デュシャンの考えはコンセプチュアル・アートへとつながる原動力にもなり、その後の作家たちに多大な影響を与え続けています。

しかし逆説的に言えば、100年経った今でも現代アート界はこのデュシャン的呪縛から逃れられずにいるのです。

・・・・・」(引用終り)

 

マルセル・デュシャンは言う。

「わたしの便器は、趣味という問題を試験するという考えから生まれた。つまり、全く好かれそうもないものを選ぶということだった。

便器を素晴らしいと思う人は、およそ、いないだろう。つまり危険なのは「芸術(アート)」という言葉なのだ。「芸術」といえば、本当は、なんだって芸術を思わせることができるのだ。それで、レディ・メイドとして選択されるオブジェのポイントは、私にとって視覚的に魅力的でないオブジェを選ぶことでした。選択するオブジェ対象は、「見かけ」が私にとって無関心であることでした。」

 

ネットでのデュシャン「泉」の作品解説。

「…デュシャンは本来であれば有用であるものを選んだ。その代表が日常的品物だった。日常的品物で本来は有用である便器をとりあげ、新しい題名「泉」と新しい視点のもとで、本来の意味を消え去るように展示した。

「便器を日常の文脈から引き離して、芸術という文脈にそれを持ち込んで作品化したこと」が重要である。この考え方は、シュルレアリスムのコラージュやポップ・アートと同じものとおもえばよい。

 

「泉」はまた、美術の作者は美術家ではなく鑑賞者であることを提示した。本来「美術の作者は美術家」であり、そして鑑賞者は美術家の意図を理解するというのが常識的な見方だった。  

そういった美術の古典的なルールに疑問をもったデュシャンは、大量生産された何の思想もメッセージも込められていない便器を美術展に投入。すると本来何もメッセージも視覚的に面白くもないはずの便器が、鑑賞者を誤読させ、解読が始まり、それについて語られ美術化されていく。そのため、デュシャンは、R. Mutt(リチャード・マット)という偽名を使って、作者の意図が分からないようにしていた。」(引用終り)

 

こんな小便器「泉」の解説を読んだら、津田大介ら左翼連中は泣いて喜んだことだろう。

小便器が芸術作品なら、小便器のような売春婦像だって芸術作品じゃないかと。

ガラクタでも何でもデュシャンを持ち出せば、芸術論争に絶対に勝てると。

そしてトリエンナーレでトンデモナイことを実行したのである。

小便器のような売春婦像を否定するなら、デュシャンの小便器「泉」も否定せよと。(と言ってるかどうか知らないが、要はそういうことだろう)

 

しかし、芸術論争で津田大介らは必ず勝てるのか。なんか変じゃないのか。だから、彫刻家の大黒貴之氏は先に引用した分の中で、「しかし逆説的に言えば、100年経った今でも現代アート界はこのデュシャン的呪縛から逃れられずにいるのです」と言っているのではないか。

 

芸術作品とガラクタの区別。これがキチンとできないと現代美術展はガラクタばかりの展示となってしまい、誰も見に来ない。いや、反日・反天皇のガラクタ作品の展示ばかりなら、反日人間しか見に来なくなる。これで現代美術はいいのかと。

 

真面目な左翼でない美術家・美術評論家にこの件をぜひ論じて欲しいものだ。

私は美術評価の素養はゼロだが、素人的な感想を述べたい。

現代美術において、芸術作品とガラクタをどう区別するか。それは「誰が」作ったかによってその作品が芸術になったり、ならなかったりするのではないか。つまり、作品に込められた芸術思想があるかないか、である。

 

現代アートの重鎮であるデュシャンが小便器を展示したら、それは芸術になるのであり、左翼の偏屈爺が田舎から持ってきた汚い大便器を展示しても、それは単なる汚い粗大ゴミでしかないのではないか。

仮に、これは「泉」ならぬ「大泉」という名前の作品だと言っても誰も認めてくれず、早く片付けて下さいと言われるだけだろう。

 

もし、爺さんが使った汚い大便器を、「これは芸術作品だ」と宣言しただけで「芸術作品」となるなら、現代アート展はゴミとガラクタと反日の展示会場となるだけだ。

 

美術館側もキチンと理屈作りをしておかないと、反日左翼に展示会は全部占拠されると覚悟しなくてはならないから。