福沢諭吉も良いが、年寄りにはなんといっても聖徳太子が一番だ。今回の新札肖像に渋沢栄一が選ばれたのは、選んだ人の評価眼を褒めてあげたい。

といっても私も渋沢栄一を詳しく知っているわけではないが、凄い人ということだけはかなり前から知っている。こういう人物をNHKは大河ドラマの主人公として選べばいいのに。「いだてん」なんか何がおもしろいのか。

 

渋沢栄一を勉強しようと思えば、鹿島茂(フランス文学者)の「渋沢栄一上 算盤篇」「渋沢栄一下 論語篇」が文春文庫から出ているし、山本七平「近代の創造―渋沢栄一の思想と行動」(PHP研究所)というのもある。山本七平の本は詳しすぎるのと引用が多いのとで読みづらいが、鹿島茂の本はわかりやすい。といってもそれですら読もうと思ってから積読が何年にもなる。この際これを機に頑張って読むとするか。

 

鹿島茂の「渋沢栄一上 算盤篇」の最初のほうに渋沢栄一の若き日に如何に優秀だったかエピソードが載っている。それを紹介したい。この話は、私が現役の頃、職場のミーティングでのネタとして話したものだ。

 

渋沢栄一は、1840年埼玉県深谷市血洗島に農業と藍の商売を家業とする家に生まれた。父親(晩香)が優秀で傾いていた家を一代で立て直した。といっても容易なことではなかったが、鹿島茂の説明によると。父親晩香は強欲型の商売人ではなく、製品の改良に心血を注ぎ、品質によって信頼を得ることに喜びを感じる創意工夫型の企業家であった、としている。つまり日産の強欲ゴーン容疑者とは正反対の企業家といえるだろう。

 

そんな父親に渋沢栄一は若いときから躾けられたのだった。14歳の時から家業の手伝いを始め、たちまちのうちに商売のこつを覚えたという。

家業の藍(染料)の販売をしていたのだが、阿波の名産に負けないような藍玉を作ってみたいと思うようになり、農家に良質の藍葉をどう作ればよいか頭を悩ましていた。

 

藍栽培の農民たちにむかって、良質の藍葉を作ったら高く買い取ってやるといえば、品質も向上するだろうが、それでは結局のところ、儲けは変わらないことになる。ここは何とかして買い取り価格を据え置いたまま、品質を向上させる方法を考え出さねばならない。

栄一は一計を案じて藍作りの農民の自尊心に訴えてみることにした。

 

以下は栄一の回顧録「青淵回顧録」より。

「ある年などは近村の藍のお得意先の人を多数集めて大いにご馳走したが、その席順については、藍の良否に応じて相撲の番付のようなものを作り、一番良い藍を造った人を一番上席に据えるようにした。その頃席順はなかなかやかましかったもので、上席に坐る事を非常に名誉に心得ていたものであるから、この商略は大いに競争心を喚起し、来年は一層良い藍を造って一番上席に坐ろうというような気風を起こさしむに到り、今年より来年という風に藍の成績が良くなり、従って私の家業も繁盛するようになった。」

 

良い藍を造った農民の格付けを与えるだけで、より良い藍を同じ買い取り価格で購入するという、こんな素晴らしい工夫を渋沢栄一20歳ごろに行ったというのである。向上心と競争心こそがより良い商品を作るための基本原理であるということを、若くして渋沢栄一は体得していたといえるのである。

 

まさに日本的経営の粋と言えるのではなかろうか。今日本の経営者はこういう考え方を何年も前から西欧に倣って壊してきた。金でやる気を釣る、金、金、金、金が全てだと。

 

昨日たまたま録画してあった78年前のNHKの「日本のジレンマ」を見た。若い学者、起業家が日本の格差社会を論じていた。

なかで日本の格差はまだまだ足りないと訴えるバカ起業家が得々と話していた。つまり、日本の格差が少なすぎるから停滞しているのだ、欧米のように優秀な者に報酬をしこたま与えればもっと成長すると言いたいらしい。つまりもっと金をよこせと。強欲ゴーンの卵たち。

 

そして若い女学者が更に輪をかけてバカなことをいう。格差社会を企業は意図的に作ろうとして作ったわけではない。合理的な企業行動の結果そうなってしまったのだから、強欲経営者に罪はないんだと言いたげな。

 

このNHKの「日本のジレンマ」は恐らく第一回目の番組なんだと思うが、当時からNHKは若者学者連にとんでもないことを言わせていたのだ。そのことは以前にもこのブログで批判したことがある。

 

格差社会は企業が意図的に作ったわけではないから罪がないというバカ学者に誰も反論しない。荻上チキという左翼評論家も何も疑問を呈さない。こいつはバカなんだ。

なんで公害企業のことを思い出さないのか。水俣のチッソは、別に水俣の住民を殺したくて或いは病気にしようとして水銀を垂れ流したわけではない。経済合理的な行動として水銀を工場排水として垂れ流しただけだ。しかしそれでも糾弾された。当然のことだ。

 

このバカ女学者は、チッソを経済合理的な行動をしただけなんだから、別に問題ないじゃんとでもいうのだろうか。格差社会については、いとも容易に儲けて何が悪いの、格差社会のどこが悪いのというのは、チッソ水俣病や公害企業のことを何も学んでいないバカということを露呈しているだけだ。荻上チキも何とか言えよ。

あまりのアホらしさに呆れて、これまで何年も取って置いた「日本のジレンマ」を全て消去した。だから今あのバカ女学者の名前はなんというのかわからない。

 

<追伸>

「日本のジレンマ」という番組を作ったのは、NHKプロデューサーの丸山俊一という男だということを「欲望の民主主義」「欲望の資本主義」という本を見て知った。これらは題からして面白そうなのだが、中身は全く現実分析に失敗して面白くもなんともない。こんな奴が「日本のジレンマ」を作っているのだから、見る価値がないということがよくわかる。

 

話がずれたが、日本がダメになったのは平成の時代になってからである。日本的経営が破壊され捨てられたのは平成になってからである。

それはさきの「日本のジレンマ」によく表れている。つまり若い世代が、日本の古き良きものを全く理解せず、捨てて恥じず、強欲ゴーンのような金持ちになりたいというだけで日本を動かそうとしてきたのである。

 

そういう平成の時代をきちんと反省するひとつのきっかけとして渋沢栄一の業績が見直されることになれば、令和時代も意味があるかもしれない。

 

若き渋沢栄一のたった一つのエピソードで渋沢栄一を論ずることは勿論不可能だが、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一なのだから、学ぶべきことが沢山つまっていることは絶対に確かだと思われるのである。

 

そうそう、女房も不満気に言っていたが、新一万円札(他も)の「壱萬円」の漢数字が小さくなり、代わりに10000円とアラビア数字が大きく書かれたのはおかしい。

外国人に分かりやすくなんぞという理由かもしれないが、ばかじゃないのか、ここは日本だ。堂々と今まで通り「壱萬円」と書けよ、財務省のバカ者め。