ほんといつまでたってもキチンと聖書を読んでいない。西洋文明・文化をよく知るには必須なはずなんだけど、何故か数ページ読むと飽きてしまう。困ったものだ。

 

昔読んだ対談から。こういうのは結構面白いんだけどね。

 

中村うさぎ:エデンの園のりんごの話は、善悪を知る木の実を食べたとたんに、人間は股間を隠すようになった。罪と一緒に羞恥も芽生えるわけね。あのさ、キリスト教はずっと、この「原罪」を「セックス」と解釈してきたよね?

私はその解釈、違うと思う。セックスなんて、他の獣たちもガンガンやってるじゃん。なのに何故、獣たちはエデンの園から追い出されず、人間だけが追い出されたの?神を怒らせた罪はセックスじゃない。「股間を隠す」という羞恥心、すなわち他人の目を意識したこと」だよ。」
(佐藤優×中村うさぎ「聖書を語る 宗教は震災後の日本を救えるか」(文藝春秋)の中村うさぎの発言より)

 

中村うさぎによるキリスト教の「原罪」の意味を解き明かすコトバだ。中村うさぎはどぎつくて、いい加減なもの書きのような気がしていたけど、結構まじめなんだ。

MXテレビ「5時に夢中」でトラブルというかいじめに遭って降板して大分経つが、いまどうしているのだろう。
 

中村うさぎが続けて言う。
アダムとイブは「智慧の実」を食べた瞬間、いかなる智慧を身につけてしまったのか?それは他者の目から見た自分を意識する、早い話が「自意識」だよ。それまでアダムとイブの間に「自他」の区別はなかった。善と悪、聖と俗、自己と他者そういう対立項のない混沌の「大いなる全体」のなかで生きてきたのよ。

なのに「智慧の実」を食べた瞬間、「善と悪」が生まれ、「自己と他者」の区別が生まれた。だからこそ、裸であることに気づいて股間を隠したのよ。自他の区別がなく、他者の目を通して自分を見る「自意識」ってものがなかったら、裸であることに気づかないし、恥ずかしいとも思わないわけでしょ?」
 

「私、この「原罪」とは「他者の獲得」だと思っている。他者を獲得した途端、人は「個」になるわけですよだから、「大いなる全体」の世界である「エデンの園」にはいられなくなった。神が人間を「エデンの園」から追い出したのは、そのためさ。エデンの園から追い出された人間は、以後「個」として生きる苦しみを負う。その個であることこそが、「原罪」であり、「人の生きる苦しみ」の根源なのよ」(引用終り)

 キリスト教徒にとって重要な概念たる「原罪」って何?これの一つの解釈がうさぎの見方だ。

なるほどね、「他者の獲得」が「原罪」ね。そういえば、「他者」「自意識」は人間が苦しむかなり根本的な原因の一つのような気がする。やっかいなものを背負ったものだ。
 

 個の確立、学校でも社会でも学問の中でも、これが求められていて、これが確立されないから日本人は遅れているとずっと責められてきた。封建社会から近代へ脱却して、個として立っていくということが最初から持つ苦しみという宿命を原罪という概念が表している。

日本にはそういう精神的伝統がないので個として立脚するのに明治人は相当苦労したんだけど、でも、うさぎ説からすれば、それを正しいものと戦後知識人が思いなした、それ自体に無理があって、混乱しているのがいまだに続いているともいえる。

人間はエデンの園にいたほうが良かったのか、追い出されたほうがよかったのか。

 

 昔以上のことを書いた際に、ある読者から寄せられたコメント

「キリスト教にとって(キリスト教徒でなくても西洋人にはかなり刷り込まれているように思っております)「原罪」は重要概念ですね。

わたしは学校名に「キリスト教」がつく高校にいっていましたが、高校に入って(といってもキリスト教をそれほど学ぶわけではないのですが)、洗礼を受けた同級生は、「原罪」の概念でキリスト教にひかれたようです。

日本人の根本にある宗教観としては、人間の生まれたて(赤ちゃん)は白くて無垢で、罪を犯すと染まり、罪は水に流せる、ということがあると思います。そういう意味では、根本的なところが全然違うと思っています。中村うさぎの「原罪」の解釈はよくわかりません。」

 

コメントへの私の返信

>中村うさぎの「原罪」の解釈はよくわかりません

 

「それまでアダムとイブの間に「自他」の区別はなかった。善と悪、聖と俗、自己と他者そういう対立項のない混沌の「大いなる全体」のなかで生きてきたのよ。」

 

中村うさぎは、この状態を理想の状態と捉えていて、そういう世界を失った原因を「原罪」と捉えているのだと思います。

柳田國男に「明治大正史世相編」という本があり、その中に「障子紙から板ガラス」という項があります。日本の家は、囲炉裏があって、その周りを大家族が囲んでいた。「囲炉裏の火によって、暗さと湿気に対抗する勢力の中心を作っていた」と柳田は書いています。

 

そして、明治の終わりあたりから障子紙や板ガラスが普及していって「大きな建物の隅々が明るくなったということは、家にいくつもの中じきりを設けてもよいということを意味する」と書いています。

そして中じきりが作られるようになると、その向こうで自分の好きな本を読むことができるようになる。それは大家族にとって脅威になる。

(これらの説明は、評論家浅羽通明のことばです)

それを「火の分裂」と呼び、読書がその初めから人を別れ別れにしてしまう、孤独にしてしまう、と浅羽は言っています。

つまり個の独立ですね。それは近代の出発を用意するものでありながら、大家族を壊すものでもあった。

まさに大家族はエデンの園であり、ガラス窓と読書は禁断の木の実ではないでしょうか。つまり、個の確立というものをアンビバレンツ(両義的)なものに捉えていると思います。そういう意味では、キリスト教でいう本来の原罪観念からは離れていっているでしょうね。

 

こんな風に回答しました。

やはり聖書だけ読むのでなく、どんな風に皆が考えたのかという書物と一緒に読んでいかないと興味も理解も湧いてこないのかもしれません。