亀岡市役所のレジ袋販売禁止は遠からず全国に展開されるだろう。恐ろしい未来がやってくる。
亀岡では民主主義に反した行政が行われ、合理性や社会に与える影響の検討や議論が行われた形跡が全くない。
恐らく、環境省のレジ袋有料化をみて、俺んところはなんかもっと強烈なことをやろうじゃないか、ふるさと納税ではみんな張り切っているから、これから同じことをやったって目立ちはしない。もっとインパクトのあるものを全国に先駆けてやろうぜ。
そうだ環境省がレジ袋有料化するといっているから、その先を行って、レジ袋自体の販売禁止にしようじゃないか。これなら有料化より断然インパクトがあるぞ、てな感じのいい加減な市役所内部のやりとりで決めたことだろう。
市役所から、そんなことはありません、と聞こえてきそうだが、もっと真面目に検討したというなら、こんな狂った施策が出てくるわけがないのだ。
元市役所職員のブログで亀岡レジ袋問題について詳しく書かれているが、そこでのブログ主の感想は納得できる。
「ただ、「自分たちは環境に配慮しているんです!初ですよ!初!凄いでしょ!」と言っているようにしか聞こえないというのがこの件に対する正直な感想です。」
なぜ、エコというとバカバカしいというか全く愚かな施策が次々と出てくるのか。合理性が全くない施策だ。
それには理由がある。エコ活動自体は今に始まったことではなく、何十年も前から国(小池百合子がいたっけ)もマスコミも狂ったように施策を打ち出してくる。
地球温暖化CO2説が出てから特におかしくなった。
NHKは「明日のエコでは遅すぎる」と市民の恐怖心を煽った。
このエコ活動を支える分かりやすい思想が当時喧伝された。これは強力なインパクトを人々に与えた。
それは「はちどり思想」というものだ。
合理的計算をそもそもする気がない思想、精神主義を求めるとても嫌らしくも恐ろしい思想だ。
それは「ハチドリのひとしずく」という短い民話に表わされている。
ハチドリのひとしずく
アマゾンに伝わる神話、ハチドリの物語
ある時、アマゾンの森が燃えていた。
大きくて強い動物たちは我先にと逃げていった。
しかしクリキンディ(金の鳥)と呼ばれる小さいハチドリだけが、そこに残った。
そして、 口ばしに1滴ずつ水を含んでは、飛んでいって燃えている森の上に落とした。
また戻ってきては、水滴を持ってゆく。
それを繰り返すクリキンディを見て、大きくて強い動物たちは、馬鹿にして笑った。
「そんなことをして、森の火が消えるとでも思っているのか」。
クリキンディはこう答えた。
「私は、 私にできることをしているの」
これを読んだ善なる人々は感動した。私もはちどりのクリキンディになろう。
私のやることは小さいけれど、大きな希望に繋がっているのだ。
私の行動は善なる行動だ。人が何と言おうと正しいことをしているんだから、耳を貸す必要はない。エコなる活動は正しい行動だ。
とかなんとか皆が思わされて、思考停止してしまったのだ。
ここには行動することを善とするだけで、それ以外のことには思考停止させる。
アマゾンの森がなぜ燃えたのか、とか森の火事を消すにはどういう方法がよいか、等々の議論を封殺する。つまりそういうことを考えることは愚かなことであり、ただただ小さいことでもやれることをやることが正しいのだという信念を植え付ける。エコ教という新興宗教の囁き。
これは古い昔の日本の光景を彷彿とさせる。
戦時中、銃後の多くの日本国民(多くは婦人と老人)は空襲で焼けた家を消すためにバケツリレー防火演習を強制された。そして、B29を打ち落とすために竹やり訓練をさせられた。私の母もその一人だった。
それが本当に役に立つのかと疑問でも持った途端、非国民のレッテルが張られた。
ここには、効果とか合理という概念がない。そう考えること自体が既に負けを認めることになる。
大事なことは「必勝の信念」なのだ。何も考えず、絶対に勝つという信念を持ち、一億国民が念じていけば鬼畜米英を打ち負かすことができる。それが日本精神というものなのだ。
こんな話がある。
戦争が始まり、東條英機首相兼陸軍大臣がある部隊を視察した。
高射砲担当の兵士に「いま敵の飛行機が飛んできたらどうするか?」と聞いた。
兵士答えて「訓練どおりタマをこめてよく狙って撃ちます」と。
東條「違う!精神力を込めて撃てば敵機はみんな落ちてくる!」
当時勇敢な新聞記者もいたようだ。俗に言う「竹やり事件」なるものを起こした。
1944年2月23日、毎日新聞の1面に「戦局はここまで来た。竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」という見出し記事が載った。新聞記者が、精神論だけでは勝てないと記事を書いたのだ。
東條は激怒し、強度の近眼で懲兵免除だった37歳の記者を、ある連隊に1人だけ「懲罰召集」したという。これが、いわゆる「竹槍事件」だ。
その後は、新聞の見出しは「米鬼を粉砕すべし 武器なきは竹槍にて」という言葉が躍ったという。
笑い話
アホの兄弟がいた。弟が外で竹やり精神でもって、B29を打ち落とすぞと息巻いていた。
そこに兄貴が通りかかった。弟がB29目指して竹やりを突き出すのを見て言った。
「ばか者、竹やり1本でB29に届くわけないだろう。もう1本つなげ!」
そしてエコ思想は竹やり精神と同じ構造を持っている。
はちどりのクリキンディは、森の火事を消すという「竹やり精神」「必勝の信念」を体現しているのである。
クリキンディの心には「私は、 私にできることをしているの」と言いながら、このような考えを持つはちどりが1億匹集まって同様な行為を行えば、森の火事は消せるのだと思っているのである。
いや、はちどりのクリキンディはそこまでは考えていないかもしれない。
しかし、はちどりのクリキンディの行為を善として、正しいとして、エコの運動を拡大しようとしている人間どもは「はちどりが1億匹集まって同様な行為を行えば、森の火事は消せるのだ」と思っているのである。
必勝の信念を全国民に訴えていけば、エコな社会ができると考えているのである。
婦人会を指導し唆した在郷軍人たちと同じ発想に立っているといえるのだ。
B29と戦うために竹やりで頑張りましょう、私にできることはこれくらいのことです、日本が勝つためなら、と言った時、はちどりに勇気をもらった人々は、竹やりで頑張る人を笑えるのか。もし笑えるのなら、その理由を教えてほしい。はちどりのクリキンディは竹やり精神を褒めるに違いないのだ。
そういう思想背景がエコ活動にはある。つまり元々合理的精神など持ち合わせていない。つまりエコの運動自体が大事なのであり、全国エコ競争に勝ちたいのである。如何に我が町が、エコに関して、レジ袋削減に「必勝の信念」で取り組みんでいるか、全国民に示して称賛を得たいのである。
だから、取り組み手段はエスカレートして行くのである。ふるさと納税競争と全く同じだ。他の町に負けないためには知恵を出す。鬼畜米英に勝つためには極端なことも平気になるのだ。
だから、レジ袋を国が全て有料化すると表明した途端に、それを上回る施策を打ち出して、我が町がいかに素晴らしいか、いかにエコに取り組んでいるかを打ち出すのである。
その競争が嵩ずれば、もっともっと極端な施策が考えだされるはずである。
今は亀岡市も店に対して、レジ袋販売禁止にしているが、その先には個人への介入、つまり個人的なレジ袋利用(古いものを活用)も認めないようになるだろう。そして違反者は逮捕・投獄だ。狂気の行進だ。
冗談のように書いているが、ミルグラムの電気ショック実験(アイヒマン実験)という有名な話がある。ちょっと長いけど。
アメリカの地元の新聞広告にて、『記憶と学習に関する実験』と称して、実験の被験者が集められた。しかしこれはダミーであり、実験の本当の目的は、「人はどれだけ権威に服従するのか」調べることだった。集められた被験者たちは、くじを引いて「教師」役と「生徒」役に別れた。教師役の被験者と生徒役のサクラと研究者が、ひとつの部屋に入る。
そこには、電気椅子が置かれており、被験者である教師はここで電気椅子に座らされ、試しに45ボルトの電圧の電気ショックを加えられる。教師役の被験者が電気ショックを体験し、その痛さを体験したところで、生徒役のサクラを電気椅子に固定して身体を拘束しる。そして、教師役と研究者はともに別室に移る。
この実験は、教師役の被験者がマイク越しに簡単な出題を出し、生徒がそれに間違えたら被験者がボタンを押して生徒に電気ショックを与え、間違える度に電気ショックの電圧を上げて行くというものだ
ただし、生徒役は役者であり、実際に電気ショックを与えるわけではない。しかしそのことを教師役の被験者は知らないので、生徒役の役者が電気ショックを痛がる演技を、本当のものだと感じているわけだ。
この実験に被験者はどこまでNOと言わずに従うのか、という実験が本当の目的だから、この実験は「ミルグラムの服従実験」とも呼ばれる。
最初は教師役が先程体験したような軽い電気ショックを生徒役に与えるだけで、何事もなく進んでいった。しかし、教師役が120ボルトの電気ショックボタンを押したあたりから、スピーカーから生徒役の大声で叫ぶ声が響いてくる。教師役が実験を中止しようとすると、白衣を着た研究者が「あなたはこの実験を続けなくてはいけません」と引き留める。450ボルトの電気ショックを3回流したところで実験は終了となった。
しかし、150ボルトの電気ショックで、スピーカーの向こうからは絶叫が聞こえ。300ボルトの電気ショックを流したところで、生徒役が「もうやめだ! 実験を止めてくれ!」と叫んだ。
そして、330ボルトを超えてからは、電気ショック時の生徒役の反応は一切なくなった。
この実験で、実験終了の3連続450ボルトのボタンを押すまでに至った被験者はどれぐらいの割合であったのか?
この実験を行う前に、イェール大学の心理学専攻の学生や精神科医も、最後まで実験を行うのは、ごく限られたサディストだけであろうと予想を立てた。しかし最後まで実験を行い、生徒役に450ボルトの電気ショックを3回与えた被験者は、全体の65%であった。
もしも演技でなければ生徒役は死んでいるという設定にも関わらず最後まで電気ショックを与えた被験者の数の多さに「人間って怖い」といった驚きの反応があった。
この実験によって人間とは権威に服従しやすいものだと明らかになった。これがミルグラム実験だ。人間とは権威に弱いものなのである。
ネットにこの実験について、以下のように書かれている。
「あなたは強大な権威をもつ誰かに、ほかの人間を傷つけたり、殺害したりするような残虐な行為を命じられたとき、その命令に背くことができるだろうか。苦痛を訴える絶叫や、悶絶の金切り声を聞きながら、権威者の「迷うことはありません。この実験を続行してください」の超然たる一言で、さらなる苦悶を促すボタンを押すことを選ぶだろうか。
多くの人々はこう訊かれると、「自分は絶対にそんな命令には従わない」と答えるという。しかし、実に6~8割を超える人々が、権威をもつ人物に強く命令されれば、良心の呵責に苛まされながらも、残虐非道な行為を実行し続けてしまう──。それが、1963年よりたびたび実施されてきたミルグラムの実験により明らかになったことである。
わたしたちの多くは、おそらく無意識に、誠意、平等、公平、正義などに、「善であることへの憧憬」のようなものを抱いている。…ここで、ひとつ自問してもらいたい。「善であること」にある程度のモラルを置くあなたは、自分の心のなかの道徳観が、組織の圧力に負けるときが一度たりともないと言い切ることができるだろうか?
…誰もが心に抱えている、弱く、揺るぎやすい空間。その理性の支配が及びづらい「隙間」は、おそらく権威者の強気な力の侵入を許しやすいのだろう。それが運悪く、悪意の欠片をもつ権威者だったとしたら、心のパズルにこの欠片がはまった瞬間に“悪への服従”は芽生える。悪とは凡庸なのだ。いくら本人が、ただ従順なだけの小市民だったとしても。
われわれの道徳観が揺らぐ心の弱い部分──それをほのめかすように表面化する「正義への憧れ」と、権威を許す「隙間」は、実は表裏一体と呼べるものなのかもしれない。」
今人類の生存を脅かす環境問題は誰でもが解決するために何かしなければいけない、善なることをしなければと日々脅迫されている。未来の子供たちの為にとか未来の人類の為にとか。
そういう心性が形作られた現代において、「ミルグラムの服従実験」にあったように亀岡市役所は450ボルトのボタンを押してもいささかも躊躇も傷つくこともなく、正義の名のもとに、人類の名のもとに、地球の名のもとに、エコに反する亀岡市民を取っ捕まえて、牢屋にぶちこむことぐらいやりかねないのである。
はちどりの思想と「ミルグラムの服従実験」が組み合わさって、人間及び社会を悲劇に追いやるのである。
レジ袋?大いに使って、用が済んだら燃やせばいいだけの話だ。燃やせば海に浮かんで汚染されることはなくなる。
リサイクルなんて余計なことは考えないように。