日産ゴーンに楯突くことなどできる部下はいないが、日産の御家一大事ということで西川社長以下が立ち上がったようだ。

部下による諫言は難しい。諫言すれば必ず左遷される。

 

しかし、江戸時代には独裁的な藩主、暴君な藩主には家老らの合議による決定により、強制的に監禁「主君押込め」という手段によって暴君を抑えたという。封建時代の方が民主的であったということか。

 

ウィキに「主君押込め」について次のように書かれている。

「手順はおおむね決まっていた。藩主の行跡が悪い場合、家老らによって行いを改めるよう、諫言が行われる。このような諫言は、場合によっては藩主の怒りを買い、手討ちにされかねない危険な行為であったが、家臣としての義務であった。

諫言が何度か行われ、それでも藩主の行いが改まらない場合、家老ら重臣が集まって協議が行われる。そこで押込もやむを得ずとの結論に至った場合、実行される。

あらかじめ目付クラス以上のある程度の身分ある者で、腕の立つ者、腕力強健な者を側に控えさせておき、家老一同が藩主の前に並び「お身持ち良ろしからず、暫くお慎みあるべし」と藩主に告げ、家臣が藩主の刀を取り上げ、座敷牢のような所へ強制的に監禁してしまう。藩主は数ヶ月にわたり監禁され、その間に家老ら重臣と面談を繰り返す。

家老ら重臣により、藩主が十分に改心して今後の行いも改まるであろうと判断された場合、藩主は「誓約書」を書いて元の地位に復帰する。」

 

日産ではゴーンに諫言すれば首にされるから、地検特捜部を使って「主君押込め」をすることにしたのであろう。

 

さて、トップ自ら勝手なことをしたいのなら、そもそも諫言を受け入れる気など全くない。自分が一番偉いのだから、部下の話など聞く必要がないと思うだろう。

しかし、それでは政治も経営も乱れるばかりだ。日本では部下に耳を傾けるのがよいリーダーとされている。

 

中国でも諫言を重視した皇帝がいた。唐代の太宗の政治に関する言行を記録した「貞観政要」に書かれている。

再びウィキから。

「…太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにある。

中国には秦以来、天子に忠告し、政治の得失について意見を述べる諫官(かんかん)という職務があり、唐代の諫官には毎月200枚の用紙が支給され、それを用いて諫言した。歴代の王朝に諫官が置かれたが、太宗のようにその忠告を聞き入れた皇帝は極めて稀で、天子の怒りに触れて左遷されたり、殺されるということも多かったという。

太宗は臣下の忠告・諫言を得るため、進言しやすい状態を作っていた。例えば、自分の容姿はいかめしく、極めて厳粛であることを知っていた太宗は、進言する百官たちが圧倒されないように、必ず温顔で接して臣下の意見を聞いた。(後略)」

 

この「貞観政要」を徳川家康は大いに学んだという。その片鱗を海音寺潮五郎が書いている。長いが為になるので読んで下さい。

 

「ある時、本多正信が(息子の)正純にこんな話をした。

(管理人注)本多正信は徳川家康の家臣で名参謀と言われた
「昔、大殿(家康)がまだ浜松のお城にお出でになった頃のことよ。ある日、大殿が外勤めの侍を三人召されて、ご用を仰せ付けられたことがあったが、中の一人が後に残って、懐から一封の書面を取り出し、自ら封を切って差し上げた。

 

「これはわれら年来、お諫(いさ)めしたいと思うことを書き連ねたものであります。今日はよいついでと存じますので、奉るのでございます。」と答え申した。
大殿はいともご機嫌よく、
「ああ、それはぜひ聞きたい。そこで読め」と仰せられた。
その侍は喜び勇んで、読みはじめた。

大御所は一条がおわる毎に、
「もっともだ。よいことを申してくれる」とおほめになった。
かくて、十数条読み終わると、大御所は、
「その方が今読み上げたことは皆一々もっともなことである。まことにためになった。今後とも気づいたことは、必ず遠慮なく申してくれるよう。わしがためを思ってくれる忠志のほど神妙の至りであるぞ」
と、ねんごろなるご感賞のおことばを賜ったので、その者はまことに喜んで退出した。

 

 わし(正信)は折ふし御前にいて聞いていたので、大殿は、唯今のなにがしの申し条をどう思うかとお尋ねであった。

わしは一条として感心していなかったので、正直に申し上げた。
「すべてどうでもよいような枝葉末節のことばかりで、お取上げになるほどのことは一条もないと聞きました」


 すると、大殿はお手を振って仰せられた。
「いやいや、そう申してはならぬ。これは全てあの者が知恵の限りをしぼって考えたことじゃ。知恵の及ばぬは致しかたがない。

わしは、あの者が年頃考え続けて、わしを諌めようと思い続けてきた志がうれしいのじゃ。
 人間というものは自分の過ちはわかりにくいのじゃ。わかっていれば、誰も過ちはしない。これでよいと自足しているところに過ちに陥るわながある。
 下々の者は親族や朋友というものがあって、互いに忠告し合うゆえ、自らの過ちを知って改むる便利もあるが、身分高くなると親戚があっても遠慮して言うてくれぬ。朋友もまたない。朝夕仕える者は主人の心に逆らわぬようにとばかり思っている。

たまたま諌めるにしても、小さいことは言わず、大きい過ちしか申すまい。大きい過ちとなれば、もう気づいても手遅れになっていることが多いものだ。

小さいことを諌めてくれるのは、まことにありがたいのじゃ。わしはそれがうれしく、また人々の諫言の路をひらくためと思うて、ほめてやったのじゃ」
とかように仰せられた。まことにありがたいお心である。」

と語って、正信は涙をこぼした。」
(海音寺潮五郎「列藩騒動録()(講談社文庫)の「宇都宮騒動」の項より)

 

 これは、新井白石が残した徳川家康の話である。本多正信は、家康の知恵袋として終生お側に仕えた侍である。リーダーとして類まれな家康の、部下を扱う際のひとつのエピソードである。

諫言というのはいつの世にも難しいものだが、家康の広い度量がそれを許したのであろう。下手をすれば、諫言した侍は切腹を仰せつかって当然だ。現代にも通じるなかなか含蓄のある話であろう。
 

しかし、話はこれで終わったのではない。

この話は海音寺潮五郎が御家騒動である「宇都宮騒動」について書いたものだ。「宇都宮騒動」とは、老中であった宇都宮藩主本多正純がお城改築に当たって、失脚した話である。

正純は父親正信同様非常に優秀な武士であった。が、鋭すぎてやや問題があった。つまり人望がなかった。

 

新井白石は続ける。

話の続き。
「正純は聞いていて、
「それは誰でございました。またいかなることを申し上げたのです」と、たずねた。
 すると、正信はおそろしく不機嫌になって、
「その人の名を聞き、そのことを聞いて、何の益があるぞ、くだらぬことを知りたがるものでない」

と、言ったという。」

 

 新井白石のいいたかったことは、どちらかというと家康の家来操縦法ではなく、正信の息子正純批判のほうであったのではないか。切れるだけでは真のリーダーたり得ずというところか。

 

名君はなかなかいない。日産ゴーンもZOZO前沢も名君に足らずだ。