こんな未開の部族がまだ生き残っているとは驚きだった。

 

 “現代文明を拒否する島で悲劇 宣教師の男性が

 インド東部の島で上陸しようとしたアメリカ人の男性が先住民に殺害された。この島は「未開の孤島」などといわれ、外部との関わりを嫌う先住民がこれまでも度々、島に近付こうとする人を弓などで威嚇していた。

 政府公認、誰も訪れてはいけない島。現代文明を拒否するといわれる島で悲劇は起こった。島に上陸して殺害されたアメリカ人青年はキリスト教の宣教師だった。その島とは、インド東部に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島の北センチネル島。

海外メディアによると、島の先住民たちは150人ほどだとみられ、周辺の島とは言葉がかなり違うためにコミュニケーションが取れず、何千年も外部と接触してこなかった世界で最も孤立した部族だという。

彼らが孤立した理由、それは攻撃性だという。島の先住民らは部外者に対して非常に敵対的でこれまで島に近付く者を度々、攻撃してきた。2006年には島に近付いた漁師2人を殺害し、2004年にインド洋で津波の被害が起こった際、パトロールのため島に向かったインド海軍のヘリに矢を放ってきたという。こうしたことから、インド政府は危険だとして、また島の文化保護の観点からも島へ近付くことを禁止していた。

そんななか、16日に27歳のアメリカ人宣教師は地元の漁師の船に乗って島に無許可で上陸したのだ。その目的はキリスト教の布教活動だったという。しかし、先住民と接触しようとした彼は受け入れられなかった。先住民らはアメリカ人宣教師に矢を放ったうえ、首にロープを掛けて引きずるなどして殺害したという。島にはインド当局も近付けないため、アメリカ人宣教師の遺体を回収するのは難しい状況だという。

(引用終り)

 

 私はこのアメリカ人宣教師の善意と熱意に頭は全く下がらずに、殺されたことは誠にご愁傷さまではあるが、未だにこんな遅れたおバカな宣教師がいたのかと呆れた。

安田純平を彷彿とさせる行為であり、まさに自己責任としてキチンと責任を取ったから安田純平より偉いし「英雄」と称してもいいくらいだ。

 興味深いのはインド政府だ。

 

「インド政府は1960年代からセンチネル人との接触を試みてきた結果、91年に初めて友好的に接触できた。しかし、他の島の先住民と交流をはかった際に島民が病気で死亡するという惨事が起きたこともあり、交流プログラムは1996年に中止された。

センチネル人は現代社会との接触をかたくなに拒んでおり、自分たち以外の人間が上陸しようとすると弓矢で追い払うことで知られている。」

そして

「センチネル島は部族の生活を守るため保護区域となっており、約9キロ以内への進入は禁止されている。

チャウさんの訪問を手助けした7人の周辺住民は全員逮捕された。インディアン・エクスプレスによると、センチネル人に関しては、接触すること自体が違法であるため訴追は不可能だという。」

 

普通ならインドの警察が殺人事件として逮捕に向かうはずだ。いくらセンチネル族が武力を持っているといっても、近代兵器を持つ警察又は軍隊が出動すれば容易に鎮圧できるはずだ。

だがそういう野蛮なことをインド政府はしないのだ。

近代国家の埒(らち)外として近代法制を適用すること自体を避けているのは、インド政府として賢明な対応といえる。

 そういうことを一つも勉強せずに、のこのこと宣教に行くなんてバカとしか言えない。

 

ここで思い起こすのは「多文化共生社会」のことだ。この価値観からすれば、センチネル族の人々は許しがたい人々といえるだろう。

安倍首相のいう、価値感を強制しに行った宣教師はアホというしかないが、多文化共生を目指す人々にとっては、センチネル族の文化も認めながら一緒に仲良くしようというのに、そういうことを認めない奴らは許せんということにもなろう。

 

しかし、翻って考えてみよう。センチネル族は異常な部族なのだろうか。センチネル族は単に自分たちの生活スタイル・文化を守りたいだけじゃないのか。他人の口出しを受けたくないだけだ。何か文句あるのかと。

そう、それはむしろ正常な感覚ではないのか。

 

 多文化共生社会のほうが異常な社会と考えてなぜいけないのか。多文化が共生するなんてあるわけがない、となんで普通に考えないのか。

生活とは歴史的な文化や習慣の上に秩序立てて成り立っている。それぞれの民族・人種・国家はそれぞれそういう文化や習慣の上で生活し行動している。そんな文化がごちゃ混ぜになって共生できると考える方がそもそも異常なのではないか。というより、そういう異常な発想をするのは、その裏に何か別の意図を隠しているのではないのかと疑る。

 

ホップスが自然状態のままでは戦争状態になるといったが、多文化共生社会なんてのはまやかしだということではないのか。

 

別に、他国といつも喧嘩せよ、センチネル族みたいに近づいたら追い払え、時には殺してしまえなんて言うつもりは全くない。

しかし、共生する必要はこれっぽっちもない。訪問客としてとか仕事上の付き合いとか何らかの文化交流とかでは大いに仲良くしていいだろう。

しかし共生する必要はこれっぽっちもない。

今安倍政権が実施しようとしている移民政策はこの「共生」を強制するのだ。欧米で移民を巡って戦争状態に陥っているのは、まさに多文化共生社会なんていうのはあり得ないということを示している。

 

(別に安倍首相も経団連も、移民と共生してくれなんて、これっぽっちも考えていないはずだ。低賃金労働者として大量に雇い入れたいだけだ。しかしそうすれば必ず齟齬が起こる、問題が起こる。そんなことはわかっているから、多文化共生社会で仲良くすべきで、それができないのは、そうしない日本人が悪いんだよと呪縛しているだけなんだ。ふざけるのもいいかげんにしろ!)

 

日本もインドの北センチネル島のセンチネル族の思いを想像してよく考えてみるべきだ。

そういう意味で殺された宣教師は、死を賭して多文化共生社会の異常さを我々に考えさせてくれたといえるかもしれない。