福岡・北九州市の砂防ダムに取り残された2頭のイノシシが北九州市で見つかって、26日で15日目。福岡県は25日ついに、イノシシの救出作戦に乗り出し、やっと1頭を捕まえて山に放した。

 

最初は市も放っておくつもりだったらしいが、近所の住民から可哀そうだとの声が上がり、しぶしぶ捕獲にのりだしたようだ。

市が捕獲に乗り気でなかったのは、鳥獣保護法の存在。鳥獣保護管理法で、野生動物は手出しをせずに見守ることになっているため、市は救出することができないとか。

 

「北九州市鳥獣対策課・梅田秀勝課長は、「鳥獣保護法という法律がありまして、かわいそうな状況ではあるんですが、『見守る』という大原則を守っていただきたい」と語った。」

 

砂防ダムからはい出ることは不可能だから、死ぬのは確実だ。法律を守ると助けることができないから、イノシシの自己責任ですので死んでもらいましょうと市は言っているっていうこと。

ネットに「見捨てたいと思います」と言えば良いのに」と書かれていたのはけだし名言。

 

元々イノシシは作物に害を与えたり、人間を襲ったりするから、むしろ捕獲して殺すのが普通なんだが、鳥獣保護管理法で、野生動物には手出しをできないとは知らなかったなあ。触ってもいけないなんて法律に書いてあるのか。市の担当者のやる気のなさの言い訳で拡大解釈したんじゃないのか。

 

だが救出を求める声が高まり、テレビも全国報道し始めたため、市と県が重い腰を上げた。

 

行政が法律を守ることは当然だが、法律を盾に取ってやるべきことをやらない理由にしてはならない。こういう時は、市や県が勝手に判断することができないなら、裁判所に仮処分の申請をすればいいのではないか。裁判所の判断のお墨付きをもらって捕獲するなりすればよかった。

許可が出なければ死ぬまで待つしかない。その責任は裁判所に押し付ければいい。

 

それよりもこの問題は、作物に害を与えたり、人間を襲ったりする害獣のイノシシにもかかわらず、多くの人々が「可哀そう」という感情を持ったことだ。このイノシシ、まだ子供の姉妹らしいから、動きも可愛らしいので、このまま死んでしまったら、より「可哀そう」と感じてしまったのだ。

 

ここで命の大切さという問題が出てくるのだが、人間と言うのは勝手なもので、マグロが築地じゃなかった豊洲市場でザックリ身体に包丁を入れられても、おいしそうとか何とか言う。可哀そうとはいわない。

和牛も市場で売られたとき、飼育農家は高い値段で売れて良かったなんぞという。手塩にかけて飼育した可愛い牛がこれから食われてしまうというのに。

 

私は食用のまぐろや和牛(ほとんど食べたことないけど)を殺すのは可哀そうだなんて、西欧の似非エコロジストじゃないから、そんなことは言わない。

そうではなく、「可哀そう」という感覚の発生について関心があるのだ。

 

孟子がこの問題について「梁惠王章句上七」で述べている。

 

「斉の宣王がお尋ねになられた。

「斉の桓公・晋の文公といった戦国の覇者の事柄について聞いていることを話してくれないだろうか?」孟子が慎んでお答えした。

「覇道ではなく王道についてお話しましょう」

宣王がおっしゃった。

「どうすれば道徳によって王になれるのか?」

孟子はお答えした。

「人民を愛護することによって王となることができ、その勢いは誰にも止めることなど出来ません」

宣王は質問をされた。

「自分のような未熟な君主でも、人民を安心させてあげることが出来ようか?」

孟子は答えた。「出来ます」

宣王「どういった理由で、私に出来ると分かるのか?」

「宣王が王宮に座っている時に、牛を引いて宮殿の下を通りかかった者があり、王はこれをご覧になられて、「その牛をどこへ連れていくのだ?」と質問されました。牛を引いていた者は恐縮して、「鐘が完成したので落成式に行くところです。牛を殺してその血を鐘に塗り儀式を行います」と答えました。

王はそれを聞いて、「その牛を放してあげなさい。意気消沈し悲しそうな表情をしている牛が、何の罪もないのに刑場に連れていかれるのは見るに忍びないのだ」とおっしゃった。

牛飼いは畏まって「それなら鐘の完成を祝う落成式を中止しましょうか?」と返事をした。

王は、「(落成式の大切な呪術儀式を)取りやめにすることは出来ない。羊を身代わりにして納めよ」と言われた。これは実際にあった出来事でしょうか?」

「そういうことが確かにあったな」

孟子「この優しい心があれば王になるに十分です。しかし、人民は、王が高価な牛を惜しんだから羊を身代わりにしたと思い込んでいます。当然、私は王が牛を助けてやりたいと思う慈悲の心情からそれを為さったことを知っていますが。」

王がおっしゃった。

「(殺される牛を可哀想と思ったのは)その通りである。確かに人民が言うように、私が牛を物惜しみしたように見えないこともない。しかし、斉がいかにそれほどの大国でないといっても、君主である私がどうして牛の一頭程度を惜しいと思うことがあろうか?(そんなことがあるはずはない)

ただ、物悲しそうに怯えた表情をした牛が、罪もないのに刑場に連れていかれることが耐え難く感じたので、羊に代えただけなのだ。」
「国民は、王が牛を惜しいと思ったから牛を助けたと思っていますが、王はそれを不思議に思う必要はありません。小さいもの(羊)を大きいもの(牛)に代えたから、国民は王が物惜しみ(ケチな考え)をしたと思ったのであり、そのために王の本当の慈悲の気持ちが分からなかったのです。

もし、王が罪のない動物が刑場に連れていかれるのを可哀想に思うのであれば、どうして牛と羊のどちらか一方を選ぶことが出来たのですか?(本来なら、選ぶことなど出来ないはずです)」

王が笑って言われた。

本当にあの時の気持ちは一体何だったのだろう?私は財物が惜しくて牛を羊に代えたわけではなかったのだが、(孟先生の話を聞くと)人民が自分のことを吝嗇(物惜しみするけち)な人物と非難するのはもっともなことであるな」

「人民の評価を気にする必要はありませんよ。これも仁の実践の方便です。王は牛を実際に見ましたが、羊のほうは実際に見ませんでした。君子は鳥獣の生きている姿を見ると、殺される姿を見ることに耐えられず、その悲しげな声を聞くと、その肉を食べることが出来なくなります。そういった慈悲の気持ちによって、君子は調理場を遠い所に建てさせるものなのです。」
 

 近所の住民も全国のテレビ視聴者も困ったイノシシ、死んでゆくイノシシを見てしまった。宣王が何の罪もないのに刑場に連れていかれる牛を見てしまったのと同様に。

 

孟子は「君子は鳥獣の生きている姿を見ると、殺される姿を見ることに耐えられず、その悲しげな声を聞くと、その肉を食べることが出来なくなります。」といいます。

羊ならなぜいいのでしょうか。

 

フランソワ・ジュリアンという哲学者が「道徳を基礎づける」(講談社学術文庫)の中で、次のように説明しています。

「王が考える暇もなく、牛に代えて羊を用いることを提案したのは、牛の怯えた様子を「目の当たりにした」からであって、羊のほうは「目の当たりにしなかった」からです。王は怖気づいた一頭を自分の目で見てしまった。その怯えは彼の目に不意に出現したので、心の準備をしておくこともできなかったのだ。

 ところが、もう一方の動物の運命は、彼にとっては観念にすぎなかった。それは匿名であり、抽象的であって、したがって、効果を一切持たない。目の前で対面しなかったからである。つまり、怯えた様子の牛という他者に釘付けになったが、そのそらすことのできなくなった眼差しが羊には届かなかったのだ。

だからこそ、羊の犠牲は王の心を揺り動かさず、王は頭から羊を事物と同列に置いていたのである。…王は苦しんでいるものを「目の当たりにすること」に「忍び」なかった。彼は他者-それが動物でさえも-の運命に無関心ではいられなかったのである。」

 

人間というものは対面すると無関心・無感覚ではいられなくなるのですね。羊にとってはいい迷惑でしょうが、これもまた人間の性(さが)なんでしょうか。

 

イノシシ捕獲作戦を「ミヤネヤ」はずっと中継したようで、それをネットでそんな暇があるのか、もっと別なことをしたらどうかという声が上がったとのことですが、そんな暇な中継も孟子さまの教えを考えながら見るのも乙なもんではないでしょうかねえ。

 

それにしても、豊洲市場でのマグロ解体というマグロの死を「目の当たりにしても」可哀そうという心、忍びないという心が起きないのはどうしたことでしょうか。

やはり、孟子のいう、

「…その悲しげな声を聞くと、その肉を食べることが出来なくなります。そういった慈悲の気持ちによって、君子は調理場を遠い所に建てさせるものなのです。」

という言葉を噛みしめたほうがいいのではないかと。見ないという価値。

 

 一頭のイノシシは山に放たれました。どこに行ったのでしょうか。恐らく親イノシシに言いつけにいったのではないでしょうか。

人間にいじめられたが、やっと解放された。身代金は渡していない。

私はジャーナリストとして妹と一緒に、砂防ダムがイノシシ族に危険性はないか調査をしていたのよ。砂防ダムに落ちたのは自己責任だという奴がいるが、そういう奴は許せない。

まだ妹が捕まっている。取り返しに行かないと命が危ない。お父さん、お母さん早く助けにいこう!