イギリスの哲学者ジョン・ウィズダムが書いた有名(かどうか知らないが)な「庭師のたとえ話」というものがある。
昔2人の探検家が密林のとある開墾地にやってきた。その開墾地には、赤や黄色の、見たこともないきれいな花がたくさん咲いていた。あまりの美しさに二人は息を飲んだ。
探検家の一人Aが言う。
「きっと素晴らしい庭師がいて、ここを手入れしているんだ。」
もう一人の探検家Bは、
「こんな奥地にそんな庭師がいるはずがない。」
とこれに反対する。
そこで二人は、どちらの言い分が正しいか確かめるために、テントを張って監視することにした。
二人は幾日も待っていたのだが、いっこうに庭師は現れない。何日経っても、人が出入りする気配はなかったのだった。
「きっと僕らが寝ているあいだに現れたんだ」ということで、二人が交代しながら夜も見張っていたが、それでも庭師は現れない。
探検家Aは「それじゃ、眼に見えない庭師なのだろう」
というわけで、二人はその一面を鉄線を張り巡らして、その鉄線に電流を流した。
しかし、それでも侵入者を感知することはできなかった。
とうとう最初から疑っていたほうの探検家Bが
「これで分かったろう。庭師なんかいないのさ。」
探検家Aは庭師の存在を信じているので、言う。
「そんなはずないよ。見てごらん、この美しさ。絶対に誰かが手入れしているんだ。」
探検家B「だって何も見えないし、触ることできないじゃないか。」
探検家Aはそれでもこう言い募る。
「見えもしなければ、触れもしない庭師なんだよ。」
探検家Bは苛立って言う。
「君の主張にはあと何が残っているのか。君が「眼に見えず、触れることもできず、永遠に感覚では捉えることのできない庭師」と呼んだものと、「庭師なんて元々いない」というのとどう違うのか。」
この「庭師のたとえ話」は神の存在を論じたものである。
この話を、あるネットの中で次のように説明している。
「(探検家A)が「庭師が存在する」と信じたのは、こんな所に美しく話が咲いているということは、意志・目的をもった人格的な存在の働きがあったからだ、と考えたからです。
自然がただの機械だったら、ここまで美しいものはできないだろうという論理的には根拠のない推論によって、自然とそれをつかさどる庭師の二種類の存在があると考え、存在者を一つ増やしたのです。
「増やした」ということは、自分で庭師という存在を「造り出した」ということです。あるいは論理的な根拠もなしに、庭師が存在すると「思い込んだ」ということになります。
ここで注意しなければならないのは、「庭師が存在する」と信じたからといって、自然について何か新しいことが分かるわけではないということです。
…宗教的信念は、真偽を確認できません。なぜかというと、絶対に感覚でとらえることのできない庭師が見えないからといって、庭師が存在しないことにはなりません。ですから、庭師がいないということを示す証拠は存在しません。庭師は私たちの感覚でとらえられないのですから、庭師が存在する証拠も、もちろん観察によってはえられません。ですから、庭師は存在するともしないとも、観察からだけでは確認できないのです。」
(引用終り)
庭師という神が存在すると信じたほうが、自然の不思議さ・節理・秩序の責任者を見いだすことができて、自然を、そして世界を十分に納得できると考えるわけです。
さて、このたとえ話を現代の話として再構成してみよう。
「北海道苫小牧近辺で震度7の大地震が起きた。
二人の地震学者が震源地とされるところを見ていった。
地震学者のAが言う。「きっとここには活断層があって動いたんだ。」
もう一人の地震学者Bは、「気象庁が調べたところ、ここの地下には活断層が認められていないと言っているが」
地震学者A。「いや我々のしらない活断層が存在して、地震を起こしたんだ。」
地震学者B「活断層がないのだから、活断層によって地震が起きたとは言えないのではないか。」
地震学者A。「きっと僕らが寝ているあいだに現れたんだ。冗談さ。それじゃ、眼に見えない活断層なのだろう」
地震学者B
「熊本大地震のときも活断層がないところで地震が起きていたんじゃなかったか。」
「これで分かったろう。活断層なんか無いのさ。」
地震学者Aは活断層の存在を信じているので、
「そんなはずないよ。見てごらん、この大地震。絶対に活断層があったから動いたんだ!」
更に地震学者Aはこう言い募る。
「見えもしなければ、触れもできない活断層なんだよ。」
地震学者Bは苛立って言う。
「君の主張にはあと何が残っているのか。
君が「眼に見えず、触れることもできず、永遠に感覚では捉えることのできない未知の活断層」と呼んだものと、「活断層なんて元々無い」というのとどう違うのか。」
この地震学者Aにとって、活断層は見えない庭師のようなものだ。
地震は起きる、どこでも起きる、予測確率が低い場所でも起きる。
「庭師が存在する」と信じたのは、こんな所に美しく話が咲いているということは、意志・目的をもった人格的な存在の働きがあったからだ、と考えたのと同じように、活断層(及びプレートテクトニクス)の存在の働きがあったからだと考えた。
「自然がただの機械だったら、ここまで美しいものはできないだろうという論理的には根拠のない推論によって、自然とそれをつかさどる庭師の二種類の存在があると考え、存在者を一つ増やしたのです。
「増やした」ということは、自分で庭師という存在を「造り出した」ということです。あるいは論理的な根拠もなしに、庭師が存在すると「思い込んだ」ということになります。」
と同様に、活断層がなければ地震というものは起きないだろうという「根拠のない推論」によって、活断層という存在を「造り出した」ということである。
神の如くの活断層。活断層は信仰によってできている、「造り出されている」のであった。
「君の主張にはあと何が残っているのか。君が「眼に見えず、触れることもできず、永遠に感覚では捉えることのできない未知の活断層」と呼んだものと、「活断層なんて元々いない」というのとどう違うのか。」
地震学者Aつまり定説地震学者はもう科学者とは言えない。信仰の世界で「信ずること」を世界に広める宣教者のことである。
言うまでもなく、地震学者Bとは、地震爆発論を提唱する学者のことである。
最近の新聞によると、地震学者は、北海道大地震の震源のことは未知の活断層だからと放っておいて、一応知られた活断層帯と結びつけて、次の地震はこの知られた活断層帯が地震を引き起こすから気を付けよ、と論点をすり替えている。
「北海道で最大震度7の揺れを観測した地震の影響で、震源の近くにある活断層の一部に新たなひずみが加わった可能性があることが専門家の解析でわかりました。専門家は「影響は無視できず、今後の地震活動に注意する必要がある」と指摘しています。
活断層のメカニズムに詳しい東北大学の遠田晋次教授は、今月6日、北海道胆振地方で発生したマグニチュード6.7の地震が周辺の活断層に与えた影響を、地震の揺れのデータなどから解析しました。
その結果、震源の北西にある活断層「石狩低地東縁断層帯・主部」のうち、断層の南側の深さ15キロ付近の一部に新たなひずみが加わった可能性があるということです。」
「今回の地震と石狩低地東縁断層帯の関連は不明とする。一方、国立建築研究所国際地震工学センターの北佐枝子主任研究員は約10キロと浅い震源で起きる地震に着目。
「震源の延長に断層帯があり、今回の震源断層とつながっている可能性も否定できない」と話す。日高山脈周辺では1970、82年にも大地震が起こった。北氏は「地下構造が複雑で推測は難しいが、たびたび地震が起こる場所なのは間違いない」と語る。」
これらの地震学者の発言は二つの意味で許しがたい。
ひとつは、北海道大地震の地震原因については、頬っかむりしていること。もうひとつは、今後震度7のような大地震が起きたら、石狩低地東縁断層帯にひずみが加わったからと逃げを打っていること。そしてそれは益々苫小牧CCSと地震の関係を無視することにつながるということである。