経団連の新会長に日立製作所会長の中西宏明氏が就任したことを受けての社説だが、この社説を書いた人間はアホじゃないだろうか。

 次のくだりが問題の箇所だ。

 

「…会員企業の間には、榊原氏が政府との関係改善を優先するあまり、「モノ言う姿勢に欠けた」との不満もあった。

 財界と政府が良好な関係を保つことは大切だが、追従が過ぎれば存在感は示せまい。

 国の重要政策である財政再建や社会保障制度改革についても、民間の意見を反映させる役割がある。経済財政諮問会議や未来投資会議を通じて、時には政府に厳しい注文を付けていくべきだ。」

 

「財政再建や社会保障制度改革についても、民間の意見を反映させる役割がある」としているが、経団連だけが民間の意見を代表しているように書くのはいかがなものか。

経団連は経営者の集まる圧力団体に過ぎない。一般国民とは利害が反する。

企業と国民の利害が反すれば、経団連は企業の立場でものをいう。当たり前だ。政府に対しては民間の代表ではなく、企業の代表として注文を付ける。経団連の使命からすれば当然のことだ。

 

だから経団連は、国のこと、国民のことを思って提言などするのだろうか。する訳ないのである。企業利益を高めることしか考えないのが経団連ではないか。そんな経団連に読売は何を期待しているのか。アホじゃないだろうか。

 

資本主義の企業は、株主に最大の利益(配当)をもたらすことを以て、その目的とする。コストを最小にするのが目的である。

昔、宮内オリックス社長(当時)が言っていたように、企業は「株主にどれだけ報いるか」であって「雇用や国のあり方まで経営者が考える必要はない」、というより、考えてはいけないのです、「国賊」こそ正しい経営者のあり方です、と宮内義彦は昔堂々と宣言していたのである。

このことば、今聞くと当たり前のように聞こえるが、当時は自明のことではなかったのだ。それだけ日本社会と企業はおかしくなってしまった。

 

経団連が「雇用や国のあり方まで考える必要はない」というのが、今や本当のところなのであり、そうであるなら、国の重要政策である財政再建や社会保障制度改革について、余計な事をいってもらっては困るのである。日本のためにならない。彼らは国賊であり、「雇用や国のあり方」なんぞ考えていない、もし考えるとするなら、企業利益、株主利益になるような雇用や国のあり方を考えているのであり、国民にとってはトンデモナイ害を及ぼす奴らの団体なのだ。

 

そんな奴らに、モノ言う姿勢で存在感高めよ、と読売はバカな社説を書いているのだ

経団連が存在感高めるようにモノ申すということは、株主利益を最大化する政策を取れ、国民のことは考えるな、それも今まで以上にやれということを読売社説氏は「時には政府に厳しい注文を付けていくべきだ」と発破をかけているのだ。

バカもほどほどにしてくれ、読売よ。

そもそも働き方改革すら賃金抑制の政策でしかないことをやろうとしている。これ以上経団連を応援してどうしようというのか。

 

日本にも昔は立派な経営者がいたのだ。

先ほどの宮内オリックス社長(当時)の発言、「企業は「株主にどれだけ報いるか」であって「雇用や国のあり方まで経営者が考える必要はない」という発言は、今から24年も前の1994225日、千葉県浦安市の高級ホテル「ヒルトン東京ベイ」での「今井・宮内論争」と言われるところでなされたものだ。

 

このホテルに大手企業のトップら12人が新しい日本型経営を提案するため、泊まり込みで激しい議論を繰り広げた。論争の中心になったのが「雇用重視」を掲げる新日本製鉄社長の今井敬と、「株主重視」への転換を唱えるオリックス社長の宮内義彦だった。経済界で「今井・宮内論争」と言われる。

 

(「五十嵐仁の転成仁語」より)

この2日間にわたった合宿は、「舞浜会議」と呼ばれています。会議の座長は中村金夫経済同友会副代表幹事で、副座長は牛尾治朗ウシオ電機会長でした。

  ここで、一つの論争が繰り広げられたのです。その論争の中心になったのが今井敬新日鉄社長と宮内義彦オリックス社長だったため、経済界では「今井・宮内論争」と言われているそうです。

今井さんに同調したのが塙義一日産自動車副社長など「生産現場の和や技術伝承を重視する経営者ら」で、宮内さんを援護したのは牛尾治朗ウシオ電機会長や椎名武雄日本アイ・ビー・エム会長などであったと。

  このような論争があったということは、どのような方向をめざすべきか、この時点で、財界内では必ずしも意見が一致していなかったということを意味しています。実は、そのような意見の違いは、その後も解消されませんでした。

 

  それでは、論争の元になった意見の違いとは、何だったのでしょうか。

この会議に参加していた鈴木忠雄メルシャン社長は「日本的経営対アメリカ的経営のような」議論だったと書いています(鈴木忠雄「舞浜会議―“コーポレート・ガバナンス”揺籃期に経営者は何を議論したか」)。

  しかし、それだけではなく、「雇用」対「株主価値」、「社会の論理」対「資本の論理」などの対立軸もあったのではないでしょうか。

 

まかにいえば、従来の関係をできるだけ維持しようとする「国内派」の経団連や日経連、日商と、アメリカ的な市場原理主義によって構造改革を目指す「国際派」の経済同友会という対立構図が存在していたように思われます。いや、これらの財界団体を横断する形で、内需依存の製造業や流通関係と、多国籍化した大企業や外資系との意見の違いだったと言うべきかもしれません。

 

  別の言い方をすれば、「ステークホルダー論」対「株主価値論」の対抗でした。前者の立場に立つロナルド・ドーアは「株主価値論」を当然の前提としている「アングロ・サクソンの国でも、反体制派の学者・ジャーナリストはいる」として、彼らの「主張はさまざまだが、総じて『株主価値論』に対して、『ステークホルダー論』を対抗させる」と述べていました。

  ドーアによれば、この「ステークホルダー論」は「企業は公器であり、経営者は株主の利益ばかりでなく、他のステークホルダー(従業員、債権者、顧客、下請け会社、地域社会)の利害も勘案して行動すべきだ、とする」主張です(ロナルド・ドーア『誰のための会社にするか』岩波新書)。

日本の財界における「国内派」は「ステークホルダー論」に近く、「国際派」は後者の「株主価値論」を主張していたということになるでしょう。」

 

この会議の今井・宮内論争で、

宮内は

「企業は、株主にどれだけ報いるかだ。雇用や国のあり方まで経営者が考える必要はない」といい、

今井は

「それはあなた、国賊だ。我々はそんな気持ちで経営をやってきたんじゃない」

 

鈴木頌という人はこの会議を以下のように総括する。

私は、舞浜会議はならず者経営者の反乱宣言として捉えるべきだろうと思う。

おそらく彼らの主張は個別には採用せざるをえないものであったろう。97年問題での対応を見ると、むしろ遅すぎたのかもしれない。

首切り・合理化は世の習いであるし、不況の中で経営を守るためにはリストラは避けられない。いいとは言わないがやむを得ない場合はあるし、94年はまさにそういう局面だった。

 

宮内・牛尾らはそれを思想にしてしまった。そういう企業こそが良い企業なのだと開き直った。

そしてその理論的裏付けとして、80年代以降のアメリカの経営思想を直輸入した。それはアメリカの外圧をも背景としていた。

ところが産業界幹部はこれまでの「日本型経営」路線に自信をなくし、アメリカの外圧に対して思考停止状態に陥っていた。

97年から00年までの不況は、バブルのつけを払わされた時期だったから、誰がどうやってもあまり選択肢はなかったと思う。

それをやむをえざる事態と見るのか、それこそが企業精神の発露と見るのかは決定的な違いがある。」

 

 そして現在のような経営者の体たらくである。日本という国なんぞどうでもいい。自分の企業だけ、そして株主から怒られないように汲々として利益を出す。何のための利益か、単に株主から求められているからという経営者としての思想も精神も捨ててしまった日本の経営者たち。

今井敬氏のような武士はもう日本にはいない。株主に拝跪するアホ経営者ばかり。そしてこの間抜けな経営者の団体が経団連という組織なのだ。

 

 こんな団体に「モノ言う姿勢で存在感高めよ」とか「「時には政府に厳しい注文を付けていくべきだ」などと読売が言うのは笑止の沙汰なのだ。そもそも政府自体が経団連の先を行って会社・株主の為に大いに頑張っているではないか。

 読売は今井・宮内論争の経緯を紐解いて、なぜ日本がそして企業がこんなにも堕落してしまったのかを抉り出すべきだったのである。