昔、別のところに書いた文を再録します。

小学校時代の尊敬する恩師のことです。

 

私のきん八先生

 辻征夫という詩人の本が最近岩波文庫から出た。谷川俊太郎編「辻征夫詩集」 (岩波文庫)。辻は1939年東京向島生まれで2000年に61歳で亡くなった。Wikiには

「一般に彼の詩作品は、ライト・バースなどと呼び慣わされていて、軽い、つまりは厚味のない作品であるかのように見なされているが、実際にその作品を注意深く読むならば、重層的時空間が混沌として現前する、特異な体験を呼び起こすものであることが多い。」との解説。

 この詩人を昔から好んで読んでいたというのではない。実は全く知らない。ひょんなことからつい最近この詩人の存在を知ったのだ。

 

私も定年退職を迎えたので、夜ふっと子供の頃(小学校56年)の担任の先生「きん八先生」を思い出した。それでグーグル検索で先生の名前を入れてみた。墨田区立言問小学校楠本謹八先生(本当はきんや先生だけど)。

楠本謹八先生は、もう40年以上も前に亡くなったので、特に何か出てくるとは期待していなかったが、二つ三つヒットした。

 

辻征夫「これはいにしえの噓のものがたりの」

はてこれはいにしえの

噓のものがたりの

なんばんめであったっけ

瞑目し 沈思すれば

見えてくる 春爛漫の向島

土手の緋毛氈で茶の接待の芸者衆の

ひとりは読み書き算盤の仲間さ

羽子板屋の多加ちゃん楡美ちゃん

経師屋の銀ちゃんの二度めのおかみさんも

花見のときにはちゃんと花見だ

ほらおばあさんだってあんなににこにこわらっている

曾て《できる子はちがうねえ 顔付がちがうよ》

と近所でいわれた鮨屋の二代目おのづかゆきお

林檎に鍼打って修業した鍼灸のゆたか

知らぬまに夢の平次親分の手下になった

少年講釈師我武者羅斎無鉄砲

みんな長崎生れの楠本謹八先生の

何だかわからねえ教えを受けて

立派な与太もんになったってわけよ

母が

幼児のときにはおぶって子守したあきどん

いまじゃ鳶の棟梁のあきじで

出初めのときには小走りに母を迎えにくる

のぶさん いまは魚清の前ですよ

もうじきこのへんにきますよ

あきじの仲間の鳶源の弟のあさちゃん

このひとはおれが五歳の頃からおれを

《あにさん》と読んだ

だからおれはその頃から

あにさんだったってわけさ

ある日あさちゃん歯が痛くなって

古道具屋から馬の歯を抜く道具を借りてきて

口につっこんだ

もちろん

いてえといった

(後略)

 

 昭和二十年代・三十年代の向島界隈の風情を、辻が子供の頃に親しんだ幼友達を通じて描いている。

その中に突然我が恩師楠本先生が出てくる。ビックリ。

「みんな長崎生れの楠本謹八先生の

何だかわからねえ教えを受けて

立派な与太もんになったってわけよ」

辻が子供小学生の頃余程楠本謹八先生に影響を受けていたことが見て取れる。

 

また、「週刊墨教組」という組合の機関紙にも、辻と楠本謹八先生のことが書かれていた。引用されている「宿題」という詩の、「せんせい(先生)はせんねん(先年)としおいて(年老いて)なく(亡く)なってしまわれて…」の先生は楠本先生のことだ。

 

「週刊墨教組 No.1751号(2015.2.15) 長谷川政國       

『辻征夫詩集』が岩波文庫から刊行 

 言問小学校卒業の路地の吟遊詩人 谷川俊太郎・茨木のり子についで三人目

  辻征夫は、時として、やさしくなつかしい、陽だまりのような詩を書いた。

 

   宿題

すぐにしなければいけなかったのに

あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった

いまならたやすくできてあしたのあさには

はいできましたとさしだすことができるのに

せんせいはせんねんとしおいてなくなってしまわれて

もうわたくしのしゅくだいをみてはくださらない

わかきひに ただいちど

あそんでいるわたくしのあたまにてをおいて

げんきがいいなとほほえんでくださったばっかりに

わたくしはいっしょうをゆめのようにすごしてしまった

   *

辻征夫という「おそるべき純度の詩人」(小沢信男)がいた。言問小学校を卒業した。生涯、向島という水土への郷愁をうたいつづけた不世出の抒情詩人だった。その詩が、ついに、岩波文庫で読めるようになる。二月十七日、『辻征夫詩集』が、谷川俊太郎の編集によって、岩波文庫から刊行される。現代詩の書き手としては、谷川俊太郎、茨木のり子についで三人目となる。

  新刊案内には、つぎのように記されている。

やさしくて、茫洋として、卑下もせず、自慢もしないー。単行本未収録作品を含めた全作品から七〇篇を精選した。現代抒情詩の第一人者辻征夫のエッセンス。       

   (中略)

 辻は、詩について「私どもの仕事では、少年時代の夢がすべてなのである」という決意を書きとめている。じっさい、辻ほど、時を溯り、少年時代の自分自身を再見するために、くりかえしまぼろしの水土/向島に帰還しつづけようとした詩人はいない。

    *

  アルバムの余白に

ぼく

六年B組の

(屋上からグライダーを飛ばすのが好きだった)

あの

ぼくです

お元気ですか

先生 なんて

死んだひとには失礼だけど

それでも

お元気ですか 先生

もしも御無理じゃなかったら

ちょっとぼくのこころにひびいてきてよ

ほら

よく言ってくれたじゃない

つよく!

あかるく!

とかなんとかさ

 

 ながい月日がたったけど

(ヒューズがとんだり電池が切れたり)

ぼく 依然として

六年B組の

あの

ぼくです

―長崎の被爆者だった楠本謹八先生いまやなし。

私は昨年、先生より一歳年長になってしまった。(辻征夫)

 

  「楠本謹八先生」は言問小学校の教員であり、辻は彼の教え子であった。辻は、やさしかった「楠本謹八先生」について、「まちのうた・向島」で、つぎのように回想している。

 向島にはまた昔も今も花柳界があって、小学校の同級には後に芸者になった子供が何人かいた。なかに一人、親元を離れて使い走りをしながら、踊りや三味線を仕込まれている子がいたが、よく教室で居眠りをしていた。あるとき眠りながら踊りの手振りをしたことがあって、私たちは声をあげて笑いかけたが、そのとき眠らせておいてあげなさいと私たちを制したのは、いま思えば二十三歳の青年教師だったのだ。長崎から来た人で、楠本謹八先生といったが、四十二歳で他界した。

(後略)

 

辻は私より11歳年長だから、上記から換算すると、楠本先生が私の6年の担任の時は、高々34歳だったことになる。これまたビックリ。当時の楠本先生の年齢など全く知らなかった。その風貌、仕草等からして40代後半とばかり思っていた。だって、頭はハゲていたし、先生たちの中で一番偉そうにしていたし、いつもリーダーシップを発揮していたし、言問小応援歌は楠本先生が作詞していたし…。

いくら昔の人は年齢より老けてみえるといっても、34歳だったなんて。

 

 私も辻と同様楠本先生に大いなる影響を受けたひとりだ。辻みたいな才能は全くなかったけれど、教師の素晴らしさの評価はできる。私は楠本先生からいろいろなことを学んだ(気がする)。

先生は人の嫌がることは常に率先してやり、栄えあることは慎ましくするように指導された。

そのひとつの例は、体育館の掃除、毎週必ず体育館の床拭きと体育倉庫の跳び箱やマットの整理。これはいつも6年1組の仕事だ。子供心になんで1組だけがやらなくちゃいけないのか、不満に思ったものだ。また、遠足でのバス乗車は、1組は最後だ。1組は一番最初に乗ってしかるべきなのに、一番最後。こんなこと、今考えるとどうということはないが、楠本先生の教育方針の表れのひとつだろう。

 そして、授業の前に、いろいろな話をして下さった。長崎出身の楠本先生はあの8月9日の長崎原爆投下のとき、学徒勤労動員でとある工場にいたとき遭遇されたとのこと。詳しいことは忘れてしまったし、その当時の子供の知識では原爆の悲惨さは理解できていなかった。しかし、そういう話も含めて、いろいろな話をして下さった。

辻が描いているエピソード「…眠りながら踊りの手振りをしたことがあって、私たちは声をあげて笑いかけたが、そのとき眠らせておいてあげなさいと私たちを制した」楠本先生に、若き教師の人情を感じてしまう。

 

 四十二歳という若さで他界したのは、恐らく原爆後遺症だと思われる。本当に残念なことだった。日本中に素晴らしい先生はいると思うけど、詩人辻征夫が描き、それがインターネットを通じて後世まで残されたことを思うと、私は楠本謹八先生の教え子だったことを今でも誇らしく感じている。