もういい加減にしてほしいものだ。貴乃花を正義の味方、改革の旗手とおだてるのは。その反面で白鵬以下のモンゴル力士へのバッシングが高まっている。マスコミも反ヘイトと言いながら、モンゴル勢に対しては日馬富士暴行事件というお墨付きを持っているから、差別感情をいくら丸出しにしてヘイトしても、全く意に介さないという体たらくだ。

 

 今日もワイドショーは貴乃花オンリーだったし、7時のNHKニュースのトップも貴乃花聴取問題とは、あまりにバカバカしくてチャンネルを変えるしかない。だから最近の貴乃花の動きには詳しくはない。たまに見るテレビのコメンテーターの激しい貴乃花擁護と相撲協会バッシング(その裏には白鵬バッシング)の叫びにはイラつくというより、まさに台本に従って発言するコメンテーターらに哀れを催すのみだ。

 

 貴乃花のテレビを見ないと言いながら少しは見ているのだが、先日国技館での研修会で、八角理事長の講義を睨みつける貴乃花の眼つきは凄かった。まさに狂気!こんな顔を後で貴乃花は自分で見て、どう思うのだろうか。俺ってカッコいいとでも思うのか。

 

 徐々に生じてきた感情がある。こんなキチガイじみた貴乃花の顔は見たくないのは前からだが、相撲自体見たくないという感情の高まりだ。

あんなクソ面白くない貴乃花の顔が取り組みの度に思い浮かぶなんてケタ糞悪いではないか。相撲自体に興味がなくなってきたということだ。国技といっても実は国技でも何でもない、たかが相撲興行にそんなに入れ込む義理も必要も何もない。日本的スポーツとして面白いから見るだけの話だ。やはり面白い、楽しいがまず最初になければならない。

 それをぶち壊したのが貴乃花だ。貴乃花が何を改革しようとしているか知らないが、というより何もないのだろうが、単に八角嫌い、俺に権力寄こせということをモロに出してくる貴乃花が何を偉そうに言おうと、相撲自体を薄汚れたものにしてしまったのは貴乃花だ。

 

貴乃花擁護派は「いや、白鵬が悪い」というだろうが、白鵬が仮に悪くても身内のことは身内で収めるのが大人のやるべきことだ。身内と言っても、伊勢ケ浜親方と貴乃花が手打ちをしろと言っているのではない。相撲協会ノ中で落ち着くところに落ち着かせればいいだけの話だ。それを八角理事長追い落としとあわよくば白鵬以下モンゴル力士追い落としの両方を大っぴらに画策して問題を大きくしたのは貴乃花だ。相撲興行は今後凋落していくだろう。その意味で貴乃花の責任は大きい。

 

 週刊誌では白鵬が悪人のように描かれているらしいが、前にもこのブログで書いたように白鵬の最近の相撲興行に対する貢献は著しい。裏のことはよくわからないが、好ましくないこともあったかもしれないが、それは事実として明らかにされていないのにそれを持ち出すのは、モンゴル人差別に通ずるだろう。

 

 NHK7時のニュースでペルーのフジモリ元大統領の恩赦が決まったと報じていた。それを聞いてすぐに心に浮かんだのは白鵬のことであった。

 

【ロサンゼルス=住井亨介】南米のペルー政府は24日、在任中の人権侵害事件で服役していたペルーのフジモリ元大統領(79)について、人道的恩赦を与えることを発表した。フジモリ氏は約10年間、首都リマ郊外の警察施設で服役していたが、近く釈放されることになる。

 フジモリ氏は、左翼ゲリラと間違えられた市民らが軍に殺害された事件などで、2010年に禁錮25年が確定して服役していた。政権末期の独裁化や人権侵害をめぐって国民の反発が根強く、歴代大統領は恩赦を認めてこなかった。(引用終り)

 

 フジモリ氏は熊本出身の日系ペルー人でペルー人質事件の解決には巧みな手腕を発揮して日本人としても誇りに思ったものだ。しかし、その後は大統領が訴追されて刑務所に入るという韓国のようなことが起こった。すぐ思い起こされたのは、日系人差別の形を変えたものだろうという推測だ。

国際政治評論家田中宇氏が当時のフジモリ大統領について書いている。

 

日系人社会はフジモリの出馬を迷惑がり、説得して立候補を思いとどまってもらおうとした。もし落選すれば、日系人は政府から目の敵にされる可能性があったからだ。その不安は今も、いずれ彼が大統領でなくなる日まで、先延ばしされているにすぎない。」

 

 ここには具体的にはペルーの日系人差別について書かれていないが、ペルー在住の日系人の危惧が書かれている。ペルーの日系人差別がどのようなものか書かれているブログがあったので紹介しよう。

 

ブログ「舞茸な日々」

フジモリ判決とペルーの人種差別 2009/4/11

 ペルーの元大統領のフジモリさんが、在職中のテロリスト殲滅作戦で一般人を殺した罪で有罪になった。 彼が有罪になるのはわかっていたのでそんなに驚かなかった。この裁判も判決も、日系人であるフジモリさんに対する人種的な偏見が動機になっているからだ。

(中略)

25年前初めて南米に行って、東洋人であることから一番バカにされたのはペルーだった。スペイン語で中国人のことを「チーノ」と言うのだが、この言葉は東洋人全般に対する蔑称としても使われる。私はペルーにいる間よくペルー人たちに「チーノ」「チーノ」と嘲られた。リマは都会だし東洋人が多いからそうでもなかったが、クスコは特にひどかった。クスコの街を歩いていると、子供や若者によく「チーノ」とバカにする口調で呼ばれたり、「チーノコッチーノ」と揶揄された。「コッチーノ」とはスペイン語で薄汚いという意味で「チーノ」につけて「チーノコッチーノ」と掛け合い言葉のように言うのだ。

すれ違いざまに蔑みと憎しみを込めた目で睨みつけながら「チーノ」と吐き捨てるように言うインデヘナ(先住民)の若者や女がいた。

もちろん私は彼らに何もしていない。 彼らを蔑むそぶりは見せてないしバカにしたことを言ってもいない。それなのに東洋人であるというだけであんな目に遇うのは辛かった。

なぜ彼らは東洋人をバカにするのか? 私が思うに彼らは優越感に飢えていたのだろう。ペルー人のほとんどは500年前にスペイン人が侵略して以来、すべて奪われ犯され支配され虐げられ続けてきた人々の子孫である。そして彼らは今でも、一握りの金持ちや有力者に支配され続けて貧しさにあえいでいる。 彼らには人生に対する絶望とあきらめと、白人に対する絶対的な劣等感がある。 優越感を味わうには人より優越していれば一番いいのだが、これは実際にはむずかしい。それよりも人をバカにすることで、自分より引き下げた方が手っ取り早くて簡単だ。いじめっ子といじめられっ子の関係のように、差別もされる側より、する(したがる)側の方に問題があるのだ。

(中略)

彼らが東洋人や黒人をバカにしたがるのは、白人には何をされても怒れないのだから、それを補償するためなのだと私には思える。彼らにとっての中国人のイメージは、19世紀末に奴隷として南米にやってきた薄汚くてわけがわからない連中のままのようである。それがきれいな恰好をして裕福そうにしているから腹が立つのだろう。日系人はペルーには遅く来たのに成功している人が多いので妬まれているのだが、客観的に見れば日本人はペルー人より教育水準(学校だけでなく社会全般の)が高いから頭がいいし、ペルー人よりよく働くし、困難にぶち当たってもあきらめないで頑張るから成功するのは当たり前なのだ。

それがペルー人からすると不思議で「後から来たくせに成功してるのは何かずるいことをしてるに違いない」と思っているようだ。その不満と妬みを爆発させたのが第二次大戦時の日系人排斥である。

こんな風だったから私はフジモリさんが大統領に立候補したのを聞いて、絶対当選しないと思っていた。ところがフジモリさんは当選し、大統領になってからは内戦状態だったテロリストたちとの戦いに勝利し、年率9,000%を超えるインフレを鎮め、小学校を整備し、壊滅的だった道路、水道、電気といったインフラをなんとか元の状態に戻した偉大な業績をあげた人だ。それなのに腹心の部下のモンテシーノスが(おそらく)勝手にやったことのせいでしつこくいじめられて、過去の業績は全然顧みられてない。

 

彼の一代前のアラン・ガルシアという大統領は、36歳という若さで大統領に当選したので「ペルーのケネディ」と呼ばれて期待されたが、任期中は業績を上げるどころかかえって国の状態を悪くし、その上汚職疑惑まで持ち上がって、次の大統領のフジモリさんに訴追されて外国に亡命していた。フジモリさんが失脚した後で許されて帰ってきて、今はまた二回目の大統領に当選して現役でいる。アランは白人系で、フジモリさんを訴追した前大統領のトレドは原住民系だ。トレドは白人のアランが汚職したのは許せるが、小汚いチーノのフジモリが多大な業績を上げたのは許せないということか?

それよりもフジモリさんの、議会と憲法を停止したやり方が許せないのだろう。ペルー人としてのプライドが、そんなやり方をしなくても問題を解決できたと思っているのだろう。しかし、実際のところあーいうやり方でなければ、ペルーは未だにテロリストが跋扈して悲惨な状態だったと私は思う。

私が89年にペルーを再訪したときは、84年当時に通れた場所もゲリラに制圧されて訪問できず、まるで内乱状態だった。これはペルーに限らず南米はどこもそうだが、ラテン系のお国柄のせいか皆自己主張ばかり強くて、権利は目一杯言い張るくせに義務は全然果たさない人が多い。反省ということを知らず、先のことは全然考えず享楽的で、言うことは立派だが行動が全然伴っていない。だから南米の国々が一番落ち着いているのは実は軍政の時なのだ。

(中略)

フジモリさんは強権的な手法でペルーを改革しようとして結局追放されたが、それはそうしないとペルーがよくならないと思ったからだろう。ペルー人からは忌々しいかも知れないが、たぶんフジモリさんの方が正解だったと思う。

私が彼の政策でもっとも驚いて感心したのは、山間僻地に住む農民(以前インディオと呼ばれていた人たち)に銃を配って自警団を結成させたことだ。それまでは彼らはゲリラが来ても抵抗することができなくて、言うことを聞くか殺されるしかなかった。 政府軍はところどころにしかいないし、いてもゆすりたかりや強姦事件などをよく起こすからあまり近くにいても困る。結局農民たちは犠牲になるしかなかったのだ。ところが歴代の政権は誰一人農民に武器を渡そうとはしなかった。もし武装した農民が反政府側にまわったら大変だからだ。

 フジモリさんはこの誰もが怖がってしなかったことをやって見事に成功させた。農民たちは政府から支給された銃でゲリラを撃退し、そのおかげで最大のゲリラ組織「センデロ・ルミノッソ」はついに壊滅した。私はこのことでフジモリさんの無実を確信している。テロリストを殲滅するために一般国民がどうなってもいいと思っていたら、こんな方法は採らないだろう。

 今までの大統領の中には農民をただ見殺しにしただけでなく、軍が一般人を虐殺した事件に責任がある人がいたのに、誰かがそのことで訴追されたと聞いたことがない。それがこの裁判が人種差別から起こされたものだという証拠である。

(中略)

 ペルーのマスコミはフジモリ退陣の直前には「黄色いクソ野郎はペルーを出て行け」とかデカデカと書いたほど人種偏見が強いから、実際はもっと有罪に反対する人が多い可能性がある。

(後略)」

(引用終り)

 

 出る杭は打たれる。差別感情は屈折して水面から浮かび出る。相手が優秀であればあるほど、この妬み感情をどこかで処理しなければならない。ペルーの日系人差別の象徴としてフジモリ元大統領が選ばれた。白鵬も同じだろう。排除の象徴として貴乃花とマスコミは白鵬を選んだ。

 

 フジモリ氏も白鵬もペルー或いは日本では異人だ。ここで民俗学者赤坂憲雄「異人論序説」から「異人」意味を考察してみる。

自分で解説するのは面倒なので、あるブログ「青い花」から引用する。

 

「「異人論序説」は赤坂憲雄氏の1985年のデビュー作。本書は、あらゆる共同体が共同体自身として存在し続けるためには絶えず〈異人〉を生み出し排除しなければならないと指摘する。

あらゆる境界は供犠の所産であり、〈異人〉は内部と外部の境界を司る聖なる生贄とされる。境界とは浄と不浄が両義的に重なり合う界隈、〈異界〉の入り口であり、禁忌空間でもあった。

定住民にとって、共同体の外部から訪れる人々は〈異人〉である。未知なる〈異界〉に由来する要素を秩序の内部に持ち来たらす〈異人〉は畏怖と禁忌の対象となる。

〈異人〉の神秘性の由来は、彼らが混沌の彼方からの訪れ人であり、また、秩序と混沌を媒介する両義的存在と信じられていることにある。

 賤/神聖、不浄/浄の間を往還する〈異人〉は以下のように分類される。

・一時的に交渉を持つ漂白民(遊牧民など)

・定住民でありつつ一時的に他集団を訪れる来訪者(海外派遣の商社マン・宣教師など)

・永続的な定着を志向する移住者(移民・地域社会への転入者・転校生など)

・秩序の周辺部に位置付けられたマージナル・マン(精神病者・身体障碍者・非行少年・犯罪者など)

・外なる世界からの帰郷者

・境界の民としてのバルバロス

 

 なぜ、〈異人〉は排除されつつ歓待されるのか。

宗教力には二つの種類がある。すなわち、生命・健康などの特質を持つ秩序の保護者である正の宗教力(浄・吉)と、無秩序の生みの親、死や病気の原因となり瀆聖をそそのかす負の宗教力(不浄・不吉)である。浄と不浄は互いに禁忌し合いつつ、同時に両極から補い合う二つの部分として構造化されている。

天皇と賤民、国王と死刑執行人もしくは道化…これら正・負の宗教力はいずれも〈俗〉な存在にとっては禁忌の対象である。不浄なる存在も、浄なる存在と同様に〈俗〉に対する〈聖〉を構成するものと考えられる。つまり、浄と不浄は別箇のものではなく、すべての〈聖〉を含む同じ網の二変種であるのだ。

こうした〈聖〉に内在する象徴回路を、〈異人〉の構造を読み解く手掛かりにすると、〈異人〉は〈俗〉なる世界=共同体に属さぬために、穢れ(混沌)を帯びた存在として不浄視されつつ、一定の儀礼的コンテクストの転換に伴い清浄なる存在へと変身を遂げる。

〈異人〉は共同体から排除されるがゆえに〈聖〉性を帯びた存在となるのだ。この構図の上に、共同体と〈異人〉の織り成す両義的光景…排除と歓待はひろがっている。

 〈異人〉とは、共同体とその外部との〈交通〉をめぐる物語である。

内部/外部、秩序/混沌、清浄/不浄、自己/他者…といった無限に反復・再生される二元論という名の強迫的なるものの上に絶え間なく〈異人〉は分泌される。

強迫的に繰り返される〈異人〉産出を通して共同体の平和が保たれている限り、いじめも差別もなくならないだろう。教育関係者の口にする「人の痛みを分かりましょう」となどという言葉がいかに的外れであることか…。

集団は、生贄を心身ともに痛めつけることによって負のスティグマを与え、〈異人〉に仕立て上げているのである。」

(引用終り)

 

フジモリとペルー日系人はまさにペルーの異人であった。そして排除されつつ歓待され、ついには生贄に供された。

白鵬もモンゴルからはるか離れた日本にやってきた。異人としてやってきた。非常な努力をして横綱になった。しかしその間日本人からかなり差別を受けたことだろう。

赤坂憲雄の言に従うなら、

「定住民にとって、共同体の外部から訪れる人々は〈異人〉である。未知なる〈異界〉に由来する要素を秩序の内部に持ち来たらす〈異人〉は畏怖と禁忌の対象となる。」

 モンゴル力士という「〈異人〉は畏怖と禁忌の対象となる」のであった。そして排除する代表は貴乃花なのであり、「強迫的に繰り返される〈異人〉産出を通して共同体の平和が保たれている限り、いじめも差別もなくならないだろう。」ということは、白鵬を生贄にし、モンゴル力士に対する排除は永遠に続けるという衝動を定住共同体つまり貴乃花に代表される日本人は持ち続けるということである。

 

マスコミもコメンテーターもモンゴル力士という異人排除の片棒を担いでいるということだ。

 

貴乃花の改革と正義の正体は「異人の排除」ということにあるのである。そんな正義は願い下げだ。龍神総宮社から早く縁を切れ!