前原民進党代表を見ていると、いつも心なしか目が潤んでいて、泣いているように見えるのは私だけだろうか。

 そんな自信なさげな顔つきでよく民進党の代表になったものだとヒヤヒヤしていた。

 

 そんな前原が大英断とはとてもいえないものの、でも、とてつもなく大胆な決断をしたものだと感心する。だって代表自らが民進党自体を否定したんだから。

「この政党はだめなんです。このままでは戦っても必ず負けます!」

と戦う前から白旗を上げたんだから。前代未聞といえる。錯乱か勘違いか。

 

 前原のやっていることは、乞食の物乞いだ。恥も外聞も捨て、自分(前原自身のことではなく、民進党全体のこと)可愛さから、小池百合子という全く中身のない実体のない政治屋に縋(すが)りついていく。

みっともないったらありゃしない。民進党の代表のくせに、自分の党にそんなに自信がないのか。党首としての矜持を持て!といいたい。

 

 それにしても代表がアホなら民進党議員連中もみんなアホじゃ

小池にお縋(すが)りしますと前原が両院議員総会で提案した時、相当紛糾するのではないかと思っていたが、あっさりと満場一致で了承されたとか。

こりゃ駄目だ。民進党議員たち自身が国民から見放されていると思っていたとはね。

 

しばき隊の野間易通が「民進の希望への合流、1ミリも良さを見出せない」とツイッター。当然の反応だろう。

 

 前原はなんでこんな愚にもつかない決断をしたのだろうか。

 民進党が国民の支持を失っているのはよく分かる。支持率調査で明白だ。

そうなった原因は民主党政権時のバカげた政権運営にあったのは確かだが、直近では蓮舫を代表にしてから急速に強まったのだ

つまり、1強多弱においては、政策のなかみではなく、如何にマスコミを味方にし、国民の関心を安倍否定に持ち込み、国民の支持を獲得できるかという宣伝活動のみに偏した行動をしてきたことだ。

だから、実体のない小池人気にすり寄れば何とかなるのではないかというスケベ根性を起こしたのだ。

 

 しかし、小池党は何らの実績もない。あるのは都民ファーストの会の都議選の実績のみだ。これを誇大に評価して民進党崩壊と怯えてしまった。まるで平家が源氏を追討しに行って、富士川で水鳥の羽音に怯えて自滅したようなものだ。

 

ここで富士川の戦いはどういうものだったか、見て見よう。

富士川の戦いとは、駿河国富士川の河口付近で行われた源平の合戦。

東国源氏の反乱を鎮圧するために下向した平維盛を総大将とする平氏の遠征軍は、1180年(治承41018日富士川西岸に布陣、片や源頼朝は、20日富士川近くの賀島(静岡県富士市)まで兵を西進させた。

しかしこの戦いの主導権は、すでに14日に富士山西麓の鉢田に駿遠両国の平氏方現地連合軍を撃破していた甲斐源氏の手中にあった。

 甲斐源氏の一族武田信義の軍勢が、20日夜半、遠征軍の背後に進出しようとしたところ、これに驚いて飛び立った水鳥の羽音を大軍の来襲と誤認した平氏軍は総崩れとなって壊走したという。

この勝利により、東国における源氏の優位が確立した。(「日本大百科全書(ニッポニカ)」より)

 武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。『平家物語』はその狼狽振りを詳しく描いており、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたとのこと。(ブログ「万屋満載」より)

 

 まさに現代日本の民進党のあわてふためく振りと同じではないか。小池党なんて富士川の水鳥でしかないのに。

 

 『平家物語』では、なぜ平家が水鳥の羽音にびっくりあわてたのかについて、次のような場面が挿入されている。

  総大将の維盛が、関東出身の斎藤実盛に「そなたほどの優れた武士は、関東にいかほどいるか」と尋ねる。

すると、実盛は「関東には、私よりはるかに優れた武士がいくらでもいます。親が討たれたら子は親の屍を乗り越え、子が討たれたら親は子の屍を乗り越えて進むような武士ばかりです。しかし西国の武士は、何かと口実を見つけ、戦場から引こうとする弱虫ばかりです」と話す

 この実盛の話が、水鳥の羽音を恐れて逃げる平家軍の話しの伏線になっているのだ。(ブログ「万屋満載」より)

 

 つまり、民進党は都議選の結果から、相手は強いが自軍は弱虫ばかり、と代表はおろか民進党全議員共通の思いになっていたのだ。だから、小池に救ってもらいにいこうという乞食の提案に、民進党全議員が簡単に了承したのである。

 

「農と島のありんくりん」氏が今回の件を面白く書いている。

「小池新党に個別面談に行って難民申請してくれということのようです。小池側からすれば、難民に紛れて浸透しようとする武装難民はお断りだということのようです。

左翼革命家くずれが佃煮にするほど生息する民進党など丸ごと引き受けたら、頭数が多いだけにグチャグチャにされてあげく、共に海底にまで引き込まれるのは目に見えていますからね。

 で、窮した前原船長は「皆んなを見捨てたわけじゃないよ。オレが率先して漂流民になるからさ」とばかりに無所属立候補宣言を発して、泳ぎ出してしまいました。

 

 悲壮というか、馬鹿というか。前原さんなら無所属でも当選するでしょうが、大部分の救助拒否組は落選間違いなしですよ。

馬鹿正直に民進党の「安保法制白紙撤回・改憲阻止」の旗を握りしめていた人たちからすれば、さっさと先に逃げた細野・長島両氏など許せない裏切り者です。

 

しかし、先に逃げた連中からすれば、「お前ら、つい先日まで小池は改憲極右だと言っていたじゃないか。どのツラ下げて極左が極右にしがみつくんだ。その手を放しやがれ」というわけで、なにやら修羅場です。

ニュートラに見れば、どちらもどちら、しっかり両方とも「裏切り者」です。

 

したがって、小池新党は「裏切り者の希望の党」、あるいは「逃げそこなった者の絶望の党」と言うことになります。

 なんと小池さんの昔の師匠だった小沢一郎氏まで合流するとか。もう闇鍋ですな。新鮮な「改革保守」かと思ったら、小沢のジィ様が出てくるんですから(苦笑)。」

 

 これで小池党をスッキリ支持する有権者はかなり減ったのではないでしょうか。清新さなど全くなくなりました。

 いくら浮わついた言葉を並べてしがらみのない政治といっても、大部分は民進党出身者なら「しがらみ」だらけではないでしょうか。

 

 それにしても小池人気はフェイクです。実態がありません。こんな掴みどころのない幽霊のような、いや詐欺師の誇大広告のようなものに前原はなぜ騙されたのでしょうか。

 

 ファンタスマゴリーという言葉があります。小池のように英語を偉そうに使ってみます。

小池人気はファンタスマゴリー(幻影)のようなものです。ワルター・ベンヤミンのことばですが、仲正昌樹という哲学者が「商品」の魔術について、ファンタスマゴリーという概念で解説しています。

 

ファンタスマゴリーとは、何の変哲もないオブジェに光を当てたときにできる影を、スクリーン上に巨大な化け物のように拡大して映し出す幻灯装置のことである。

 マルクスは、資本主義的に生産された「商品」が市場において人々の需要を喚起して取引を成立させ、「資本」の拡大的な再生産を可能にする秘密は、「商品」のファンタスマゴリー的な性格にあるという見方をしている

 つまり、「商品」自体は必ずしも使用価値がそれほど高くないつまらないオブジェであっても、商品市場というスクリーンに映し出されれば、化け物のように拡大されて魔術を発揮することもあり得るということである。

 ここで「光」に相当するのが、買い手=消費者の欲望である。私たち自身の欲望が、ありふれた商品に大きな交換価値を付与しているが、私たちはそのことになかなか気付かず、商品のファンタスマゴリー的な魔力に翻弄されているのである。

 

 「流行」が激しく変転し続けているせいで、昨日はとてつもないファンタスマゴリー的な魅力を発揮していたが、今日は誰も見向きもしないただのガラクタになっているかもしれない。」(仲正昌樹「分かりやすさの罠」ちくま新書から)

 

「「商品」自体は必ずしも使用価値がそれほど高くないつまらないオブジェであっても、商品市場というスクリーンに映し出されれば、化け物のように拡大されて魔術を発揮することもあり得るということである。」

 

小池百合子という商品を的確に説明しています。使用価値つまり中身、小池という政治家の力量のことです。これがつまらないオブジェであっても、つまり小池の能力は都知事として無能であることがはっきりしたわけですから、まさに「つまらないオブジェ」といえるでしょう

しかし、「商品市場というスクリーンに映し出されれば、化け物のように拡大されて魔術を発揮することもあり得る」と。小池が愚民という有権者のスクリーンに映し出されれば、化け物のように拡大されるということです。実体と大きくかけ離れて。

 

「ここで「光」に相当するのが、買い手=消費者の欲望である。」と。つまり愚民の欲望。

それは政治という舞台が面白ければ面白いほどいい、国家がどうなるとか政策がどうなんて関係ない、まさにワイドショー。

そして、その幻影を愚民自体が実体と思いこんでしまうという魔術。これがファンタスマゴリーであり、商品の魔術、小池の魔術なのである。

 

別に難しい手品でもなんでもないのに、政治のプロである民進党前原らはころっと参ってしまった。まさに富士川の水鳥状態なのだ。

 

しかし、仲正昌樹氏はファンタスマゴリーについてとってもいいことを言っている。

 

「「流行」が激しく変転し続けているせいで、昨日はとてつもないファンタスマゴリー的な魅力を発揮していたが、今日は誰も見向きもしないただのガラクタになっているかもしれない。」

小池人気に実体がない。それは移り気な愚民たる有権者が支えているだけだ。昨日までの絶大な人気も「今日は誰も見向きもしないただのガラクタになっているかもしれない。」と。

「かもしれない」ではなく、絶対にガラクタになるだろう。

 

 実体がないこともそうだが、愚民の愚民たる所以は移り気、つまり飽きてしまうのである。これは不変の原理だ。「飽きる」。

小池にとっては恐ろしい事態だ。だから小池はいつまでもいつまでも舞台で踊り続けなければいけない。しかし、いくら踊り続けても、愚民は飽きるのである。タモリもタケシもさんまもみんなもう飽きられているように。

 

そんな小池に民進党のすべてを預けてしまった前原民進党代表は稀代の愚か者というしかない。

それはそれで日本という国にとっては素晴らしいことをなしたとはいえるけれど。

 

<追伸>

ノンフィクション作家門田隆将が面白いことを言っている。

「…護憲リベラル勢力は「選挙の前に」すでにほとんどが壊滅してしまったが、その悲喜劇は、むしろこれからが「本番」と言えるのである。

結局、小池党首が言う「リセット」とは、平和ボケしたリベラル勢力を「リセット」することだったことに気づいた向きも多いだろう。だが、まだ、あきらめてはいけない。

 見方を変えれば、“抱きつき合流”によって、希望の党の中心勢力になるのが旧民進党の連中なのだから、彼らが加計問題で必死に持ち上げてきた前川喜平・元文科事務次官のように「面従腹背」を座右の銘とし、ひたすら「時」を待って、将来、希望の党の中で小池勢力を「駆逐」すればいいのである。

つまり、「駆逐するか、されるか」という勝敗はともかく、希望の党の将来は、「分裂が不可避」ということである。」

 

 全くその通りだと思う。いくら小池独裁といっても、党内民主主義ぐらいは残すだろうから、その時に小池を追い出せばいいだけの話だ。

しかし、日本人はそういう権謀術数は許さないし、そんなことをする気力が、お情けで小池党に入れて頂いた民進党議員に残っているかどうか疑問だ。

 でも、小池独裁はやはり独裁だから、反逆の気分を少しでも示せば容赦なく「粛清」するだろう。都庁の職員にも気に入らない奴は「しゅくせい」すると言った小池なんだから。