資生堂魚谷社長は日本コカ・コーラの社長・会長等を経て現職に就いています。その間大手通信会社の特別顧問として、将来に自信を失っていた通信会社のマーケティング改革を行いました。

私もその通信会社にいて、わずかながら直接魚谷さんの謦咳に接したことがありました。流石と思わせる発想や柔軟性が社員のやる気を奮起させました。そのまま社長になってくれたらなあという気持ちがありましたが、単にコンサルティングのみで終わってしまい残念でした。

 

その後全く畑違いの資生堂に魚谷さんは社長として迎えられたのを知ってびっくりしました。半分は大丈夫かなという心配とそういう道があるならあの時わが社の社長又は会長という道もあったのにという思いでした。

 

その資生堂魚谷社長のさすがと思わせる記事を見つけました。佐々木洋氏の「10秒で読む日経!」というもの。

まずは日経新聞(2.16)の引用から。

「今月10日、資生堂株が7%安と急落した。原因は前日の取引終了後に発表した201612月期決算。1712月期の見通しについて、連結営業利益を455億円と発表したのだ。


  前期比では24%増と立派なものだが、中期計画で掲げていた目標「500億~600億円」に届かなかったことが失望を招いた。とはいえ、未達額はわずか45億円。多額の販売促進費を投入する化粧品会社にとって、コスト削減で捻出できない額ではない。「なぜ未達になるのか」と「なぜ未達で公表したのか」は、同じようで異なる2つの問いである。


 未達公表は当然の判断だが、ややもすると無理を続けてきたのが、これまでの資生堂だった。
45億円ぐらいの未達は何とかならなかったのか」という記者の問いに対し、魚谷社長は「ずっと販売が伸びない時期が続いた。そこからやっと回復に向かっただけ。中長期でやれと、社外取締役をはじめとする取締役会のコンセンサスも得ている」
 と、解説する。「利益が足りないからとマーケティング費用をカットするのは簡単。だが、これを繰り返してはいけない」。(2017/2/16 日本経済新聞)

 

 この日経記事を佐々木洋氏が批評する。

佐々木の視点・考え方      
読者は良く記憶されたい。上記記事にある決算発表記者説明会でのやり取りと日経記者の暗黙の常識を。
 資生堂は目標に対して利益が約1割足りなかった。これに対する日経記者の考えは「これまでは、未達になりそうだと、販売管理費を減らして、目標達成させるのが常識だったのに、今回そうした操作をしなかったのは疑問」と、決算の利益は、結果ではなく意図して作るものというもの。


 この考えは日経記者の独自のものではなく、他社の新聞記者も「なんとかならなかったのか」と、決算操作をしなかったことを非難する感じの質問をしている。


 つまり、日本の新聞の経済記者は、日本企業が決算数字を操作することが暗黙の常識となっていることが伺える。有利な取材をするためには、担当の会社に深く食い込む必要があるが、その為には被取材側に不利な話は記事にしないのがお約束となる。この必要悪が、会社に決算数字を操作することを可能にしている。


 放射能にまみれてメルトダウンしそうな会社があったが、この会社もまた、お仲間の記者やセルサイドアナリストの遠慮によって決算操作をするのが当たりまえになり、いつしか、決算操作といった易しいものでなく、決算数字を創るという、粉飾が当たり前になった結果、会社がにっちもさっちもいかなくなった。


 会社が悪のスパイラルに入った直ぐのところで、会社側に疎まれようとも、メディアやアナリストが正確に事実を伝えていれば、会社は誤った道を正して健全化していたのではなかろうか。もちろん、記者やアナリストにとって取材対象に嫌われると不利になるが、それでも正しい行動を採らせるために、「取材拒否になった会社の数だけ人事で評価する」等の新聞社や証券会社の姿勢も不可欠。」

(引用終り)

 

 「日本の新聞の経済記者は、日本企業が決算数字を操作することが暗黙の常識となっていることが伺える。」とはいっても、記者が粉飾を容認しているわけではないだろう。

決算とはその手続きのなかで経営思想を表現するものだ。動ける範囲内で動かすことは当然のことだ。税金で利益を持っていかれるくらいなら、早めに投資をして費用化し利益を圧縮できる。これは脱税でもなんでもない。経営方針の選択の一つだ。だから記者も安易な質問をしたのだと思う。

 

 しかし、佐々木氏はそういう発想、つまり記者や投資家、社会的評判への安易な迎合がいつしか「決算数字を創るという、粉飾が当たり前に」なってしまうということを警告しているのだ。

 

 魚谷社長のすばらしいところは、「ずっと販売が伸びない時期が続いた。そこからやっと回復に向かっただけ。中長期でやれと、社外取締役をはじめとする取締役会のコンセンサスも得ている」「利益が足りないからとマーケティング費用をカットするのは簡単。

だが、これを繰り返してはいけない」と至極当然のように解説しているところだ。

 

 普通の経営者、バカ経営者はこういう決算数値を持ってきた財務担当役員を罵倒するだろう。

「お前はバカか。俺に恥をかかせるのか!」と。目に見えるようだ。

 そうなれば、財務担当役員は「はい、わかりました」と答えて、きれいな決算にして持ってくる。

というより、財務担当役員はそもそもバカ経営者であるということを事前に知っているなら、最初からきれいな数値の決算を持ってくる。これが企業風土というものだ。それが東芝だろう。

 

 しかし、魚谷社長は自ら健全な企業風土を率先して作ることにしたのだ。もし格好のいい数値を社長が指示してしまえば、それが企業風土となる。そんなことをしながら、会社の変革をしようと旗を振ったって誰も信用しないし、ついて来やしない。日本の社長がみんなこうなら誰も苦労はしない。

こういうことをする社長が稀有だから佐々木氏は評価をしたのではないか。

 

 中国の企業についての面白い調査がある。

「大手会計事務所のアーンスト・アンド・ヤングが16年に中国本土の経営者を対象に行った調査では、業績悪化時に利益を水増しするといった不正行為を支持するとの回答が56%にも達した。」

(「勝又壽良の経済時評」より)

 

 これを読んで「最初はさすが中国だ、こんなことだから中国はまともな国にならないんだ」と笑ったものだが、よくよく考えると日本も笑えたものではない。景気が良ければ粉飾なんぞやるわけはないが、会社の調子がおかしくなったときどうするかだ

 

「不正のトライアングル」という考え方がある。

 不正行為は、①機会、②動機、③正当化という3つの不正リスク(「不正リスクの3要素」)がすべてそろった時に生起すると考えられている。

 「機会」とは、不正行為の実行を可能ないし容易にする客観的環境のこと。つまり、不正行為をやろうと思えばいつでもできるような環境のことだ。

「動機」とは、不正行為を実行することを欲する主観的事情のこと。つまり、自分の望み・悩みを解決するためには不正行為を実行するしかないと考えるに至った心情のことだ。例えば、横領行為の場合、「借金返済に追われて苦しんでいる」等の事情が、これにあたるでしょう。

 最後の「正当化」とは、不正行為の実行を積極的に是認しようとする主観的事情のこと。つまり、自分に都合の良い理由をこじつけて、不正行為を行う時に感じる「良心の呵責」を乗り越えてしまうことだ。

 

 企業の不正は単に社外取締役や監査役を整備・強化しただけでは防止できない。「不正のトライアングル」についての強い認識がなければならない。特に最後の「正当化」。

東芝の粉飾については、これまでのトップが絶対に「正当化」をしてきたものと思われる。

 

 粉飾しなければ華麗な東芝の歴史に泥を塗るとか従業員が路頭に迷うとか、そしてうまく誤魔化して会社を上向かせれば問題は解消できると。

ギャンブルですってんてんになったとき、一発挽回できればいいのだと更にのめり込んでいくのと同じだ。

だから、この「正当化」が一番怖い。

 

 この「不正のトライアングル」から抜け出るには、①機会、②動機、③正当化という3つの不正リスクを許さない企業風土、組織風土をトップが率先して作り上げるしかない。それは鳴り物入りでやる必要はない。自然な態度で、よくないものはよくない、企業としての倫理観をもってやればいいのだ。

 

 しかし、経営者は株主や投資家のプレッシャーにさらされており、不正の誘惑もまた大きい。しかしこれは経営者をどう捉えるかによって異なってくる。

 

 経済学者岩井克人氏は明確に、「経営者は株主の代理人などではない」と述べる。では経営者とはいったい何者か。経営者とは、会社と「信任関係」にある人間である、と。

「信任関係」とはどういう関係か。岩井克人氏の著書から引用する。このように捉えることにより、企業は健全に運用されるのだと。

 

「…「信任関係」をここでは、「一方の人間が他方の人間のために、一定の仕事を信頼によって任されている関係」と定義しておきます。では、この信任関係とはどういう関係なのでしょうか。

一人で夜勤をしている救急病棟の医師。意識がない救急患者が運ばれてきた。当然この患者は医師と契約を結ぶことができない。だがそれにもかかわらず医者は患者のために緊急手術を行ないます。ここでは意識のない患者は、事実上の信頼によって救急病棟の医師に自分の生命を救う仕事を任せているわけです。すなわち医者は患者と信任関係にあるわけです。

 会社とその経営者との関係と同じ構造をしている。法人としての会社は法律上はヒトですが、現実にはモノでしかない。無意識の患者と同様に、自分自身では資産を管理することも契約を結ぶこともできません。従って、それ自体は意識のない会社も事実上の信頼によってみずからの資産や契約を経営者に任せざるをえないのです。

 

また、意識のある患者の場合でも、少なくとも部分的には、信頼によって自分の身体や生命を医者に任せざるをえないのです。同じことは、依頼人と弁護士、投資家とファンドマネージャーにおいても言えます。たとえ契約関係であっても、専門的な知識や情報が必要な分野では、非専門家と専門家の間には、必然的に信任関係が入り込むことになるのです。

 

 契約関係とは、原則的には対等な人間同士の関係です。それは、当事者の自己利益の追求によって維持され、結果に関しては自己責任の原則が貫かれます。これとは対照的に、信任関係とは、対等性を欠いた人間関係です。一方が他方に信頼によって仕事を一方的に任せている。それは全く危なっかしい関係です。ではこのような一方的な人間関係は、いったいどのようにして維持されているのでしょうか。

 

 信任関係とは、信任受託者が信任預託者に対して「忠実義務」を負うことによって維持されるのです。ここでいう「忠実義務」とは、一般に「一方の人間が他方の人間の利益や目的のみに忠実に一定の仕事をする義務」として定義されています。

 経営者と会社の関係でいえば、経営者は報酬を引き上げたいとか財界での地位を高めたいとかいう望みを持っているかもしれません。しかも、経営者は秘密裏に行われている合弁活動の案件や大型投資企画など会社の内部情報を他の誰よりも詳しく知っており、情報操作により簡単に自分のストックオプションの価値を高めることができる。それでも経営者は、自己利益の追求は最小限に抑えて、会社の利益向上に忠実な経営を行う義務を負っているのです。

 しかもこの忠実義務は、法律によって強制される法的な義務なのです。実際忠実義務を怠ると、背任罪として罰せられます。

 

 「自己契約」は契約ではないという原則は、契約法の大原則です。だが、2人以上の人間同士の関係において、もしその関係を契約によって維持しようとすると、必然的に一方の当事者の自己契約になってしまう場合、この原則は衝撃的な意味を持ちます。なぜならその場合は、「契約によって維持することが絶対に不可能な人間関係」の存在を示してしまうことになるからです。実際、私たちの社会において、そのような人間関係は、無数に存在します。それがまさに様々な「信任関係」にほかならないのです。

 

 もし無意識の患者と救急病棟の医師とが契約書を交わすとしたら、その契約は実質的にはすべて医者が一人で書き入れたものになってしまいます。法人としての会社とその経営者が契約書を交わすとしたら、会社を代表して契約書に署名するのはまさにその経営者ですから、それも経営者の自己契約になってしまいます。ということは、信任関係を契約法によって律することは絶対的に不可能だということです。契約法しかない世では、界の中そのような人間関係は搾取の危険によって崩壊してしまいます。私たち市民社会が貧しいものになってしまわないためには、一方の当事者が自己利益の追求を抑え、他方の当事者の利益を優先して仕事をすることをみずからに義務づけることが必要になるのです。それが「忠実義務」にほかなりません。

 

 1980年代後半からアメリカにおいて、天文学的報酬を受け取るスーパー経営者がなぜ登場したのでしょうか。その経営者の超能力への当然の対価であるという人もいます。しかし、2008年の金融危機は彼らが生み出した張本人なのに、かれらの報酬はほとんど下がる傾向はありません。これは、会社統治論からみればその答えは明らかです。1980年代アメリカの経済学界やビジネス界において、会社統治問題(コーポレートガバナンス)がエージェンシー問題に還元されるようになったからです。信任関係であるべき「会社」とその経営者との関係と、単なる契約関係にすぎない「企業」とその経営者との関係とが混同されてしまったからです。

 

 株主主権の名のもとに、株主の賛同さえ得られれば経営者を会社に対する忠実義務から免除する可能性が開かれ、株価最大化の名のもとに、経営者にストックオプション制度などのインセンティブ報酬を与えることが奨励されるようになったからです。すなわち、倫理的かつ法的な義務がアダム・スミス的な自己利益追求に置き換えられてしまったのです。

 それは、まさに経営者に「自己契約」をする自由裁量権を与えてしまうことに等しい。そしてその必然的な結果として、「お手盛り」で報酬額が決められ、経営者報酬の急膨張を引き起こしてしまったのです。」(引用終り)