和歌山県御坊市の小中学校や幼稚園に通う子どもなど、600人以上が下痢やおう吐などの症状の食中毒にかかったそうだ。同じ給食センターで調理された給食が原因の集団食中毒らしい。

 NHKのニュースでは

「センターでは加熱調理したあとの料理の温度を測ったり、肉など、生ものを触る際には手袋やエプロンを取り替えたりするなど、マニュアルに基づいて衛生管理をしており、給食センター長は「センターで調理した給食に原因がある可能性が高い。日ごろから衛生管理に気を配っていただけに、とても残念で、本当に申し訳ない。」と語っていた。

 

 最近は広域給食センターで調理して配送しているようだから、センターに原因があれば被害も拡大する。だから、センターの衛生管理はかなり厳しくやっていることだろう。

 

 しかし、ニュースを見ていて「生ものを触る際には手袋やエプロンを取り替えたりする」というところに違和感を覚えることがあった。というより、いつも変だなと思っていることなんだが、調理をする際にポリ手袋をするようになったのはいつの頃なんだろうか。

 

  最近は寿司(高級鮨屋は別として)でもポリ手袋をしてしゃりを握っている。食べ物の素材に手が触れるようなときは必ずポリ手袋をしている。さも清潔、衛生を考えていますよというふうに。

 

  なんだか不味そうな握り寿司

 素手はそんなに汚いんだろうか。ポリ手袋をした手はそんなに清潔なんだろうか。ポリ手袋が清潔なんて幻想なんじゃないか。素手もいつまでもそのままなら汚い。しかし、素手は汚れればすぐに水で洗い流せる。

  しかし、ポリ手袋は汚くなったら、必ず取り換えているだろうか。素手のときに手を洗う回数と同じくらい取り換えているだろうか。あり得ない。たまには取り換えるかもしれないが、ほんの数回だろう。とすれば、ポリ手袋のほうがよほど汚いといえるのではないか。

 

  素手は汚れの感触がすぐわかるから少し汚れたと思えばすぐ水で洗うことができるが、ポリ手袋はそういう微妙な感触はわからないから、いつまでも汚れたまま使い続けるにちがいない。

 

以前スーパー内のベーカリーでパンを購入し、レジに持っていった。ポリ手袋をした店員はパンはトングで挟んで袋に入れたが、お金を払う時、小銭を店員はポリ手袋をしたまま扱った。店員は汚い小銭を扱ったポリ手袋を替えるだろうか。そうはしないだろう。ポリ手袋はきれい、と勝手に思いこんでいるから。

 

 ポリ手袋をした手は清潔だという幻想というか信念がありすぎて、実は不衛生なことをしているのではないか。そして、マスコミというか一般人の感覚もそういう幻想の中にあるのではないか。

 

御坊市の給食センタのマニュアルには「生ものを触る際には手袋やエプロンを取り替えたりする」と書かれていたそうだが、何度も頻繁に替えよと書かれていたのだろうか。少し疑問がある。

 

「ポリ手袋をした手」の意味は、「素手で扱っていない」という意味だけが独り歩きしているのではないか。衛生的には全く不自然で、素手の方が衛生的な場合があっても、「ポリ手袋」=衛生的の観念が先行していやしないだろうか。

 

しかし、素手で生ものを扱っても全く問題にしない世界がある。高級鮨屋のにぎりと和菓子職人の和菓子作り、そば・うどんの粉をこねるときなどだ。

 

  もし衛生観念を極端に発揮するなら、あの大トロ(食べたことないけど)をポリ手袋をした手で握れというべきだし、微妙な和菓子もポリ手袋をした手で作れというべきだ。

 

 

しかし、そんなバカな日本人はいない!ここには清潔とか不潔という概念を超越したものがある。

  不潔かもしれないが、それでもいい、と言っているのではない。素手で握ることがそもそもそこに不潔という観念がないのだ。

 

素手=不潔という観念は、最近になってバカな人間が勝手な合理主義を持ちだして、押し付けたもの。それに堂々と反論できなかった日本精神の衰えが反映しているといえるのだ。

 

こういう合理精神というか屁理屈が蔓延してくると、鯉に酒を飲ませた神事(?)にいちゃもんつけて、鯉が可哀そうだなんていうバカ者が出てくる。鯉が可哀そうなら、生き物を殺さなければ食材にならない魚も肉も食えなくなるぜ。

 

ポリ手袋と関係なくなったようだが、理屈だけを上っ調子に述べられたら、グーの音も出ないような軟な日本人にはなって欲しくないということだ。